初期仏教の「女性・男性」論
~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
アルボムッレ・スマナサーラ長老
勝手な価値観でつくられた社会
世界は男性中心になりました。宗教・文化・政治・経済、すべてが男性中心です。女性を蔑視する構造になったがゆえに、それに反発して男女平等思想が現れたのです。単純な反発です。たいしたものではありません。
そもそも価値とは、人間が勝手に主観でつくり上げるものです。それ自体が無智な行為です。ものごとに価値を入れるということは、人間の愚かな行いなのです。価値とは、「金は鉄より貴重である」「ただの石よりダイヤのほうが貴重である」などということです。どんな価値であっても、ただ、人間が勝手に決めて、要領のいい人たちが儲けているにすぎません。
男女平等論もそれと同じです。「男女平等を唱えるのは正義だ」という勝手な価値を入れて、強硬に主張するのです。
そして、今の世の中は男性の神が独裁する宗教と文化の枠の中です。いくら男女平等を唱えようが、その枠の中で妄想しているだけです。社会に新たな問題をつくるだけです。
女性の社会参加運動にしても、男性中心の世界の支配下でその活動を行うので、本当に女性が生きやすい社会の実現には至っていません。
なぜ女性は抑圧されるのか
男女平等を唱える人たちは、いかに女性たちが男性から虐げられてきたかを声高に非難します。しかし、それはただの反発であり、解決に向かう理性的な意見を打ち出そうという姿勢は見られません。世の中の男女平等論から読み取れるのはたった一つのことです。「社会が女性を差別してきた」ということだけ。論の内容はどうということはありません。
人類は、はるか昔から女性を社会の表舞台から降ろして、抑え込んできました。なぜでしょうか?
理由は簡単です。女性が強いからです。強いがゆえに、強引に、無理やりに、女性は表舞台から降ろされているのです。弱いのであれば、そんなに苦労して降ろす必要はないでしょう。
つまり、女性差別の歴史は、「女は男より強い」ことの証拠だと言えます。そしてそれは、生命論でも人間論でもありません。歴史的な流れから「男性と女性の問題は何なのか」と検討しても、まるで無駄です。
生命の本質は身体と心
まず大事なのは、生命への理解です。それを正しくしっかりと理解すれば、「男女平等」などという言葉は言えなくなると思います。
仏教は一切の生命について語ります。では具体的に「生命」とは何だというのでしょうか。明確な答えがあります。生命は「身体・物質」と「心・感覚」という二つで成り立っているといいます。
身体という物質は、「土」や「鉄」などとは違って合成されたものです。合成されたものは、簡単に壊れます。壊れたなら修復して元の状態に戻す必要が出てきます。
壊れたものを直す、壊れたものを直す、壊れたものを直す。その作業をずーっと続けているのが身体です。常に変わっていくことで維持されています。
では心とは何でしょうか。心というのは、身体に物質や概念が触れることによって起こるものです。
身体に何か触れると「あ、触れた」とわかる、感じる。この感じたことについて概念をつくったりする。石をつかめば「固い」という概念をつくり、羽毛をつかめば「柔らかい」とか「心地いい」という概念をつくる。その機能を「心」といいます。
そして、心も絶えず変化すること、変わることで維持されています。
誰かが自分の手を触ったら、何かを「感じ」て「心」が生まれます。同じその誰かが自分の足を触ったら、また別な心が生まれます。あるいは、その人が自分を呼んだら、耳で感じて、また別な心が生まれます。
というように、心は、ものすごい速さで変化して、変化していくものなのです。
生命は皆、同じ
つまり、「生命」とは、「変わらないものは何も成り立たない、さまざまな機能の、複雑なからみ合い」ということです。あれこれといろいろな機能がからみ合って成り立っています。
そして、すべての機能がみるみるうちに変わっていき、変わり続けることで維持されます。ですから「生命はこれだ」という、何か固定化したものではありません。あらゆる機能の交差点であり、ちょうど空港のようなものです。
空港に行けば、そこから世界各地を結ぶ空路が張り巡らされていますね。しかし、たとえば空路では成田とパリがつながっていても、はっきりと「つながっている」と意識したりはしません。空路自体は目に見えません。しかも、パリに行く空路とニューヨークに行く空路が交差したところに乗り換えの空港があるように、生命は、目に見えない、よくわからない機能のからみ合いによって成り立っています。
別の見方をしてみましょう。生命にとっての身体を物質ととらえます。すると、そこに差は生じません。日本でできた炭素も、インドネシアでできた炭素も、同じ炭素です。何の違いもありません。水ならどこの水もH2Oで同じ。
それと同様、人間という生命を見た場合、身体はどの身体も同じ物質です。心も、どの心も同じ機能です。理論的には上も下も成り立ちません。
この施本のデータ
- 初期仏教の「女性・男性」論
- ~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2011年