初期仏教の「女性・男性」論
~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
アルボムッレ・スマナサーラ長老
男性、女性。その定義
では、仏教では「男」と「女」をどのようにとらえているでしょうか。ここからは仏教における「男性」「女性」の定義、概念について解説します。
女性の定義は明確です。仏教の定義では、女性というのは「子孫、次の世代をつくれる生命体」のことです。しかし、逆は言えません。「次の世代をつくれないのが男性だ」とは言いにくいのです。実は、男性とは何かを定義するのは難しいのです。
「次の世代をつくれるのが女性である」という定義ですから、オス・メス、英語で言えば「male(メイル)」「female(フィーメイル)」という言葉のほうが的確です。「procreation(プロクリエーション・生殖)」する生命体はみんな「female」なのです。犬でもカタツムリでもミミズでも、アメーバも「female」です。科学的にいうと、アメーバには性別はないでしょう? しかしアメーバは自分で分裂して新しい生命をつくります。ですから、仏教の考えでいけば、すべてのアメーバは「female」だということになります。
子孫をつくるというのは大変な仕事です。それは「male」という存在にはできません。いかに「female」が偉大かということです。
そして、仮に「male」という存在が、存在全体の中にいなくても大丈夫です。「男がいなかったら子どもは生まれないでしょう」と思うかもしれませんが、大丈夫です。男が消えてしまうと、female body/女性の身体が変化するのです。変化して、「male」なしでも次の世代をつくれるようになります。
アビダルマによる「男」「女」解説
アビダルマ論(仏教哲学)の物質論では、世界には二十八種類の物質があるとあります。
物質といっても、仏教でいう物質は素粒子レベルのもので、現代でいえばエネルギーです。この物質の中で、「性色」という物質が二つあります。「女性色」と「男性色」です。
「女性色」と「男性色」は完全に別のエネルギーです。ですから、混じり合ったり、一緒に存在したりすることはあり得ません。正反対のエネルギーが一緒になると、ゼロになるか、別なエネルギーになります。ですから、「女性色」が身体・肉体に入っていると、「男性色」は入りません。入ったら身体のエネルギーのバランスが崩れて死ぬことになります。
必ず、「女性色」か「男性色」のどちらかのエネルギーが人の身体の全細胞に入っています。
生命は必ず、「男」か「女」
人間だけでなく、身体を持っているどんな生命も、一切の生命は男か女かの、どちらかです。それが仏教の立場です。生物学的には、ミミズは両方を持っているので「両性」という言い方をしますね。科学では両性の生命が何種類もいます。しかし、仏教から見れば、ミミズは両性ではなくて女性です。カタツムリも女性です。なぜなら子孫をつくるからです。
身体を持っている生命なら「両性」「中性」というのは成り立たないというのが仏教の立場です。たまたま身体には両性といえる機能があったとしても、もっと深いところでははっきりと区別があります。たとえば、現代医学は発展していますから、「性転換手術」のように部品を換えることも、やろうと思えば可能です。しかし、性色が変わらなければ本当に性別が変わったことにはなりません。科学用語を使うなら、DNA・遺伝子レベルで、「クロモサム(chromosome・染色体)」の中で変化しなくては、性別は変わらないということです。
医学的には性染色体にXとYがあって、XYは男性でXXが女性といわれますね。男性の染色体は安定していないといわれます。その染色体を変えない限りは、真の性転換はあり得ません。DNAや染色体の発見は近年のことです。アビダルマが編まれた当時、仏教ではエネルギー論で語っています。「生命は、人は、さまざまなエネルギーでできているのだ」と。その中で「性色」というエネルギーがはたらいていると解説しています。
性色の機能次第で性別は明確になる
私たちの身体の中で「女性色」というエネルギーか、「男性色」というエネルギーか、必ずどちらか一方だけが、身体全体のすべての細胞の中で機能しています。もちろん、性色だけでなく、他のエネルギーもいろいろはたらいています。そして、この性色が強く機能すると、男か女かということ、いわゆる性の違いが派手に表現されます。
女の子は生まれたときから「女性色」の機能がはっきりしています。「自分は女」という意識がありますし、小さなときから、わがままで言うことを聞かないし、態度も堂々としていて自分が管理しようとします。
しかし、男の子は違います。男の赤ちゃんが生まれた場合、生まれたときからもちろん「男性色」が入っていますが、「男性色」というエネルギーは、小さいうちにはそんなに派手に機能しません。「性色」があまり活発にはたらかない場合、男か女かわからなくなります。本人に聞いてもわかりません。
ですので、男の子は、自分が女の子か男の子か、本人も小さいときはよくわからないのです。どんどん身体が大きくなってくるとはたらきだし、そのときに「自分は男だ」とはっきり気がつくのです。それが普通の流れですが、時々ずっと機能しない場合もあります。そのときは本人も自分の性別がどちらか、よくわからないということになります。
性色のはたらきは業にも左右される
順調に成長した男性でも、途中から男性色のエネルギーがジリジリと低下することがあります。「業」が原因で性色の力が低下するのです。これについても、染色体のときと同様に男性が危険です。女性の場合は、ほとんど性色のはたらきの低下は起こりません。現実的に、低下しやすいのは男性です。
物質を維持管理するのは「業」です。男性色というエネルギーを維持する業の力が弱くなると、男性色というエネルギーが低下していきます。すると、男に生まれたのに、男性らしさは消えていってしまいます。仮に、その男性色のエネルギーが消えてゼロになったとしましょう。身体を構成するエネルギーが一つでもゼロになったら、生命は成り立ちません。生きるためにはどうしても性色が必要なのです。そこで男性色がゼロになった時点で、女性色が入ります。入ってそれがジワジワとエネルギーを出すと、女になります。論理的にはあり得ることです。仏典にも、一応エピソードはあります。ですから、男性の方々は気をつけてください。
禅定は性別がなくなる
たとえ途中で性が変わることはあっても、人は、必ず男か女かのどちらかです。しかし、期間限定で例外があります。
瞑想して心を統一していくと、「禅定」という人間の次元を超える状態に入ります。禅定状態になると、心にある欲(煩悩)の機能がストップします。煩悩はあるのですが、睡眠状態とでもいうようにスイッチがオフになるのです。
そのとき、その人の身体にはたらいている男性色も女性色もスイッチがオフになります。禅定というのはそれぐらい次元が違う状態なのです。
女性が禅定に入ったら、性色がはたらいていないので、女性とは言えません。男性が禅定に入ったら、男性とは言えません。性別のない、清らかな、優れた状態に達しています。
さらに、禅定に入った境地の方々が亡くなったら、「梵天」に生まれます。「梵天」というのは、生命の一番高い次元です。この「梵天」にだけは「性色」はありません。梵天の神々にも、身体はあります。物質的な肉体のように、DNA・細胞でできている身体ではないのですが、身体はあります。
しかし、その身体には性色はありません。ですから、梵天の神々だけは男とも女とも言えません。それでも仏教は「生命は必ず男か女かである」という姿勢を崩しません。なぜなら輪廻転生ですから、今の梵天が梵天になる前に何者だったのかと考慮するのです。梵天に生まれ変わる前は人間の女性だったなら、「また女性に戻るのだ」と。つまり、梵天の期間だけ女性であることを一時休止、あるいは男性であることを一時休止しているとするのです。
「男性・女性」に関する仏教の結論
アビダルマに見る性別論をご紹介しました。まとめますと、男性色・女性色という完全に互いに異なるエネルギーのはたらきがあります。それらは、まったく似ていません。
しかし、ただの物質(エネルギー)です。ですから、男女の違いというのは、物質の違いです。水と土の違いのようなものです。
水と土は違いますが「水のほうが土より偉い」とは言えないでしょう。逆に「土のほうが水より偉い」と言うこともできません。
ですから、「区別はありますが平等」ということになります。優劣はないのです。
したがって、「一切の生命は身体を持っていることで平等ですが、性別という区別がある」というのが仏教の結論です。
この施本のデータ
- 初期仏教の「女性・男性」論
- ~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2011年