施本文庫

「1」ってなに?

生きるためのたったひとつ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「一」とは栄養である

そこで、七歳のソーパーカ大聖者はこう答えたのです。

 お釈迦さま:Eka nāma kiṃ?(一とは何?)
 ソーパーカお坊様:Sabbe sattā āhāraṭṭhitikā.(一切の生命は栄養によって成り立ちます。)

「一とは、食べ物・栄養です。生命には栄養が必要です。生命は、栄養によって支えられます。栄養によって、命を維持管理しているのです」という意味になります。
生命と栄養。「生命に必要なたった一つのものはなんでしょうか?」というと、「それは栄養である。それが一です」と答えたのです。
たしかにそうなのです。栄養がないと生命は生きていられません。生命であることが成り立たないのです。たとえば、石やテーブルには栄養は要りません。私たちは磨いたり使ったりするかもしれませんが、石やテーブル本体には、何も要りません。しかし、私たちのこの身体には、栄養が必要です。ミミズにも微生物にも、栄養が必要です。蚊にも、栄養が必要です。だから今も、蚊は私に攻撃して栄養を取ろうとしているのです。
生命というのは、栄養がないと、すぐに壊れて死んでしまうのです。すごくもろいのです。皆様の部屋には電灯がありますね。頭上で光る蛍光灯は、絶えず電力が流れてこないと、光が消えてしまいます。そのように、命というものにも、絶えず栄養が流れてこないと、瞬時に死んでしまいます。

これはとても大事なポイントです。「私が生きている」のでもなく、「誰かに生かされている」のでもないのです。絶えず流れる「栄養」(エネルギー)によって、「命が成り立っている」のです。
もう一度、ソーパーカお坊様の返事の直訳をみてみましょう。
「一とは何ですか」と訊かれて、正解が「栄養」であるならば、「栄養です」と答えればよいでしょう。しかし、智慧を完成していたソーパーカお坊様は、「生命は栄養によって、絶えず支えられている」ことが『一』だと答えています。「栄養」という「もの」ではないのです。
私たちには、「はたらき、機能」ということが少々理解し難いので、「もの」としての栄養について説明いたします。

身体の栄養

栄養には、二種類あります。
一つは肉体を維持するために食べる栄養、いわゆる食べ物です。こちらの栄養のことは、人間はすごく研究しています。食べ物を研究する大学もあるし、栄養士という職業もあります。なにを食べるべきか、どんな栄養を摂るべきか、どれだけ食べないといけないか、と、いくらでも研究しています。
ところが、動物には栄養士はいませんが、ちゃんと健康的なものを食べているのです。野生のクマがおなかをこわしたり、糖尿病だ、高血圧だ、困った困った、ということはないでしょう。なぜないのでしょう。それは、栄養学をやっていないからなのです。
人間は食べ物に関して、ありとあらゆる研究をしています。むちゃくちゃ研究して、知識を食べているのです。
知識は毒なのです。数学と同じで、役に立たないのです。知識で、「これは身体によい。これは身体に悪い。これは高血圧に効く。これはコレステロールだ。これはやせるためによい」とか言って食べるのだから、栄養どころか、全部、毒になってしまうのです。
単純に、「ああ、これはおいしい」と食べれば、それだけでいいのに。「これはちょっと味が自分に合わない。だからやめた」と、それだけでいいのに。それだけで生きていられますよ。

ですから仏教は、食べ物に関して全然興味がないのです。肉体に必要な栄養については、勉強しなくてもいいのです。生命には、本能という機能があります。それぞれの生命体は、自分の肉体を維持管理するために、どのような物質を取り入れた方がよいのか、本能で知っているのです。本能は肉体を逆に管理するから、肉体が壊れるものは、食べるものとして認識しないのです。
本能だけに頼って食べることが人間にもできるなら、みんな健康で長生きするだろうと思います。しかし、知識というものを開発したので、本能は機能しなくなったのです。いま我々は、食べる量を機械で計るのです。今さら人間に本能で食べなさいと言っても、それは無理なのです。身体に良いか悪いかの本能ではなく、好きか嫌いかという煩悩・欲で食べてしまうのです。煩悩で食べることは、知識で食べるよりもはるかに危険です。

出家には、本能を働かせることは、その気になればできると思います。仏道は煩悩を絶つための道なので、食べる時は煩悩を制御するのです。「美味しいから」「高価なものだから」「珍味だから」「王様のお布施だから」などの理由で食べてはいけないのです。「体力をつけるため、美容のため、長生きするためではなく、この身体を一日維持するために、この食を摂ります」と念じつつ、食べなくてはならないのです。空腹だけではなく、満腹も「苦」なのです。過去の苦(空腹感)を取り除いて、新たな苦(満腹感)を作らないように気をつけるのです。それを守ると、本能がまた目覚めてくるのです。 

心に栄養が必要

命を支えるのは、ご飯、ケーキ、果物、お茶などの口に入るものだけではありません。食べ物とは比較にならないほど、心に栄養が必要です。
世の中にも、「心の栄養」という考えがあります。それは、経済的に豊かになって、時間が余るとおこなう娯楽のような程度のお話です。芸術や文学や精神的な話などです。

ここで言う、心に必要な栄養とは、そんな、「時間が余ったら心にも栄養を」というような話ではないのです。仏教の考えは、食べ物より大量に、心が栄養を必要としている、ということです。
生きているということは、心があるという意味です。心がなければ、この身体は単なる物体なのです。呼吸したり、食べたり、歩いたり、座ったり、話したり、考えたり、見たり、聴いたり、味わったりするなどの「生きるはたらき」の一切は、まとめて言えば、「心というはたらき」なのです。心も、肉体と同じく、壊れるものです。しかし、心の壊れ方は、身体と比較にならないほど早いのです。瞬間、瞬間、心は壊れ、新たな心が現れるのです。だから心を維持管理するために、心にも、栄養が必要なのです。
では、この、心に必要な栄養は何なのでしょうか。それは仏教の研究課題です。

栄養は四種類

命を支え続ける栄養は四種類あるといいます。
第一は、口から入る物質的なもの。いわゆる食べ物です。
第二は、触(そく)といいます。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法という情報が触れるのです。それらが絶えず触れるので、心は絶えず生滅し続けるのです。認識対象がなくなると、心は存続できないのです。それは「死」なのです。

第三は、意思です。見たい、聴きたい、食べたい、歩きたい、座りたいなどの意思があって、私たちは行動しているのです。生きる行為のすべてを行なわせる衝動は、意思(sañcetanā)です。

第四は、識です。心という意味です。心は巨大なエネルギーです。今の瞬間の心がなくなると、代わりに、別な心が必ず現れるのです。(物質的なエネルギーも、変化し続けるが無になることはないのと同じです。)

この四種類の栄養のうち、身体に必要な栄養は一つ、心に必要な栄養は三つです。
食べ物がなくなったらそのとたん、瞬時に死ぬ、ということはありませんが、心に栄養がなくなったということは、その瞬間に心が死ぬことを意味します。
これから、心の栄養について触れてみたいと思います。しかし、以上の三つの説明は難しい話になるので、私たちに必要なところ、気をつけなければならないところだけを説明いたします。
肉体はどうしても衰えて、壊れて、死んで、捨てられてしまいます。ですから、どうせ壊れる身体にではなくて、ずーっと続いている心に、完全に清らかな栄養を与えて、健康な心を作らなければならないのです。
完全な栄養とは、どういうものでしょうか。

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この施本のデータ

「1」ってなに?
生きるためのたったひとつ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2009年5月8日