常に観察すべき五つの真理
Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ
アルボムッレ・スマナサーラ長老
2章 なぜ観察するべきか?
これから註釈に入ります。この経典の註釈は、お釈迦様ご自身がなさっております。ですから、私たちの観念で理解するものではなく、お釈迦さまの教えに従って理解するべき経典なのです。
なぜ「老い」を観察するのか?
Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘jarādhammomhi, jaraṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vāṃ.
「私は老いるものである。老いを乗り越えていない」と、女性も男性も在家も出家も常に観察する意味は何か。
Atthi, bhikkhave, sattānaṃ yobbane yobbanamado, yena madena mattā kāyena duccaritaṃ caranti, vācāya duccaritaṃ caranti, manasā duccaritaṃ caranti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato yo yobbane yobbanamado so sabbaso vā pahīyati tanu vā pana hoti.
比丘たちよ、生命には若いとき若さにたいする酔いがあり、それによって身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。「私は老いるものである」ということを常に観察するなら、若さにたいする酔いは消え、消えない場合は薄くなる。
人間には、若いとき「若さにたいする酔い」というものがあります。この「若さにたいする酔い」とは何でしょうか?
たとえば、女性なら「私は美しい。肌もきれいだしプロポーションもいい」などと見栄を張ったり、男性なら「自分は体力もあり、能力もある。何でもできる」などと自信過剰になったりすることです。このようにして「若さ」に酔っているとどうなるかといいますと、高慢になり、放逸になって、悪い行為をするようになります。いわゆる身体で悪い行為をし、言葉で悪いことを話し、頭で悪いことを考えるのです。「若いからいいんじゃない」という態度で、夜遊びをしたり、不倫をしたり、酒を飲んだり、無茶苦茶なことをするのです。
これは大変危険なことです。なぜなら、そうやってくだらないことに夢中になっているあいだにも、一日一日年をとって老いているのだから。でも、若者はそのことにまったく気づいていません。「老い」は、どんな人にも必ずやってきます。どんなに美しくいたい、きれいで格好よく、強くいたいと望んでも、私たちは一日一日確実に老いているのです。「老い」ということから逃れることはできません。
そこでお釈迦様はこのようにおっしゃいました。
「私は老いるものであるということを常に観察するなら、若さにたいする酔いは消え、消えない場合は薄くなります」
いわゆる、酔いが醒めて目覚めるのです。これで悪行為から離れ、身も心も守られるのです。
子供がいる方ならよくお分かりになると思いますが、自分の子供がものすごく元気で活発なら、原子爆弾を抱えたような感じで、とても大変ではないでしょうか。何をするか分からないし、親の言うことは全く聞きません。このとき親は、どう対応していいのか、どのように話してよいのかも分かりません。まるで原子爆弾みたいで、子供に近寄ることもできないほどです。
ですが、それでも親は子供のことを心配するものです。親は子供が何歳になっても心配ですし、守ってあげたいという気持ちは変わらずに持っているものです。
だからといって、子供を完全に守ってあげることはできるでしょうか? できないのです。
そこで、お釈迦様が教えられた「若さにたいする酔い」のことを教えてあげてみてください。若者が「自分は老いるものだ」ということを常に観察するなら、あの酔いは消えてなくなるでしょう。酔いが消えたら、もう愚かなことをすることはありません。わがままも高慢も消えてなくなります。それで身も心も完全に守られるのです。
これ以上のお守りがほかにあるでしょうか。誰にも何にも全く束縛されていません。自由はそのままです。自由ですが、悪い道に進むことはありません。お釈迦様は人の自由を守りつつも、人を危険から守ってくれるのです。
一方、思想家や宗教家たちの話しを聞くとどうなるかといいますと、個人の自由がなくなってしまう場合が多いのです。彼らは「神を畏れて生活しなさい。信仰しないと救われません」などと言って人々を脅し、さらには「あれをやってはいけない、これをやってはいけない」と束縛して、あらゆる制限を課すのです。
お釈迦様の教えには、人を束縛する制限は一切ありません。ただ「私は老いるものである、ということを常に観察してみなさい」と、それだけです。
「老いる」ということは束縛や制限ではなく、紛れもない普遍的な事実です。なのに、もし「きつい制限だ」と考える方がいらっしゃるなら、それはその人の誤解です。だったら嘘を考えて生きるのでしょうか? どんな人でも本当は「事実が知りたい」「本当のことが知りたい」と思っているものです。誰も嘘の情報など聞きたくないでしょう。
生命の本能には「本当のことが知りたい」ということがあります。たとえば、なぜ奥さんは旦那さんの携帯電話をのぞいてみるのでしょうか? ほうっておけばいいでしょう。でも、奥さんはやっぱり本当のことが知りたいのです。それで、もし携帯電話に知らない人の名前や番号でも見つけたら、そこに電話をかけてみるかもしれません。もし女性が出たら、もう大変なことになります。
これは、「本当のことが知りたい」という気持ちがあるからです。本能的に「本当のことが知りたい」という気持ちが働くのです。
人間なら事実を見るのは当たり前です。好きとか嫌いとか、やりたいとかやりたくないとか言っている場合ではありません。ですから普遍的な真理である「老い」を観察することは、現実に逆らっていないのです。
若いときに「老い」という事実を観察することによって、あの恐ろしい「若さにたいする酔い」が消えていきます。消えない場合は、薄くなります。微妙にちょっとあるだけ。それで、心にやすらぎが生まれてくるのです。
Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘jarādhammomhi, jaraṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.
この意味を考えて、私は教えを説いている。「私は老いるものであり、老いを乗り越えていない」と、女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。
ここで、お釈迦様のやさしさが感じられると思います。お釈迦様は人々を悪行為から守ってあげたいのです。それも脅すことなく、怒鳴ることなく、束縛することなく、とても美しく丁寧に、人が人の道から外れないよう、私たちに真理を教えてくださっているのです。
なぜ「病気」を観察するのか?
Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘byādhidhammomhi, byādhiṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā?
「私は病気になるものである。病気を乗り越えていない」と、女性も男性も在家も出家も常に観察することの意味は何か。
Atthi, bhikkhave, sattānaṃ ārogye ārogyamado, yena madena mattā kāyena duccaritaṃ caranti, vācāya duccaritaṃ caranti, manasā duccaritaṃ caranti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato yo ārogye ārogyamado so sabbaso vā pahīyati tanu vā pana hoti.
比丘たちよ、生命には健康なとき健康にたいする酔いがあり、それによって身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。「私は病気になるものである」ということを常に観察するなら、健康にたいする酔いは消え、消えない場合は薄くなる。
私たちには、身体が健康で元気なとき「健康にたいする酔い」というものがあります。体力があり、食欲があり、運動ができて、力もあって、仕事もビシビシできたりすると、自分の体力や健康に酔ってしまうのです。
酔ってしまったら、どうなるのでしょうか?
他人の言うことに耳を傾けようとせず、頑固で乱暴になります。傲慢で放逸になり、それで身体でやってはいけない行為をし、口で言ってはいけないことを言い、頭で考えてはいけないことを考え、その結果として不幸になり、自分だけでなく周りの人たちをも不幸に陥れるのです。
そこで、お釈迦様が教えられたこの教え、「私は病気になるものである。病気を乗り越えていない」ということを常に観察するなら、あの「健康にたいする酔い」は消えていき、完全に消えない場合は、ほとんど無いくらい、ものすごく薄くなるのです。
Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘jarādhammomhi, jaraṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.
この意味を考えて、私は教えを説いている。女性も男性も在家も出家も「私は病気になるものであり、病気を乗り越えていない」ということを常に観察すべきである。
なぜ「死」を観察するのか?
Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā?
「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」と、女性も男性も在家も出家も常に観察することの意味は何か。
Atthi, bhikkhave, sattānaṃ jīvite jīvitamado, yena madena mattā kāyena duccaritaṃ caranti, vācāya duccaritaṃ caranti, manasā duccaritaṃ caranti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato yo jīvite jīvitamado so sabbaso vā pahīyati tanu vā pana hoti.
比丘たちよ、生命には自分の命にたいする酔いがあり、それによって身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。「私は死ぬものである」ということを常に観察するなら、命にたいする酔いは消え、消えない場合は薄くなる。
私たちには自分の命にたいして、私は生きているという「命にたいする酔い」(jīvitamado)があります。いわゆる「生きること」に酔っていて、生きるためなら何でもやろうとするのです。これは若者や健康な人に限らず、すべての人にあるものです。
この「命にたいする酔い」から、「自分の命が一番大切だ」「なにがなんでも生きていかなければならない」「生きるためならなんでもやるぞ」などといった傲慢が生まれてきます。
だいたい大人や高齢の方が悪い行為をする場合は、この「命にたいする酔い」から生じていることが多いのです。若者たちが若いがゆえにやる愚かな行為は、年をとったら興味がなくなって自然にやらなくなりますし、健康なときにやる悪い行為は、身体が弱くなったら自然にやらなくなるものです。しかし「命にたいする酔い」がもとでやる悪い行為は、死ぬまでやり続けます。自分の命を脅かすようなことが起こったり、危険な目に遭ったり、面倒なことが起こったりすると、年齢に関係なく、悪い行為をやってしまうのです。
たとえば、世間でよく見られるお姑さんとお嫁さんの対立は、この「命にたいする酔い」から生じていることが多いと考えられます。お姑さんは、何十年ものあいだ女王様として暮らしてきた自分の家に、いきなり外から若いお嫁さんが入ってくると、自分の女王様の座が奪われるのではないかと心配して、ものすごく不安になり、それでちょっとしたことでお嫁さんを非難したり意地悪したりするのです。自分の立場にライバルが現われたことで、お姑さんは自分の命が攻撃されたと感じるのです。一方、お嫁さんは、嫁ぎ先の新しい家でなんとか自分の立場をつくろうとして踏ん張ります。このようにして、無意味な争いが始まるのです。互いの心に怒りや憎しみが生まれます。頭もいかれて精神的に病気になり、恐ろしい地獄を見ることになるでしょう。その結果、自分の人生は不幸になり、相手の人生も不幸に陥れ、このようにして家族全体が不幸になるのです。
これは、お姑さんもお嫁さんも「自分がかわいい。だから自分の立場を守りたい」という「命(生きること)にたいする酔い」が原因で起こっているのです。
そこで、お釈迦様が教えられた「私は死ぬものであり、死を乗り越えていない」ということを常に観察して、理解できれば、このような地獄に陥って苦しむことはありません。「なんとしてでも生きていきたい」という「生」にたいする強烈な執着が消えてなくなりますから、怒りも憎しみも、対立も争いも、消えてなくなるのです。
別の例を挙げますと、たとえばある店に強盗が入ったとしましょう。強盗は誰にも見つからないよう店に侵入しますが、もしそのとき誰かに見つかってしまったら、その瞬間、ものすごい恐怖を感じて、持っていた刃物で相手を刺すということがあります。あるいは反対に、強盗を見つけた店の人が、先に刃物で強盗を刺すということもあります。
この場合、強盗も店の人もどちらも「自分の命がかわいい。自分の身を守らなければならない!」という、ものすごい恐怖と衝動で相手を刺してしまうのです。
しかし、生命はどんなに踏ん張っても自分の命を完全に守ることなどできません。「生」の終わりは「死」と決まっているのですから。これに例外はありません。
いずれ必ず死ぬのに、なぜ他人を殺してまで、自分の人生に「罪」を付け加えるのでしょうか。たとえ強盗に「殺すぞ!」と刃物を向けられたとしても、「あ、あんた殺したいんですか。どうぞやってください」と言えばよいのです。別に脅えなくても、いつかは必ず死ぬのですから、どうということはありません。もし殺されたとしても、その場合は、ただ「死」という現象があるだけで、自分の人生に罪が足されることはないのです。
真理の立場から見ますと、強盗が店員を殺しても、店員が身を守るために強盗を殺しても、どちらも殺生の罪を犯したことに変わりありません。裁判では店員のほうは正当防衛となるかもしれませんが、「人の命を奪った」ということは紛れもない事実です。その事実から逃れることはできないのです。
生命は誰でも自分の命を愛しています。ですから、自分が殺されそうになったとき、殺される前に相手を殺したくなるのはごく自然に湧いてくる衝動なのかもしれません。自然に「身を守ろう」とする衝動が働くのです。
しかし、問題は「だからしょうがない、ではない」ということです。いかなる理由であれ、たとえ身を守るための正当防衛であったとしても、もし他の生命の命を奪えば、自分が殺生の罪を犯したことになります。殺生したことに変わりないのです。
この点で、私たちは残酷に「輪廻」という恐ろしい罠に嵌められているということがお分かりになるでしょう。輪廻の罠は途轍もなく恐ろしく、あまりにも残酷です。ですから、仏教は皆さんに「解脱しなさい」と教えているのです。もし輪廻がそれほど悪いものではないなら、別に解脱しなくてもよいでしょう。「生きることにはいろいろありますが、まんざら悪いものではない。なんとかすればなんとかなりますよ」ということなら、別に解脱しなくてもよいのです。それだったら、何をしてもうまくいかない人だけが解脱を目指し、なんとかなる人は別に解脱しなくてもいい、ということになります。
しかし、輪廻というものはそんなにあまいものではありません。誰にとっても苦しく残酷なものです。完全に包囲され、罠をかけられ、逃げるところがないのです。
輪廻の恐ろしさを知らない無知な人たちは、いつでも何か理屈をつけて、悪い行為をします。たとえば、魚を捕って生計を立てている漁師さんに、不殺生戒(生命を殺さないという戒律)のことを教えると、彼らの多くは「魚が捕れなくなったら、われわれの収入がなくなって生きていけなくなるではないか。食べるためなら魚を捕ってもかまわない」などと何か勝手な理屈を付けて、自分の生き方を正当化しようとするのです。
この問題に関しては、こちらに答えがあります。私たちは自分の命に愛着し、生きることに価値を入れ、生きることをモットーにしていますが、生きることはモットーになりません。なぜなら、生命は必ず死にますから。「死」ということが必然なら、どうして「生」がモットーになるでしょうか?
私たちはあまりにも大きな勘違いをしています。世の中の理屈は矛盾だらけです。世界では昔から戦争が絶えず起こっています。多くの人たちは「敵が爆弾を落としたらどうするのか。ほうっておけば我々が殺されてしまうのではないか。殺される前に、相手を殺さなければならない!」などと考えているようです。このような殺しを正当化する気持ち悪い哲学ばかりが世の中に蔓延っているのです。
なぜ殺しを正当化するのでしょうか? それは「自分はなんとしてでも生きるべきだ」という前提があるからです。
しかし、どんな生命も、どんなに踏ん張っても、永遠に生き続けることはできません。誰でも最終的には必ず死ぬのです。このことを理解することが、真の智慧であり真の理性です。生きることは当てになりません。死こそが確実なものなのです。「なんとしてでも生きるべきだ」と、そんなこと言っている場合ではないのです。
もし、世界中のすべての人々が「自分は死ぬものである」ということを本当に理解したなら、世の中から罪や悪は消えてなくなるでしょう。だからといって全世界を相手にして教えを説いても意味がありませんから、仏教は一人一人個人に向かって教えています。「死を理解してください。そうすれば、あなたは悪い行為をすることがなくなるでしょうし、正しい道から外れることもないでしょう。それで苦しみがなくなって、完全に守られます」と。
これは、世の中にあるような偉ぶった思想や哲学ではありません。世界には「汝、生命を愛しなさい。誰かがあなたを殺そうとしても、あなたはその相手を殺してはならない。赦してあげなさい」という教えもありますが、これを聞くと、いかにも自分だけが偉くて相手が間違っているという態度で、そこには少々傲慢な気持ちが含まれますから、周りの人から見れば、なんかイヤな教えだなあと思いたくもなります。
他方、お釈迦様がおっしゃったのは、「生きている者は誰でも必ず死にます。私も必ず死にます、と観察してください」ということです。このように観察しているなら、自分を殺そうとする相手を殺す気にはなりませんし、心が傲慢になることもありません。見栄を張ることも、威張ることもなく、謙虚に正しく生きていられるのです。
Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.
この意味を考えて、私は教えを説いている。「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」ということを、女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。
お釈迦様は、人々が道から外れないようにと考えて、「私は死ぬものであり死を乗り越えていないと観察してください」と説かれました。お釈迦様は、途轍もない深い慈しみと憐れみをもって、私たちが間違った道に行かないよう、正しい方向へと導いてくれているのです。道から外れないよう、そのお守りを教えてくれているのです。
なぜ「好きなものは変化し離れていく」と観察するのか?
Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘sabbehi me piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā?
「私の好きなものはすべて変化し、それらから離れなければならない」と、女性も男性も在家も出家も常に観察することの意味は何か。
Atthi, bhikkhave, sattānaṃ piyesu manāpesu yo chandarāgo yena rāgena rattā kāyena duccaritaṃ caranti, vācāya duccaritaṃ caranti, manasā duccaritaṃ caranti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato yo piyesu manāpesu chandarāgo so sabbaso vā pahīyati tanu vā pana hoti.
比丘たちよ、生命には自分の好きなものにたいする愛着があり、それによって身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。「自分の好きなものはすべて変化し、離れなければならない」と常に観察するなら、愛着は消え、消えない場合は薄くなる。
生命は、自分の好きなものや愛するものがあると、それらにたいしてものすごく愛着が生まれます。パーリ語のchandarāgoという言葉は「愛着」という意味です。chanda は「とても気に入る、喜びを感じる」という意味で、rāgoは「欲」という意味です。この二つを合わせてchandarāgoは「愛着」や「愛欲」という意味になります。
このchandarāgo(愛着)があるせいで、私たちは身体で悪い行為をし、言葉で悪いことを話し、頭で悪いことを考えたりします。心は愛着に囚われて支配されるのです。
ところで、皆さんは何にたいして愛着をもっているでしょうか? ちょっと考えてみてください。子供や奥さん、旦那さん、マイホーム、お金、財産、土地……などではないでしょうか。親戚がいるなら親戚にも愛着があるかもしませんし、イヌやネコを飼っているなら、それらにも愛着があるかもしれません。仕事にやりがいを感じている方は仕事に愛着し、会社を経営している方は会社に愛着があると思います。
しかし、いくら愛着していても、それらをずっと持ち続けることはできるでしょうか?
できないのです。どんなものも変化しますし、いつかは必ず離れなければなりません。愛するものが自分から離れて行く場合もあれば、愛するものをおいて自分が離れて行かなければならない場合もあります。これは普遍的な真理であり、決して変わらない事実です。永遠に離れないということはありえないのです。
Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘sabbehi me piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.
この意味を考えて、私は教えを説いている。「私の好きなものは変化し、離れていく」ということを、女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。
お釈迦様は私たちに「好きなもの・愛するものは自分のものではなく離れていくものであると常に観察するように」と教えられました。このことを常に観察しているなら、好きなものにたいして「絶対離しません」とか「死ぬときも持っていくぞ」などという、へんな愛着は消えてなくなるでしょう。それで心が落ち着いて、やすらぎが生まれてくるのです。
そして本当に離れなければならないときが来たとき、常に観察している人は、心に強いショックを受けることもないでしょうし、喪失感で心が引き裂かれることもないでしょう。心は大きなダメージを受けないですむのです。
ですから、女性も男性も在家も出家も「好きなものはすべて変化し、離れていく」ということを常に観察するようにしてください。常に観察することによって、罪を犯すことなく、道を間違えずに正しく生きることができるのです。
ところで、仏教では「覚りに達するためには愛着を捨てなければならない」と教えています。では、自分の家族や財産、仕事などにたいする愛着を捨てれば覚れるのかというと、残念ながらそうではありません。覚るためには愛着を捨てなければならないことは事実ですが、今までお話してきたレベルの愛着は世俗レベルでの愛着であって、覚りに達するレベルのものではないのです。
では、覚りに達するために取り除くべき愛着とはどのようなものかといいますと、それは眼耳鼻舌身意に入る対象、すなわち色声香味触法にたいする愛着です。レベルが相当上がります。色声香味触法にたいする愛着を完全に捨て去ったとき、覚りの世界が現れるのです。
なぜ「業」を観察するのか?
Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘kammassakomhi, kammadāyādo kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇo, yaṃ kammaṃ karissāmi – kalyāṇaṃ vā pāpakaṃ vā – tassa dāyādo bhavissāmī’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā?
「私は業で作られ、業を相続し、業から生まれ、業を親族とし、業に依存する。私の行為の結果は、善いことであれ悪いことであれ、私が受ける」と、女性も男性も在家も出家も常に観察することの意味は何か。
Atthi, bhikkhave, sattānaṃ kāyaduccaritaṃ vacīduccaritaṃ manoduccaritaṃ. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato sabbaso vā duccaritaṃ pahīyati tanu vā pana hoti.
比丘たちよ、生命は身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。業のことを常に観察するなら、あらゆる悪行為が断たれるか、あるいは薄くなる。
そこで、なぜ「業」のことを朝昼晩、常に観察すべきかといいますと、観察することによって、人は身体で悪い行為をすることがなくなり、言葉で悪いことを話すことがなくなり、頭で悪いことを考えることがなくなるからです。それで罪を犯さなくなるのです。
もし罪を犯してしまったら、自動的にその罪の結果を「次の生」に持っていく羽目になります。そして、これがいわゆる「私」の一部になるのです。ですから、冗談ででも遊びででも「あいつが憎い。あいつを殺してやりたい」なんて思わないことです。ちょっと何かを考えただけでも、その結果は必ず受けなければならないのだから。誰も自分がやった行為の結果からは逃れることができないのです。同様に、ちょっと話しただけでも、ちょっと行為をしただけでも、その結果から逃れることはできません。
この真理を発見できた人は、ものすごく怖くなって、「悪いことだけは絶対ごめん」という気持ちが自ずと生まれてきます。その人は「いったん行為をしたら、どんな言い訳をしても、どんな弁解をしても、それは無駄なことだ。公(おおやけ)でやった行為も、こっそりやった行為も、ただ頭の中で考えたことも、何気ない友だちとのおしゃべりも、行為の結果からは逃れることができない」ということを明晰に理解して、悪い行為からきれいさっぱり離れるのです。結果として、その人は幸福になります。このようにして、人は守られるのです。
Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘kammassakomhi, kammadāyādo kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇo, yaṃ kammaṃ karissāmi – kalyāṇaṃ vā pāpakaṃ vā – tassa dāyādo bhavissāmī’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.
この意味を考えて、私は教えを説いている。「私は業で作られ、業を相続し、業から生まれ、業を親族とし、業に依存する。私の行為の結果は、善いことであれ悪いことであれ、私が受ける」と、女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。
完全に安全なる道
「老いること、病気になること、死ぬこと、好きなものは変化し離れていくこと、業のこと、を常に観察する」ことが私たちの生きるモットーであり、生きる路線です。
しかし俗世間から見ますと、そんなの生きるモットーではないと思うかもしれません。でも、この五つの対象を観察することこそが、これまでお話してきましたように「人がどう生きるべきか」という問いにたいする答えであり、完全に安全なる道なのです。
それから、これら五つのことを常に観察することは「生きるモットー」であり、そこに何か特別な目的はありません。もし自分勝手に何か俗世間的な目的を付けてしまったら、超越した道ではなく、違う道に進んでしまう可能性もあります。天国に行くことや神と一体になること、俗世間でお金持ちになること、事業で成功することなど、何か目的を持ってしまったら、間違った方向へ進んでしまうのです。これは大変危険なことです。
たとえば旅行をするとき、目的地を決めたとたん、その方向へ進んで行くことになります。仮に東京から博多へ行くとしましょう。そうすると、博多行きの電車に乗らなければならないということが、自ずと決まるのです。
同様に、もし自分勝手に何か生きる目的を決めてしまったら、その勝手な目的の方向へ進んで行くことになります。金持ちになることを目的にしたなら、それが叶うかどうかは別にして、その方向に向かって進んで行くことになるでしょうし、一流大学に入ることを目的にしたなら、その方向に向かって進んで行くことになります。ダイエットをして美しくなることを目的にしたなら、日常生活の中でそのことばかり考えて生きることになるでしょう。それで「人間として持つべき本来の目的」を忘れてしまうのです。これは大変危険なことです。
仏教の道は安全です。危険をすべてカットした安全なる道を教えています。危険がまったくない完全に安全で、老若男女だれもが実践できる道を教えているのです。
その実践方法はむずかしいものではありません。妄想するかわりに、この五つのことを考えるだけです。別にパーリ語を憶えなくても、皆さんはご自分のやりやすいように頭の中で考えてください。毎日年をとっているんだとか、何をやっても最終的には死ぬんだとか、家族や子供や財産など好きなものはいっぱいあるけど、みんな変わって離れていきますよとか、すべて業でできているんだなどと考えるのです。どうということはありません。そのように考えていると、悪行為をすることがなくなり、それで身が守られるのです。
この施本のデータ
- 常に観察すべき五つの真理
- Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2011年7月11日