ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
2 仏教とはなんでしょう
「仏教」とは「ブッダの教え」
神や仏という概念を作ってそれに向かって祈ったり、感謝したりすることで、宗教―信仰という形態を人間はつくってきたのですが、そういう宗教と我々の仏教とは、一体どこがどう違うのでしょう。
皆さんは、長い間仏教の勉強をされてきたでしょうが、この辺でもう一度原点に戻って、いったい仏教ってなんだろう、という命題を考えてみませんか。多少なりとも仏教を勉強している人が初心に戻って「仏教とはなんぞや?」と反芻してみることは、案外自分をチェックするいい試みなのです。
そしてそのことは、仏教本来の目的である、自分の心をいつも清らかにして幸福に生きる、自分のまわりの人々も幸福になるためにはどうしたらいいかを考えるいい機会になるのです。
仏教は英語で言うとBuddhismとなります。このブディズムという語は「仏教・ブッダの教え」という意味で使っています。私たちは本来のパーリ語でも「宗教」という言葉は使いません。何時でもこの「仏教・ブッダの教え」という言葉を使っているのです。
一方、ヨーロッパやアメリカの現代用語には、「宗教」という概念があって、英語でも religion という語を使うのです。このレリジョンという語は「宗教・信ずるもの」という意味であって、つまるところ「信仰」です。このレリジョンはラテン語の religare からきていて、結ぶ、束縛するという意味の言葉なのです。人間があまりに勝手な行動をするものだから、再び神に繋げておく、ということを意味しているのです。
このような、いわゆる「信仰」というような言葉は、仏教の世界には、もともと意味からしてありません。つまり仏教は、宗教・信仰ではなくて、「教え」なのです。
私たちはこうして世の中を生きていて、人生の役に立つことをどうやって得ていますか。たった一人の教えによって人生を生きているわけではないでしょう。それぞれの時代、それぞれの分野で、さまざまな先達の教えを自分の人生の手助けとして勉強して、必要なことを取り出して実行しているのです。
例えば、医学を究めたお医者さんのいるお陰で我々の毎日の健康は保たれているのではないでしょうか。こういうものを食べたらお腹をこわすとか、からだを冷やしすぎれば熱が出て、異常な事態になる等という知識を得て、自分の人生の健康面に役立てているのでしょう。子どもの頃に、国語や算数を学んだおかげで、本が読めたりいろいろな文章が書けたり、計算する力がついたりして、役に立っているのではないでしょうか。
「ブッダの教え」もそのひとつなのです。ブッダは、医学や語学や数学ではなく心のはたらきについて教えてくれたのです。この人生でどうやって自分の心を全うするか、どうやって心の悩みをなくすか、どうやって完全な人格をつくるか、その方法を教えたのです。「ブッダの教え」によって、私たちは自分の心の未熟なところ、いけないところを全部なおして、磨いて、いわゆる完全な人格をつくること、完全な姿になることを学んでいくのです。「完全なる人間、完全なる生命」になる方法がブッダの教えで説かれているのです。
ということは、その教えを実践する、実行してみるということから言えば、それは決して「宗教」にはなり得ないのですね。失礼な例になるかもしれませんが、キリスト教という宗教では人間は決して神にはなりません。仏教では、修行さえ成功すれば皆ブッダと同じく悟りをひらくのです。ですからどう考えてみても、それはブッダの「教え」なのです。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日