仏道の八不思議
pahārāda suttaṃ お釈迦様の教えの特色
アルボムッレ・スマナサーラ長老
仏道の八つの不思議
次に、パハーラーダはお釈迦様にこのように質問しました。
「尊師よ、我々が大海が好きなように、比丘たちは教えが好きで、喜びを感じて修行をしているのでしょうか?」
お釈迦様は答えました。「仏弟子たちは仏道に満足して修行しています」
パハーラーダはお釈迦様に尋ねます。「尊師よ、比丘たちが満足して修行する仏道の不思議なことは、いくつありますか?」(そんなに満足するということは、何か不思議なことがありますか? それはいくつありますか?)
お釈迦様は答えました。「パハーラーダよ、大海に八つの不思議があるのと同じように、仏道にも不思議な特色が八つあります」
これは仏典の教え方の一つです。相手が大海の不思議を「八つ」言いました。そこでお釈迦様も、「八つ」の項目をあげて、仏道の不思議(特色)を説かれるのです。
智慧を徐々に完成する段階的システム
1. Imasmiṃ dhammavinaye anupubbasikkhā anupubbakiriyā anupubbapaṭipadā, na āyatakeneva aññāpaṭivedho.
大海は徐々に深くなる。最初から深淵ではない。この教え(仏教)も、徐々に学び、徐々におこない、徐々に実践するものである。初めから(突然)解脱に達するのではない。
[ 解 説 ]
仏教の道は、幼稚園から大学卒業まで進む教育システムのようなものです。仏道の良いところは、どんな人でもその道を歩めば「最終解脱に達する」というところです。ですから、自分には能力がないなどとあきらめる必要はありません。この道に入ったら、最初からきちんと学べばよいのです。
仏教は教えを整理整頓して教えています。ですから、学んでいくうちに知識は発展していきますし、膨大な量の真理の知識が頭に残るのです。自分でも、ここまで知っているのかと不思議になるほどいろいろなことが理解できるようになるでしょう。世俗の勉強はむずかしいですし、つまらないし、やりたくないかもしれません。でも、仏教は最高の教育手段を使っていますから、いやな気分にはなりません。まじめに勉強するなら、やる気は自然に湧いてくるのです。
むかし西洋では、「神の教えこそが唯一正しい教えだ」ということを仏教の国々にも布教しようと考え、西洋の研究者たちは「敵を知る」ために仏教を研究しました。それでどうなったかといいますと、仏教の研究がおもしろくてやめられなくなり、結局、一生かけて仏教を研究し、たくさん論文を書いて発表するようになったのです。それで仏教はキリスト教に潰されるどころか、逆に西洋のキリスト教社会にも広がっていきました。仏教を最初に西洋に紹介したのは牧師さんや神父さんなどキリスト教の聖職者たちです。仏教を勉強するとどれほどおもしろくなるかということが、このエピソードで理解できると思います。
仏教はしっかり人を育てます。それも、その人に何も負担をかけないようにして、なんのことなく段階的に進むようにするのです。だから初期仏教を知っている人は、子供でも論理的にものごとを考えます。これは仏教の特色で、仏教を学んだら、けっこう大物になるのです。
仏教は、学ぶ人の心を徐々に向上させます。大きく三つの段階に分けることができます。まずは「anupubbasikkhā」です。悪行為は何か、善行為は何か、親孝行をすること、道徳を守ることなど、仏教の基本的なところを学ぶことです。次に「anupubbakiriyā」です。これは行おこななうことで、生活習慣や行動をいろいろ正していくことです。それから「anupubbapaṭipadā」です。実践面でも最初のステップから始めて順々に進んでいきます。そして最後に覚りに達して解脱に至るのです。
他宗教の場合は、だいたい一発で最終目的に達せられるようなニュアンスで語られているようです。それも神を信じたり、懺悔したり、祈ることなどの単純な行為のみで最終目的に達せられます、と。ヒンドゥー教も同じで、簡単な行ぎょうをおこなうだけで十分だと考えているようです。一部に冥想も必要だと言う人がいますが、その冥想法も徐々に成長していく冥想ではなく、まず神と霊魂を信じ、その後、冥想を通じて神秘体験するという冥想です。うまくいったなら、神と霊魂が一体になったと満足して終了するのです。
仏教の冥想は、このような神秘体験を目指すものではなく、智慧を徐々に開発して、完成へと導きます。それから解脱に達することで、修行を完了するのです。最初から無理な修行は求めていません。まずは誰にとっても実践しやすいところから始めて、成長するにしたがって修行の中身を深めていくという方法です。ですから、仏道は誰にとっても実践しやすい道なのです。
お釈迦様は今から2550年以上も前に、ご自身が発見された「覚りへの道」を段階的なシステムにして、人々にわかりやすく教えられました。これが仏教の第一番目の不可思議なところです。
持戒で優柔不断を断ち切る
2. Yaṃ mayā sāvakānaṃ sikkhāpadaṃ paññattaṃ taṃ mama sāvakā jīvitahetupi nātikkamanti.
大海が安立して岸を超えないように、仏弟子たちは命にかえても戒律を守る。
[ 解 説 ]
お釈迦様の弟子たちは、自分の命よりも大事に戒律を守ります。戒律の意味を理解している人は、自分の命よりも大事に戒律を守るのです。
ここは理性に欠けている人々にとっては誤解しやすいポイントですので、注意が必要です。たとえば誰かが「断食は戒律であり修行である」と言ったとしましょう。命よりも戒律を大事に守るという場合には、どんなに空腹で死にそうであっても「断食をやめます」という態度はとれません。それで、死ぬ羽目になってしまいます。お釈迦様は、このような苦行めいた常識外はずれの戒律は定めていません。お釈迦様が定めたのは、理性のある人なら誰でも正しいと言わざるをえない戒律・道徳なのです。
仏道に入って最初に学ぶべきことは、戒律・道徳です。これは盲目的に守るのではなく、戒律や道徳は何のために、何を目指して守るのかと、その意味をしっかり理解して、実践するのです。意味や目的を理解して納得すると、戒律を守る勇気が湧いてきます。他人に誘惑されて戒律を犯すような優柔不断な人間ではなくなるのです。
戒律・道徳は、人間が自分たちの好みで編み出すものではありません。生命の法則を理解するなら、自然に成り立つものだということがおわかりになるでしょう。お釈迦様が定めても定めなくても、道徳は普遍的に成り立つものなのです。たとえば「不殺生戒」という戒律について考えてみますと、なぜこの戒律があるのでしょうか? それは、どんな生命も「死にたくない、殺されたくない」という気持ちがあるからです。「殺さないでくれ」と必死に泣いている生命を殺すのは、すごく残酷なことではありませんか? それで「殺してはならない」ということが自然法則として善い行為になるのです。殺されたくない、死にたくない、という気持ちは、どんな生命にもあります。これは生命の法則の一つです。この法則によって、「殺さない」ということが自然に善い行為になるのです。したがって、不殺生戒は人が人為的に定める必要はないのです。
でも、私たちはそうした法則など知りません。知ったとしても、無視します。自分さえよければいいという我わがまま儘な気持ちで、自分の勝手な都合で、他の生命を殺すのです。気持ち悪いから殺すとか、イヤだから殺すとか、迷惑だから殺す、人に何か言われたから殺す、楽しいから殺す、趣味だから殺す、敵だから殺す、殺される前に殺す、食べるために殺すなど、まったくいい加減な言い訳を付けて殺します。最近は、「殺したいから殺す」という恐ろしい人間も現れているほどです。ですが、被害者になる生命は当然のこと殺されたくはありません。ということは、殺生は自我のあらわれです。「自分こそが偉い」「自分だけに生きる権利がある」などという高慢や邪見のあらわれなのです。
そこで、「殺生しない」と決めた人は、心から徐々にこの自我の錯覚が消えていきます。高慢も邪見も無くなって、心が清らかになります。他の生命を殺さない人は、他の生命にとって安らぎを感じるやさしい人間になるのです。
この意義が理解できると、「たとえ自分が殺されそうになったとしても他の生命を殺さないことが正しい生き方だ」ということが納得できるでしょう。このようにアリ一匹にたいしてもその命を尊重し、殺意を持たない人のことを、他の人は殺すことなどできません。それでも、極悪人が殺そうとするかもしれません。その場合も、不殺生戒を守っている人は、その人にたいして怒りも憎しみも起こりませんし、恐怖感さえ起こりません。代わりに、無知で悪行為をする相手のことを心配して憐れむのです。どんな人でも、どんな極悪人でも、自分のことを心配してくれる人のことを殺すことなどできません。それで命が守られるのです。ですから「戒律を命をかけて守ります」が、それは決して「修行という名目でおこなわれる自傷行為」にはならないのです。
戒律の例として不殺生戒を挙げましたが、不殺生戒以外の戒律も、学んでみると、すべて自然に成り立つものであるということが理解できるでしょう。ですから当然、自分の命よりも大事になるのです。在家の方々にとっては理解するのがむずかしいかもしれませんが、もし「自分の命よりも戒律が大事」という気持ちで戒律を守るなら、戒律の威力をありありと感じることができるでしょう。
出家には多くの戒律があります。それらも「自分の命よりも大事」というスタンスで守らなくてはならないのです。ただ、戒律を守ることがどうしても無理だと弱気になった人には、還俗する自由も与えています。
仏教は芯の弱い人を強くします。優柔不断をなくし、確信を持って生きる強い人間をつくります。無知な人に誘惑されない強い精神をつくります。戒律を守る人には、落ち込みや悩みはないのです。
サンガはオープンなのに汚れない
3. yo so puggalo dussīlo pāpadhammo asucisaxkassarasamācāro paṭicchannakammanto assamaṇo samaṇapaṭiñño abrahmacārī brahmacāripaṭiñño antopūti avassuto kasambujāto, na tena saxgho saṃvasati; khippameva naṃ sannipatitvā ukkhipati.
大海が死骸や腐敗物と同居しないのと同じように、道徳がなく、悪に染まり、隠しごとのある出家・修行者の偽にせもの者、(心の)中身が朽ちている者から、サンガは離れる。
[ 解 説 ]
簡単に言いますと、サンガ(僧団)の中にあやしい者や疑わしい者がいれば、サンガはその人を仲間に入れません、という意味です。
出家の目的は、はっきりしています。真理を発見して解脱に達することです。出家する際、出家を請うときの言葉がありまして、「輪廻の苦しみを超えて涅槃に達したいので、出家させてください。お願いします」と言わなければなりません。しかし口ではそのように言っていても、心の中で別の目的をもって出家する人もいるのです。
たとえば、インドでは修行者は托鉢をしますが、托鉢をしても、それほど貰えるということはありません。でも仏弟子は貰えるのです。なぜかはわかりませんが、仏教の場合はあまり困ったことがないのです。それを見て、「仏教の出家グループに入ったら食べ物と住む所は心配しなくてもいい。楽に生活できる」などと考えて、いい加減な気持ちで出家する人もいるのです。また「僧侶は格好いい。一般の人々から尊敬される」などと尊敬や名誉、利益を得るために出家する人もいます。お釈迦様の時代でも、仏教を破壊する目的や教えを盗む目的で出家した人もいました。そういう人たちは、出家のグループに入ってから、かなり迷惑をかけたのです。
他宗教の人や何か信仰をもった人が、いきなり仏教の出家グループに入って来ると、困ります。なぜなら、教えの内容がまったく異なるからです。そこでお釈迦様は、一般の人が出家したいと言ったらだいたいOKしますが、他宗教の人や修行者が出家したいと言ったら、すぐにはOKせず、代わりに仮に出家を認める仮出家を与えました。まず調べるのです。三か月間、出家ではなく仮出家としてサンガといっしょに生活し、その間お坊さんたちはその人のことを見ています。見ているといいましても、出家したら集団の中で生活しますから、隠しごとは一切できませんし、隠れて食べたりとかもできません。プライバシーは全くない世界で、みんなザーッと一緒にいるのです。いつでも誰でも見ているのですから、特別に見張り役をつける必要もありません。それで三か月間が終わって、その人に何も問題がなかったら、出家を認めます。そこまで気をつけていたのです。
それでも、仏教はオープンですから、汚れた目的を持つ人たちがサンガに入って来ます。そうすると、仏教は壊れてしまいます。それらから仏教を守らなくてはなりません。そこでお釈迦様はこのようになされました。極重罪(pārājika)を一つでも犯したら、本人が報告しようが、隠そうが、他人に知られようが、それに関係なく、その人はサンガの一員としての資格を完全に失うということです。追放されるのです。お釈迦様はそういう人がいるなら追い出してくださいとおっしゃいました。あなたは関係ないから外へ行ってくださいと。
戒律を破ると、修行は進みませんし、覚ることもできません。これは当然のことです。戒律を破ったということは、仏教にたいする信頼性がないか、自分にたいしてあまりにも甘いか弱いかのどちらかです。自分にあまりにも執着がありすぎて戒律を破り、それでも冥想すれば覚れますよ、ということは絶対にありえません。戒律は仏道の基盤となるものですから、戒律を破る人は、その時点で仏道から外はずれていますし、サンガの一員ではないのです。
この三番目の項目は、二番目の項目の「大海が安立して岸を越えないように、仏弟子たちは命にかえても戒律を守る」の内容と反対のことを言っているのではないか、と思われるかもしれません。前の項目では「仏弟子は自分の命よりも大事に戒律を守ります。戒律は破りません」という内容でしたが、こちらでは仏弟子の中で「戒律を破る人」のことを言っているのです。「破りません」と言ったのに「破ってしまう人」のことです。
戒律を破った時点で、あるいは戒律を破る目的で出家した時点で、その人はあやしい者です。あやしい者がサンガに入ることはいくらでもあります。海にも、汚いものは流れて来ます。海にはそれを阻止することはできません。ゴミや死骸が流れ込んで来るのをどうやって阻止できるでしょうか? できないのです。でも、海に流れ込んで来たものは、海はきれいさっぱり捨て去ります。同様に、仏教のサンガの組織もオープンですから誰でも出家することはできますが、心が汚れている者や戒律を破った者は、なんのことなく外へ追い出されるのです。
誰もが「平等」な世界
4. Evamevaṃ kho, pahārāda, cattārome vaṇṇā_khattiyā, brāhmaṇā, vessā, suddā, tetathāgatappavedite dhammavinaye agārasmā anagāriyaṃ pabbajitvā jahanti purimāni nāmagottāni,’samaṇā sakyaputtiyā tveva saxkhaṃ gacchanti.
ガンガー、ヤムナーなどの大河が大海に流れても、すべて潮になるように、四つのカースト(王家、バラモン、商人、使用人)が仏道に出家したら、古い氏名を捨てて、皆「釈迦子沙門」になる。
[ 解 説 ]
インドの社会にはカースト制度があり、王家、バラモン、商人、使用人の四つの階級に分けられています。
「王家」というのは、土地の権利を持っている人、いわゆる地主のことです。インドでは現代日本のように誰でも土地を購入できるということはありません。一部のカーストが土地の権利を握りしめているのです。インドへ行ってみると、見るかぎり農業が盛んなのですが、実際に農業に携わっている人たちは自分の土地を少しも持っていません。土地はすべて大金持ちの地主のものなのです。ですからここでは「王家」と訳されていますが、それよりも広い意味を表す「地主」と訳したほうがよいと思います。
それから、「バラモン」というのは聖職者のこと、「商人」というのは普通の人のこと、「使用人」というのは召使いや奴隷のことです。
これらどのカーストからも、仏教に出家することができます。仏教にはカースト制度はありません。出家したらみんな自分の名前を捨てて、お釈迦様の弟子である「釈迦子沙門」になるのです。パーリ語の「sakyaputtiyā」とは、お釈迦様の息子たち(子供たち)という意味です。家が変わりましたから、在家のときに持っていたものはすべて捨て去ります。地位や身分、それから名前さえも捨てるのです。それで仏教の中ではカースト制度や差別制度は成り立たないのです。
仏教は、人間の差別を厳しく批判しています。世間の差別やカースト制度などは一切認めません。経典の中には差別を否定しているものがいくつかありますが、そこには驚くほど強烈に記されています。当時のバラモン人たちは「自分のカーストこそが一番偉い」と考えて、それだけで何もしませんでした。「我々は何をやっても神の子だからOKだ」と考えて、いい加減に生活していたのです。お釈迦様は、このバラモン人のカースト意識にたいして徹底的に批判していました。これはスッタニパータの経典に普遍的に説かれています。たとえば、動物は生まれたその時点でそれぞれにカーストがあります。ネコはネコのグループ、ゾウはゾウのグループ、ウサギはウサギのグループなどと。生まれによってすでに「差」が成り立っているのです。しかし、人間の場合は皆同じです。生物学的に見ますと、動物には多くの種がありますが、人間は一種しかありません。そこで、バラモン人は自分のことを偉いと言っていますが、何が偉いのですか? 他のカーストと何か違うのですか? 人間としてやっていることはまったく同じではないですか? 人間なら「行おこない」を見なさい。卑しい行ないをする人は、その卑しい行ないによって、卑しい人になります。優れた行ないをする人は、その優れた行ないによって、優れた人になります。だから優れた行ないをしてください。「自分のカーストが上だ」と思うこと自体が汚れた思考です。そう思った時点で、その人はもうとっくに卑しい人間になっているのです。
人を差別した時点で、自分が卑しい人間になっています。人に指を指さすのではありません。人に向かって、格好悪いとか、気持ち悪いなどと言うことは、相手を差別していることです。人を差別する気持ちを持っているから、相手よりも差別した自分のほうが卑しくなっているのです。
人間は皆平等です。仏教では社会のどんな立場の人が出家しても、元の家の名前を捨てて出家の名前で生まれ変わり、仏弟子としてサンガの一員になります。どんな民族でも、どんな肌の色の人でも、いったん仏教に出家したら、みんな「仏弟子」なのです。名前も変わります。西洋人が出家しても、アフリカ人が出家しても、日本人が出家しても、誰が出家しても、みんな仏教のパーリ語の名前になるのです。
これって一般の社会では不思議なことです。俗世間では上下関係が激しく、差別はなくなっていません。多くの宗教組織も同じです。キリスト教は厳密な縦の関係ですし、イスラム教はそれほど厳しくありませんが、それでもやはりサウジアラビアにはイスラム教のメッカがありますから、一番優れていると考えられています。他の国々の格が低いのです。日本の新興宗教組織なども決まって縦の関係で、一番トップには開祖様の家族以外だれも入れないようになっていることが多いようです。
大乗仏教では衣の色や形で格差を付けています。これは初期仏教では禁止しています。衣は変えてはいけません。出家者は誰でもみんな同じものを着なくてはならないのです。
お釈迦様が教えた仏教には、差別は微塵もありません。仏教は「平等」ということを2550年以上ものあいだ、徹底的に、しっかりと守っています。勝手に縦の組織をつくって差別をつくることはできません。これは本当に仏教の不思議なところの一つなのです。
涅槃は不増不減
5. Bahū cepi bhikkhū anupādisesāya nibbānadhātuyā parinibbāyanti, na tena nibbānadhātuyā ūnattaṃ vā pūrattaṃ vā paññāyati.
世の中の河々が大海に流れても、雨が降っても、大海においては減ることも増えることもないように、多くの比丘たちが無む余よ涅ねはん槃に達するが、涅槃においては減ることも増えることもない。
[ 解 説 ]
「無余涅槃」ということが、ちょっとわからないと思います。無余涅槃とは、完全に覚った人(阿羅漢)が亡くなることです。阿羅漢は一切の執着を捨てていますが、肉体はまだあります。苦しみはなくなりましたが、肉体はまだ残っていますから、肉体から生じる苦しみはあるのです。歩いたら疲れますし、お腹もすきますし、病気にもなります。そういう肉体の苦しみはあります。でも寿命が尽きたとき、その肉体も捨てるのです。「無余」というのは、余すところが無い、つまり涅槃に達した、という意味です。
そこで一般的によく言われるのは、覚った人たちが涅槃に入った..そうすると涅槃の人口が増えるのではないか、ということです。これはあり得ません。それから、誰も覚らなかったら涅槃の人口が減って寂しくなるのではないか、と。これもあり得ません。海と同じなのです。人が涅槃の境地に入ろうが入らなかろうが、それに関係なく、増えることも減ることもありません、と海に喩えているのです。
では、「涅槃」とはいったい何でしょうか? これ、理解するのはむずかしいと思います。人は修行して覚りに達すると涅槃を体験しますが、それがどういうものなのか、誰も説明することはできませんし、言葉にもなりません。涅槃は、言葉にならない境地なのです。
あえて言いますと、仏教では「すべての物質は地水火風の四つのエネルギーのみである」と教えていますが、涅槃にはその地水火風がありません。また、時間も空間もありません。私たちは一般的に、時間と空間がなければ存在はないと考えています。存在とは、物理的に言いますと、空間をとっていることです。涅槃には、その空間がないのです。たとえば怒っている人を見て、「いま怒っていますね。今あなたに怒りがあります」というと、よくわかります。「はい、いま私に怒りがあります」と。しかし「怒りは身体のどこにあるのか、場所を指してください」と言うと、それはできません。「いま怒りは小指にあります」とか「いま耳に入りました」など、空間はないのです。脳のどこかにあるのかというと、それもわかりません。脳の機能が全体的におかしくなるだけです。だから怒りや嫉妬、憎しみ、喜び、慈しみなどの感情、それから認識は、空間をとらないのです。
しかし、時間はとります。時空次元で見れば、認識には時間の次元はあります。「いま怒っている」というとき、「いま」という時間があるのです。それで五分たって「いま怒りがない」とすると、怒りは五分間あったことになります。このように認識には空間はありませんが、時間はあるのです。
涅槃は、時間も空間も認識もない状態です。ですから覚っていない人には到底理解できることではありません。お釈迦様は「涅槃とはどういうものかと考えてはならない」とおっしゃいました。涅槃は言葉で語れるものではないのです。強いて言えるのは「究極の幸福・やすらぎ」であり、「人が目指すべき、達するべき境地」と、そこだけ明確にしています。仏道を実践すると、心が涅槃を体験するのです。
ですから「涅槃に入った」などとは言えません。阿羅漢が亡くなったということは、「涅槃になった」ということです。「涅槃に入った」ではなく、「涅槃になった」と言ったほうが正しいと思います。覚った人は誰でも「涅槃になる」のです。
そこで、無常も苦もない、人が達するべき涅槃の境地は、減ることも増えることもありません。海と同じなのです。涅槃は一切の現象が成り立ちません。人間の認識の対象にもなりません。したがって「減る・増える」だけでなく、言語が使える範囲や認識概念の範囲も超えているのです。
この施本のデータ
- 仏道の八不思議
- pahārāda suttaṃ お釈迦様の教えの特色
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2011年5月11日