初期仏教の「女性・男性」論
~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
アルボムッレ・スマナサーラ長老
1 仏教の女性論・男性論
仏教は女性蔑視?
「仏教は女性差別の宗教である」と、時として言われます。比丘尼のサンガ(僧団)は比丘のサンガの管理下におかれ、礼を尽くすことになっている戒律なども、女性蔑視だと感じられる要因かもしれません。
また、一部のパーリ経典に「正等覚者 sammāsambuddha になるのは男性です。女性はなりません。これは、一般人に理解できない、不可思議な法則の一つです」という言葉があります。
この「正等覚者」というのは、迷信を信じていて真理を発見していない世界で、初めて真理を発見して説く覚者、つまりお釈迦様のような方のことです。一部の経典では、「正等覚者になれるのは男だ、女には無理だ、不可能だ、あり得ないのだ」というのです。ひどい女性蔑視に聞こえます。「仏教は女性差別」という指摘を裏付けるようにも取れます。
仏教はやはり女性蔑視なのか、女性、男性という性別のことを仏教ではどう考えているのかというこのテーマについて解説したいと思います。
仏教は男女平等には興味がない
仮に、「仏教は女性蔑視ですね。男女平等についてどう考えているのですか?」とストレートに問われたら、仏教の答えは「いい加減にしなさい」という言葉になります。スッタ・ニパータの「ヴァーセッタ経」という経典で、お釈迦様は「人間は種として同一であり、差別は成り立たない」と、強調して語っていらっしゃいます。仏教のテーマは「生命とは何なのか」です。「男とは」「女とは」とは考えません。世間が大騒ぎする「男女平等」論には興味を向けません。
「葉一枚を見て森を理解できるのか」ということなのです。「森」とは、一切衆生 sabbe sattā の本質です。生命といえば、犬も猫もミミズもみんな入ります。人間だけ、男だけ、女だけ、などということはあり得ません。
お釈迦様は「一切の生命」について語られています。人間というのは生物学的な立場から見れば一種類です。ネグロイド(Negroid)とかオーストラロイド(Australoid)などの分類はありますが、生物学的には人間は一種類しかいません。
「男女平等」という発想自体が問題
一切の生命を語る仏教に、「男女平等」を語る理由がありません。世間からは「男女平等を説かないのだから、やはり仏教は野蛮人の教えだ」とも言われます。しかし、アジア人の私たちにとっては「野蛮人」という言葉が出てくる発想を理解することさえ難しいです。ブッダにしてみれば人間はみんな一種類、ひとまとめで一色です。老若男女も関係ありません。お釈迦様はカースト制度を批判し、「生命」という次元で語ったのです。
仏教は人種差別に限らず、一切の差別を厳しく批判するのです。
男でも女でも、まず何より人間です。同じ人間であるというのに「平等」という概念を持ち込むとは、どういうことでしょう。人間に対して失礼です。そもそもの発想が間違っています。例えるなら、両親が自分の子どもを「平等に扱います」とわざわざ宣言するようなものなのです。言うまでもなく平等なのに、平等を言うということは、その前に優劣や差別の考えを持ったからです。どうですか? いかにそもそもが間違っているか、おわかりでしょうか。
「男女平等」を言うのは、これと同じことです。世の中に女性蔑視が当たり前のようにはびこってしまったから、その反発として登場した議論です。本来あるはずでない蔑視があるために生まれた論です。
なぜ女性蔑視が生まれたか
ではなぜ、広く世界に女性蔑視という考え方があるのでしょうか。遡れば、中東に現れた唯一神の観念にたどりつくと思います。ユダヤ人が唯一神を妄想したのですが、その神は男性です。全知全能の独裁者である神は男性で、あらゆる問題を女性のせいにしました。
ユダヤ教の旧約聖書のテキストというのは、それほど古くはありません。しかし、その思想的なルーツは、およそ紀元前3000年くらいにまで遡ります。このとき作られた神話物語は、何でもかんでも、あらゆることを女性のせいにしています。旧約聖書の1〜5番目が最も古いのですが、これらの箇所を理性の視点で読むならば、およそ信じられないくらいの女性蔑視です。思わず機関銃を持ち出したくなるほどです。
聖書には皆さまにおなじみの、なぜ人間は永遠の楽園から追い出されたのかというお話があります。
そもそも神が創った人間は病気にも罹らず、永遠に生きているはずだったのが、今は短い時間で死んでしまう。病む、老いる、死ぬという、「生」の苦しみの連続を持つようになってしまった。なぜかと言ったら、それはイヴという女が知恵の樹の実をアダムという男に食べさせたからだというものです。今、男も女も、人間が苦しんでいるのは、結局は女のせいだというのです。あきれるような酷い話です。
各民族の神はほとんど女神だった
独裁者である男性の神が登場する前は、地方ごとに神を信仰していました。原始時代の人間が拝んでいた神は、どこの場所でも女神、つまり女性でした。あるいは、太陽を男性の神として、大地を女性の神として、男女ペアの神を崇拝していたケースもあります。今もインド文化では、大地という言葉は「女神」と同義語です。太陽と大地の神を同等に崇拝していても、暮らしの中でよりありがたいと実感するのは大地のほうです。太陽は頭上で回り、人々を見ているだけです。大地は、芋を掘ったり、稲を穫ったり、生きるのに必要な食べ物を育んでくれます。寝るのも大地です。ですから、同じように崇拝していても、人々はより大地を「ありがたい神」として崇拝していました。つまり、女性をより敬っていたのです。
他の例では、ヒンドゥー教の最高神「ブラフマン」は性別がはっきりしません。現代のインドの人々が信仰するヒンドゥー教寺院のご神体は、女性の生殖器官の上に男性の生殖器官をつけて、それを拝んでいます。
ヒンドゥー教の寺院の中は、信者以外立ち入り禁止なので、私は皮肉で「なるほど、子どもに見せられないものだから、立ち入り禁止の意味はありますね」と言ったりもします。
仏教には、何かを崇拝するような信仰はありません。何かある場合でも男性だけということはなくて、男性も女性も、両方差別なく参加するのです。
このように、かつての世界では、神を見ても男女平等か、むしろ女性のほうが主役でした。しかし突然、ユダヤ系の神の影響が世界に広がって、女性蔑視の世界が現れたのです。
どんな「論」でも凶暴なら通用する
「論」というのは、凶暴に語れば通用します。ある一つの論が生まれれば「その論は違いますよ」という異論も生まれますが、異論を唱える側のほうが凶暴なら、それが通ります。
世の中で通じるのは「正しい論理」ではなく、「強者の論理」、「凶暴者の論理」なのです。
世の中には男女平等論だけではなく、さまざまな「論」が飛び交っています。白人論、黒人論、西洋人論、アジア人論、人間優越論……。しかし、どれをとっても、中身は主張する人たちの都合でつくられた論です。そして、どんな論だろうが凶暴に主張すれば通用します。
たとえば、白人の優越を説く論などは、科学的に白人が黒人より優れているということは一度たりとも証明されたことはありません。ただ凶暴な主張によって通用させただけです。集団で、自分たちの都合のいいように大声で主張して、通用させてしまうのです。
今の世界を支配している西洋思想も、ものすごい勢いで広がっているイスラム思想も、なぜ広がっているのかといったら、正しいからではなく、かなり凶暴だからです。強引に世界に押しつけているからです。
この施本のデータ
- 初期仏教の「女性・男性」論
- ~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2011年