初期仏教の「女性・男性」論
~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
アルボムッレ・スマナサーラ長老
3 一般社会の男性論
男性は脇役
では、男性の天職とは何でしょうか。先ほどから再三、生命をつくれる女性は偉大だと言ってきました。男性は、その偉大な、主役の女性という生命体を支える脇役なのです。男性は、いつでも女性に命令されることに従って、女性を支えます。新たな命をつくるときでも、わずかな仕事しかすることはありません。
そして、世の中で男性が、仕事、政治、軍事、技術などで旗をあげるのは、生命としての役柄がエキストラ程度だからなのです。
暇な男性のやること
男性は常に生命という存在の中でエキストラです。暇がたくさんあります。映画の場合、主役は忙しいのです。初めから終わりまで演じなくてはいけません。その点、脇役・エキストラというのは、ところどころですし、時として三十秒程度で出番が終わる場合もありますね。そのように男というのは、無茶苦茶に暇があるのです。
暇があるから仕事をする。政治をやる。戦争もする。軍隊もつくる。技術開発もする。機械も作る。それらすべてを行っているのは男性です。女性も発明品をつくりますが、確実に役立つものを発明します。役に立たないものは発明しません。洗濯機の糸くず取り具を発明したのも女性です。
男ならいくらでも役に立たないものを作り続けます。機関銃とか、鉄砲とか、弓とか、原子爆弾とか、宇宙船とか、全部、男の発明品でしょう。これらが役に立ったことはありません。すべて無駄です。宇宙望遠鏡にしても、生きることに何の役にも立っていません。ただ見たことのない写真が撮れるだけ。「なくたって平気で生きられるし、あったところで生きることと関係ない」という発明品です。
宇宙望遠鏡によって、あるいは宇宙船から写真を撮って、日食や惑星の様子がよくわかったとしても、それは生きることにおける余興の部分です。命が支えられることとはまったく関係のない発明です。
男というのは、あらゆる技術開発をしますが、90%は役に立ちません。しかし、女に怒られると、役に立つものも作ります。それも、生命の世界では、男はエキストラだからなのです。その場面が終わったら、「はい、さようなら」で次の余興へ向かいます。
男の役割
生命の主役は、いつも女性です。ただ主役がいる場面の情景をつくるのは男性の役目です。たとえば、主役の女性が学校のグラウンドにいる場面なら、グラウンドの雰囲気をつくるのはエキストラの仕事です。野球をやったり、走ったり、キャッチボールをしたりして雰囲気を一生懸命、つくり上げます。そうやって舞台の書き割りをつくるのは男性です。しかしどんな情景も、書き割りも、主役あってのものです。主役がその舞台を去れば、その場面を終えるしかありません。エキストラだった男たちは早々に立ち去るしかないのです。
男の勘違い
結局、男性がやっていることというのは、女性のお世話です。しかも、女性に管理されてお世話をしています。それで人生はうまくいくのです。
仮に脇役が分をわきまえず出過ぎてしまったら、まずいことになります。しかし、今の世の中では恒常的にそうなってしまっているのです。
男性も女性も、自分の存在を勘違いしています。存在の主役は女性です。そして主役である女性に「自由」はないのです。怒られてしまうかもしれませんが、女性は主役であるがゆえに自由がなく、自由があるのは男性です。存在の中で女性が唯一偉い、そのぶん自由がないというのが、生命論の真理です。
偉い人には自由がないのです。例えば日本でも、一般人にはいっぱい自由があります。しかし国会議員になれば、とたんに自由がなくなります。さらに大臣になれば、もっと自由がなくなります。総理大臣になれば、無茶苦茶自由がなくなります。天皇になれば、身動き一つ、自由ではなくなります。
役が重くなればなるほど、自由はなくなります。女性に自由がないという意味がおわかりいただけましたか。女性は主役であり、管理者です。男性は女性に管理されて女性をお世話しているのに、それを勘違いして、男性が何でもやっているのだと思い込んでいます。その勘違いで女性を支配しようとしてきたのです。
女性は自由がなく、いつも生命をつくったり育てたりすることで精一杯です。食べること、食べさせることに必死です。
現代社会は西洋型の社会で、男性中心ですね。これは自然法則に逆らった「男性が偉い」という価値観による社会です。当然、その男性中心の社会はうまく機能しないのです。
「正等覚者」はなぜ常に男性か
さて、はじめにご紹介した、「ブッダになれるのは男性である」という経典の言葉に戻ります。これは今まで解説した生命論に基づく真理であり、女性蔑視ではないのです。
女性たるものは、猫であろうが犬であろうが、自由がありません。ライオンのオスは食って寝るだけですが、メスはどれほど忙しいことでしょう。
その理由は、女性の天職が「命を守ること」だからです。それにかかりきりで、女性の人生には微塵も暇がないのです。男性は守ってもらうほうの存在ですから、自由です。命を守ることだけではなくて、何か新しいものを探すことができたり、命を乗り越えることに挑戦できたりするのです。
お釈迦様は「男性しか正等覚者になれない」ということを「不可思議な項目」とおっしゃっています。言葉だけを聞いたら女性蔑視なのですが、これは女性蔑視ではなく生命論なのです。生命として女性には自由がないのだから、余計なことは何もできない、ということです。命に関係のないことに力を割いている暇などないということです。
男性には暇と自由があります。命を守ることとは違うことにも挑戦できます。男性と女性には、この差がいつでもあります。
それでも男は惨め
また、経典には「女性は男性によって満足しない」という言葉があります。そう言われると、何だか嫌な言葉に聞こえますね。別に性行為の話ではありません。性欲は個人によってさまざま、バラバラです。
この言葉の意味するところは、もっと本質的な不満です。生命をつくること、その生命を育てることに関して、本来は対等の責任を持つべきなのに、男性は精子を与えるだけで授乳はできず、99.5%が女性にゆだねられる、その真実ゆえの不満なのです。生命を生み、育み、守る上で、男に果たせるのは、せいぜい0.5%の役割だけです。ですから、女性が男性の役割の少なさに不満を持つのは当然のことです。
女性は、いつも男性に不満を抱えているのですが、しかし、あまりにも根本的な不満なので、何が不満なのか、はっきり理解してはいません。
本当は、生命体として、子育てを助けてくれない不満を抱えています。男性が遊んでばかりいることに、ものすごく腹が立っていますし、すごく不安を感じています。
この施本のデータ
- 初期仏教の「女性・男性」論
- ~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2011年