初期仏教の「女性・男性」論
~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
アルボムッレ・スマナサーラ長老
修行の場での男と女
さて、話を仏教に戻します。仏教の修行というのは煩悩をなくすことです。修行が進み、瞑想で「禅定」という境地に入ると性別は超えると先ほど言いました。そもそも、仏教の出家とは、悟りに達する前から性色的な男女の区別をなくすことです。出家すると、男でも女でもありません。説法の場も、瞑想指導でも、相手が女であるか、男であるかは気にもしません。説法は人間に語るものであり、修行も人間がするものであって、男か女かということは関係がありません。
では出家の修行の場では、男女が性の区別なく、みんな仲良く、手を組んで共に生活するのでしょうか。
違います。互いに触れることさえも禁止です。明確に男女を分けます。しかし女性は在家であったとき、社会制度で守られていました。ですから男性の出家は、女性出家者の身の安全を考える義務があります。女性の安全は守りながらも、入り混じって生活することは禁止。同じ部屋にいることも禁止です。男性の出家が、ほかに男性のいない場所で女性の出家に説法することまで禁止なのです。しかし出家した時点で、男でも女でもありません。
修行の最初の段階では、当然「男」「女」があります。男の人が修行を始めた場合、当初は「男」として修行を始めます。ですから、男として現れた煩悩をコントロールしなくてはいけません。女の人であれば、修行は「女」として始め、女として現れた煩悩をコントロールしなくてはいけません。
修行を続けて厳密なまでのコントロールが可能になったら、性別は超えてしまう、ということです。
悟りに達すれば、男でも女でもなく、性別を超えた「聖者」です。それでも、肉体には性別があります。男の悟った人と、女の悟った人と、二人とも出家していて男女差は超越したとしても、肉体・物質が男と女なのです。ですから戒律には差があります。
戒律では、出家した女性が、出家した男性に礼をしなくてはなりません。ですから八十歳のゴータミー尼でも、二十歳ぐらいの比丘に頭を下げて礼をします。ですが、インドは女性が大変尊敬される文化ですから、一般的な家庭でも年を取れば取るほど、女性はとても尊敬されます。しかも、ゴータミー尼はお釈迦様の母でありスッドーダナ王のお后です。なおさら尊敬されるお方です。そのような方でも男性の出家に頭を下げますから、若者の出家は特に「畏れ多い」と困惑することになります。
もしかするとそのようなことを感じてなのか、ゴータミー尼が、お釈迦様に戒律の平等を頼んだことがあります。しかし、お釈迦様は却下されています。戒律は戒律で、変わることはありません。
女性は出家したら管理できない
世間では、女性というのは、男性のお世話をしますね。そういう形で男性を管理しています。
しかし出家したら、お釈迦様は明確にそれを禁じます。「出家したら、女の仕事はやめなさい」と。出家した女性には、男性に向かって何も言う権利がありません。そこだけを見れば、「男性が優遇されている女性蔑視のシステムか」と感じるかもしれません。しかし、そうではないのです。それが女性を消す、性別を超える修行なのです。女性を超える修行として、男性をお世話して、マネージメントするという女性の仕事は断固禁止なのです。
男性側も同様です。社会では、より男性に権利が与えられていますが、出家の男性に権利はありません。たとえば、女性が出家することを認める権利は男の比丘にはないのです。
そのように、女性の自由は守りながら男性は女性の安全を守る、お互いに管理することは禁止、という決まりの中で修行したのです。
解脱の境地に性別はない
もちろん、解脱・涅槃などについては男女の差は何もありません。俗世間の次元、概念、言葉などの一切を乗り越えている境地、それが解脱です。そこまで至ると、男性も女性も存在せず、輪廻を脱出するので、もはや生命とは言えません。男も女も成り立ちません。解脱においては、区別も平等も成り立たないのです。
これが仏教の女性論・男性論になります。およそ世間が考えるものとは違います。
この施本のデータ
- 初期仏教の「女性・男性」論
- ~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2011年