ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
感謝は誰にするの?
誰に感謝をすればよいか、もうおわかりでしょう。もし自分が誰かのおかげで幸福になったのなら、おかげを被ったその人に感謝すればいいのです。何かのシステムで今日一日がラッキーだったというのなら、その自分を取り巻いたシステムそのものに感謝すればいいことです。いわゆる「感謝」という感情は非常にいい、大切なものですから仏教でも奨励しています。ただそれは大変いいことなのですが、問題は感謝する対象であって、自分に関係のない見ず知らずの人に感謝したところで何の意味もありません。
たとえば、あなたの前に突然知らない人が訪ねてきて、「いろいろお世話になりまして有難うございました」などと言い出したら、あなたはびっくりするでしょう。「この人は何か勘違いをしているのではないか、ちょっと変な人だなあ。アタマでもおかしいのかなあ」などと思い始めるかもしれませんね。あるいは気味が悪くなってくるかも知れません。そうなると、その見ず知らずの人の好意は逆効果になってしまいます。
何か良いことがあったり、願いが叶ったりすると、神さまありがとう、仏さまありがとうなどと感謝することはよくあることです。しかしこのことをよく考えていくと、ちょっとおかしなことに気がつきます。大体、この感謝をするという、その感謝の対象となるのは一体誰なのでしょうか。
あなたがお母さんのお金を使って新車を買ったとしましょう。そのときあなたがまったく見ず知らずの関係のない他人に向かって「私は新車を買いました。本当にありがとうございました」と言ったとすると、まったくトンチンカンな言動であることがすぐわかるはずです。この場合、自分のお母さんのお金を使ったのだから、お母さんに感謝するのは当然でしょう。感謝する気持ちを表わす基本はとても単純なことです。恩を受けたその相手に対して感謝の気持ちを持つということです。見ず知らずの人に感謝しても仕方ありません。
育ててくれた親に感謝する、勉強や社会的なことを教えてくれる先生に感謝する、面倒をみてくれる目上の人に感謝する、自分の教養を高めてくれる知識人に感謝する、自分より道徳的に高い人に感謝する……。
仏教では、祈る対象を捜し求めるよりも自分が恩を受けた人達に対して常に感謝することを奨励しています。お釈迦さまは、「自分を少しでも助けてくれる人があったら、一生その人の恩は忘れるな、恩を忘れるのは人間として失格である」とまでおっしゃっています。
「おかげさまで」のお陰で
日本では仏教を敬遠する人も多いのですが、この仏教嫌いのはずの日本人が、結構仏教の精神に則った日常行動をしているからおもしろい。日本人のよく繰り返す挨拶言葉に、「おかげさまで」というのがあります。例えば、どこかの病院に入院していて、退院できたとする。すると近所の人と道ですれ違ったときなど、「その後いかがですか」などと訊かれます。そうすると、その人がお見舞いに来てくれたわけでもないのに、「はい、おかげさまで良くなりました」などと答えるのです。お医者さんの力や自分の治りたいという気持ちで治ったのに、全然関係のない近所の人に、あたかもその人の力で治りでもしたかのように、
「はい。おかげさまでよくなりました」
あれは一体どういう心理なのでしょう。それは、お見舞いには来なかったけれども、多少なりとも自分のからだの具合を気遣ってくれたという好意に対しての感謝の思いが「おかげさまで」という言葉となって出てくるのです。この感謝の気持ちは、まさに仏教の教える感謝の精神です。
仏教では、誰に感謝するにしてもちゃんとした理由があります。仏教で、仏法僧に礼をするというのも、この世の真実を教えてくれた先生だからであって、ただやみくもに感謝せよと言っているわけではありません。感謝するのは仏法僧でなければ、この教えを頂けないからに他なりません。得体の知れないものにただ感謝しているのではなく、教えを頂いた師に対しての礼なのです。その師は我々からいえば乗り越えられないほど大きく偉大な存在なのです。
正しい生き方や心を清らかにする方法を教えてくださったお釈迦さまに手を合わせて感謝する行為を無意味な盲信だと思う人もいます。しかし、手を合わせるのは、目に見えぬ偉大なる存在を拝むことでもなく、目の前にある仏像という物体に何か霊力があるからでもないのです。
師としてお釈迦さまに手を合わせることは、恥ずかしい盲信でもなんでもありません。ごく当たり前の人間としての道徳なのです。第一、その初歩的な人間らしい心がなければ、到底悟りなどひらくことはできません。
自分にとって両親への恩というのは、どんなに頑張っても返せないほど大きなものだそうです。両親が自分にかけてくれた愛情、育ててくれた苦労は、どんなに大金を払っても払いきれない尊いものなのです。ですから、どんなに感謝しても感謝しすぎることはないのです。
その両親への感謝以上に、仏法僧への感謝は大きいのです。仏法僧から教えてもらう心を清らかにする法というものは偉大なものであり、それは両親の愛情をもってしても及ばないといいます。だから礼をするのだと仏教では教えるのです。
仏法僧に対するものにせよ、両親に対するものにせよ、それへの感謝の気持ちや祈りは、決して妄信的なものでも依存的なものでもなく、明らかに根拠のある確固とした礼節なのです。
感謝して自分の借りを返そう
その顕れとして、私たちが慈悲の実践をする理由を考えてみて下さい。慈悲の実践は「生きとし生けるもの」という確たる対象があって、それに慈悲喜捨の気持ちを向けることです。「天にましますわれらの神さま、ありがとうございます」というような曖昧な概念、正月だけ神社や寺に行って知らない神さまや仏さまを拝んで「何とか今年も一年無事でありますように」とお願いするような依存心だけの曖昧な思考とは異なる論理的な行為なのです。
私たちの毎日の生活、人生はすべての生命のお陰によって成り立っているのです。私の着ている衣ひとつとってみてもどれほどの人の手を経てできたものかわかりません。糸、染め、織り、またその機械を作った人や、システムを開発した人など、何十人何百人もの人間の協力でできあがったものです。何気なく手にするこの衣の背後に、どれほどの人が介在しているのでしょう。
紅茶はもともと東洋のものですが、缶を作るシステムや畑で量産する現代のシステムはヨーロッパ人が考えたものもあり、今日口にする紅茶には東洋も西洋も全部入っていますね。
ですから、その紅茶を飲むときには、日本風に「いただきます」「ありがとうございます」と飲むことは正しいと思います。紅茶一杯飲めることも、ひとつの幸福です。それができたのは、すべて多くの人のおかげです。皆さんのお陰でできあがったものですから、誰かわからない相手に感謝するのではなくて、やっぱり「生きとし生けるものが幸福でありますように」といって感謝するべきではないでしょうか。
一杯の紅茶を飲んで幸福だと感じるならその幸福をくれた相手、つまり「生きとし生けるもの」への幸福をお祈りする義務がついてくるのです。
そういうことをしないと、しない分だけ借りをつくったことになります。おいしい紅茶を飲んで、「神さま、仏さまありがとうございました」といっても、借りを返したことにはなりません。お釈迦さまははっきりとおっしゃっています。「生きとし生けるものが幸せでありますようにと心から祈ることで、自分の借りは全部消えるのだ」と。お坊さんたちにも、このことを厳しく戒めておられます。
要するに、毎日、瞬間でもいいから、慈悲の実践をするべきなのです。そうしないと私達は借金だらけになってしまうのです。食べること、着ること、電気も建物も、なんでもかんでも人のお陰で頂いているものであって、何一つ自分ひとりの力だけで得たものはないのですから。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日