施本文庫

「宝経」法話 

Ratanasuttaṃ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第十偈

Sahāvassa dassanasampadāya
サハーワッサ、ダッサナサンパダーヤ
Tayas su dhammā jahitā bhavanti
タヤッス、ダンマー、ジャヒター、バワンティ
Sakkāyadiṭṭhi vicikicchitañ ca
サッカーヤディッティ、ヴィチキッチタン、チャ
Sīlabbataṃ vā pi yad atthi kiñci
スィーラッバタン、ワー、ピ、ヤダッティ、キンチ
Catūhapāyehi ca vippamutto
チャトゥーハパーイェーヒ、チャ、ヴィッパムットー
Cha cābhiṭhānāni abhabbo kātuṃ
チャ、チャービターナーニ、アバッボー、カートゥン
Idam pi Saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、サンゲー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

知見[四聖諦の明知]の成就と共に、
以下の三つのもの(煩悩)は捨て去られたことになる。
有身見、疑、
あらゆる戒禁取なり。
また四悪趣に陥ることを離脱し、
六重罪をなすことはあたわず。
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いがあらんことを。

まさに(va)彼が(assa)見ることを(dassana)成就する(sampadāya)とともに(sahā)実に(su)三つの(tayas)法が(dhammā)捨てられたものと(jahitā)なる(bhavanti)。
有身見(sakkāya diṭṭhi)・疑(vicikicchitañ)そして(ca)戒禁は(sīlabbataṃ)、また(vā)何であろうとも(yadatthi kiñci)[捨てられたものとなる]。
しかして(ca)四つの(catūh)悪趣から(apāyehi)脱したものと(vippamutto)[なり]、また(ca)六つの(cha)極罪を(abhiṭhānāni)為すことは(kātuṃ)不可能(abhabbo)である。
これも(idam pi)僧団における(saṅghe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

預流果は理性の達人

「真理を知って預流果になるとともに三つのことを捨てます。有身見・疑・儀式儀礼への執着です。四種(地獄・餓鬼・修羅・畜生)の悪い境涯に堕ちることから脱し、六つの重罪(ブッダを傷つける・母殺し・父殺し・阿羅漢殺し・サンガ分裂・決定邪見)を犯すことはできなくなります。それゆえにサンガは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。」

この偈で、預流果に達する人はdassana(ダッサナ)を成就するのだと記してあります。Dassanaは一般的にも使う単語です。哲学、見解、思想、ひらめき、という意味です。ふつう人々は、「私がいる」「世界がある」という前提で生きています。「私はご飯を食べている」という文章を考えてみましょう。ここに私が「いる」。ご飯は「ある」。だから、「食べる」という行為が可能になっています。もし「私がいる」とは正しくない、「ご飯がある」とは正しくない、とするならば、どのように「食べる」という行為を理解するのでしょうか。難しいですね。「いる」と「ある」を前提として置いておけば、「食べる」という行為の理解はいたって簡単です。それで、私たちの知識というものはすべて、「いる」と「ある」を前提として、固定概念として、先入観として、必要としているのだと理解できるでしょう。しかしこの理解は、ブッダが語る「一切の現象は無常である」という真理に真っ向から反しています。我々は生まれた瞬間から、微塵も調べようとしないで「ある」と「いる」を前提として、先入見として、こころに入れているのです。お釈迦さまがこの前提を、本当にそのままなのかと調べました。そこで、その前提はまったくの勘違いだと発見したのです。事実は、一切の現象は無常、ということだと発見したのです。一切の現象だというと、当然、「私」も入っています。まったくの勘違いを正しい前提にして生きることは、無知・無明の生き方なのです。

仏弟子は、お釈迦さまが用いた客観的な観察方法を自ら実践してみるのです。それで弟子たちも、「いる」「ある」の前提はまったくの勘違いだったと発見するのです。それで、無知・無明はけっこう破れてしまったことになります。Dassanaを成就したということです。無知が破れたならば、今まであった「ある」「いる」の前提は当然消えますが、その代わりに優れた理性のある人間になります。これが預流果の境地です。預流果に達したら、理性が現れます。今までの先入見という無知の代わりに、dassana(=ビジョン)が生じるのです。ひらめきが生まれ、当然、こころが変わるのです。どのように変わるのかは、次に説明されています。「三つの誤解」が無くなるのです。

第一は、有(う)身(しん)見(けん)です。「実体として、絶対変わらないものとして、私と正しく名付けるべき何かがある」という、今まであった自我意識が消えてしまうことです。世俗的な言葉で「私、私」と言いますが、それは無常の現象の流れなのだと発見するのです。それで「私がいる」という誤解が消えるのです。

第二は、疑(ぎ)です。疑が無くなるとは、すべてのことを知り尽くして一切智者になる、という意味ではありません。すべての現象は因縁に依って生じる一時的なもの。「私とは何か」と観察した修行者は、私という現象は因縁によって生じて消えてゆくものだと発見するのです。「私」に限らず、客観的な世界の現象も、因縁に依って生じては消えてゆく流れだと発見するのです。要するに、因果法則に目覚めることです。因果法則とは仏説そのもの、また、真理そのものです。これを発見した人は、いままで存在・世間について語られたことには根拠が無いと分かります。仏説は微塵も間違いのない完全な教えであると確信する。人間が悩んでいるのです、過去についての問題、未来についての問題、現在についての問題は、すべて消えるのです。これが「疑が無くなった」ということです。

第三は、戒禁(かいごん)取(しゅ)です。世の中にある無数の宗教では、天国に行くために、こころ清らかにするために、神と一体になるために、いろいろ修行方法を語っています。皆、証明されていない何かの概念を目的として設定して、それを目指して様々な修行方法を編み出すのです。自分で語る最終的なゴールが本当にあるか否かも知らないのに、ゴールに達する方法を声高に語っているのです。三百六十度、水平線しか見えない砂漠で遭難した人々がいるとしましょう。いまの状態は危険なので、オアシスを探さなくてはいけないのです。しかし、オアシスはどの方向にあるのかということは、まったく知らないのです。それで皆、西へ行きましょう、南へ行きましょう、南西方向へ行きましょう、等々と言っているのです。世の中の宗教の修行とは、このようなものです。最低、オアシスがある、という気配さえあれば、自信を持ってその方向へ進めるはずです。
仏教は渇愛があるから苦しみが生じると説かれます。それは調べてみることができます。微妙にでも渇愛を減らすと、その分、苦しみも減るのだと経験することができます。それで達するべきゴールを設定することができます。一時的に渇愛を少々でも控えたらそのぶん苦しみが減るので、渇愛を根絶することに挑戦すれば、苦しみを完全に乗り越えた状態に達するはずです。仏弟子たちはこのような気持ちで解脱を目指して修行するのです。預流果に達した人は、世の中で言われる「神に祈ることだ」「懴悔することだ」「罪を悔い改めることだ」「神を疑いなく進行することだ」「断食することだ」「苦行することだ」「回峰行すべきだ」等々の一切の修行方法は、無意味だと発見しているのです。預流果の人のこころは、世の中にあるすべての儀式・儀礼・行などから解放されているのです。

理性が現れた人の利得

Catūhapāyehi ca vippamutto(チャトゥーハパーイェーヒ、チャ、ヴィッパムットー)四種類の悪趣に堕ちることは無くなる。預流果に覚れば、悪趣には堕ちないのです。すべての生命は無量の業を背負っています。たまたま良い人間として生きていたとしても、過去の悪業のせいで、死後、悪趣に堕ちる可能性は大いにあるのです。輪廻は安全な場所ではありません。今世で罪一つも犯さなかったと言える人がいたとしても、無量の過去の業(善業と悪業)を背負っています。こころは簡単に揺らぎますから、どんな業を引き起こすのか分からないのです。預流果に覚った人にも、無量の過去の業(善業と悪業)があります。しかし、無知が破れたのだから、理性が現れたのだから、無常を発見したのだから、罪を犯してでも生きていきたい気持ちが無くなったのだから、背負っている無量の過去の業の悪業はもう実ることができなくなるのです。預流果に覚ると、悪趣に堕ちられなくなります。分かりやすく言えば、預流果に達した人にとって、悪趣は立ち入り禁止空間なのです。

悪趣は四種類です。一、niraya(ニラヤ)一般的にも知られている地獄のことです。二、tiracchāna yoni(ティラッチャーナ ヨーニ)畜生。微生物から始まる動物の世界です。三、asura(アスラ)阿修羅。阿修羅の世界については仏典ではあまり説明はありません。何人かの阿修羅たちはお釈迦さまと対話したことが経典に記されています。仏教にはほとんど賛成しない、邪魔をしたがるような存在です。四、pettivisaya(ペッティヴィサヤ)餓鬼界。小部経典のpetavatthu(ペータワットゥ)餓鬼事というテキストには、餓鬼界の生命がどのように苦しむのかという詳しい説明が載っています。預流果に達した人は、この四種類の地獄に決して堕ちません。

皆様方が飼っている可愛いワンちゃんを「悪趣の生命」と思いたくはないでしょう。この四つの次元の生まれは総称して、apāya(アパーヤ)と言います。四つのapāyaです。Apāya(悪趣)とは損ばかりで何も利益のない生まれ、という意味で造られた単語です。仏教が考える損とは、徳を積めない境地、善行為をできない境地、冥想実践できない境地、仏説を聴くチャンスが得られない境地です。ワンちゃんは贅沢に生きているかもしれませんが、徳を積むことはできません。善悪判断もできません。仏説に耳を傾けるどころか、飼っている貴方が発する言葉も理解しないのです。

重罪は犯せない

Cha cābhiṭhānāni abhabbo kātuṃ(チャ、チャービターナーニ、アバッボー、カートゥン)また、預流果に覚った人が六種類の重罪を犯すことは不可能です。六つの重罪とは、

一、如来に怪我させること。
二、母親を殺すこと。
三、父親を殺すこと。
四、阿羅漢を殺すこと。
五、サンガを分裂させること。
六、決定邪見に陥ること。

預流果に達した人は、戒律を犯せないと言われています。三宝に対する確信が不動なものになっているので、お釈迦さまがダメと言っていることを、隠れてバレないようにしてやるような気を起こさないのは当然だと思います。しかし預流果に覚っても、まだこころの中に欲と怒りがあるのです。欲と怒りが常識的なレベルで働いています。欲と怒りが「異常」になると、それだけでも罪です。一般の人々が欲と怒りのせいで罪を犯す時は、「異常」になっている。預流果に達した人が在家生活する時は、常識的な欲と怒りがあるので、それなりの悪さをするかもしれません。自分の子供に怒ったり、借金を返せない人に厳しい言葉をかけたりする可能性がいくらでもあります。しかしこのようなことは、悪趣に堕ちるほどの力のある悪行為ではありません。

死後、必ず地獄に堕ちる重罪は六つあると説かれています。推測してみましょう。預流果に達した人が重罪の一つを犯したならば、死後、必ず地獄に堕ちなくてはいけないのです。しかし預流果に達した人にとって、悪趣は立入禁止空間です。では犯した罪はどうなるのでしょうか。答えは、「預流果に達した人は、六つの重罪を犯すことが不可能な精神状態になっている」ということです。ですから、犯すわけがない、犯すはずもない、犯せないのです。預流果の人は、理性の達人です。無知なことはしません。
六重罪について、一つひとつ説明していきましょう。

一、如来に怪我させること。この罪はお釈迦さまが生きていた時代にだけ犯せる罪です。今、お釈迦さまがいないので、誤ってこの罪を犯すかもしれない、という心配はいりません。しかし、根拠もなくブッダを侮辱したり、非難したりすることは恐ろしい罪になります。その人は自分自身で善悪を否定する、善の道を脱線している、他の人々をも仏道から道を外させる、他宗教で説かれている冥想修行をしてもこころは成長しないことになります。それなら、死後どうなるのかと言わなくても推測できると思います。

二、母親を殺すこと。三、父親を殺すこと。父母とは血の繋がった親のことです。生まれてすぐ捨てられたとしても、親のことをまったく知らないとしても、自分の遺伝子は親から受けたものです。赤の他人だと思って人を殺したとしましょう。しかし、その被害者が自分の生みの母か生みの父であれば、重罪になります。父だと思って殺した人が生みの父では無かった場合、普通の殺人罪よりは重い罪になりますが、「重罪」にはなりません。生みの両親ではなく育ての両親を殺すことも、普通の殺人よりははるかに重い罪になります。「親殺し」はなぜ重罪になるのでしょうか。この世で親ほど、自分のことを無条件に心配する存在はいません。自分を育てて一人前にするのは親です。その人を殺すなんて、人間ならできることではないのです。親に対する殺意を抱いた時点で、その人は人間の次元から精神的に堕ちています。異常な怒りが、「異常」のレベルすら振り切れているのです。その人が今までどんな善いことをしたとしても、その業は実る力を失うのです。ですから、親に対して殺意を抱くどころか、親に何を言われても怒りを抱くことさえも徹底的に止める方が身のためです。親の短所は笑い飛ばして、親に対して感謝の気持ちで生きていると、人生はいたって簡単にうまく行きます。

四、阿羅漢を殺すこと。阿羅漢も如来と同じく覚りに達している聖者です。こころに汚れが微塵もない方です。阿羅漢一人がいるだけでも、人々は幸福になります。たとえ邪見者であっても、阿羅漢を殺す気にはならないのです。人を殺す場合、加害者は相手の何かの欠点に腹が立って、我慢できなくなっているものです。阿羅漢の場合はこのような弱点はないのです。それでも殺意を抱いたというならば、加害者は決して常識的な人間ではありません。すでに人間の次元から堕ちているのです。

五、サンガを分裂させること。サンガが和合していることは、人類の幸福に資すると説かれています。サンガが和合していると、仏道を歩みたい人々は安心してサンガの一員になって修行できます。出家した人は、誰の指導を受けても構わないのです。もしサンガの誰かが、自分特有の思想や修行方法などを誇示しているならば、大きな問題になります。ですから人類のためにサンガは和合を保たなくてはいけないのです。サンガが和合しているということは、人類に解脱の道を開いているのだ、という意味です。それからブッダの教えは幸福へ至る道であると、皆に証明する存在もサンガなのです。分裂すればすべて終わりです。解脱への道が閉ざされます。したがって、サンガの分裂は人類に多大な不幸を招く行為にもなります。重罪です。しかしこの罪は、皆に犯せるものではないのです。サンガに出家している比丘にしか犯せません。

六、決定邪見に陥ること。邪見はいろいろあります。仏教的に言えば誰も真理を発見していないので、皆、好みに合わせて、自分の都合に合わせて、いろいろ意見を述べます。それらは、すべて邪見になります。しかし意見を持っているからと言って、必ず罪になるとは限らないのです。「これこそが唯一の真理だ」と思わないで、「これが私の意見だ」「これは私が気に入っている考えだ」「私はこのように勉強しました」等々、条件をつけた上で意見を持つのは構いません。条件付きの意見なら、新たに勉強して訂正することができます。
しかし、「これこそ唯一の真理だ」「他の教えはすべて間違いだ」というスタンスを取る場合は、本人が自分のこころに鍵を掛けて、成長する可能性を否定しています。これはたいへん暗い状況ですが、それでも地獄に堕ちるとは限らないのです。このような断言的な意見であっても、一部に真理が含まれている可能性はあります。
重罪になるのは、決定邪見・niyata micchādiṭṭhi(ニヤタ ミッチャーディッティ)です。「生命の運命はすべて前もって定まっている、何も変更はあり得ない」という見解は、決定邪見です。六師外道の一人ゴーサーラ師は、決定論・運命論を語った思想家です。生命には、王で生まれる回数、バラモンで生まれる回数、商人で生まれる回数、奴隷で生まれる回数、畜生で生まれる回数、等々が決まっていると説いたのです。投げた糸巻きが、糸のある限り転がって糸が尽きたところで止まるように、生命も定めた輪廻転生の回数が終わったら、賢者も愚か者も殺戮者も、皆、平等に終了するのだと説いたのです。解脱に達しようと思って修行したって、何の意味もないということです。人間の努力、意志を否定するので、「決定邪見」と言います。いわゆる決定論に基づいた邪見です。一神教の原理主義者たちのように、「すべて神が前もって定めているのだ」という場合は決定邪見です。一神教であっても、「死後はあなたの生き方次第だ」という場合、「隣人を愛さなくてはいけない」という場合、「困っている人々を助けなくてはいけない」という場合は、人の行為の意義を認めているので、決定邪見にはなりません。結論的には簡単です。因果法則を否定すること自体が、決定邪見になります。曲がりなりにも因縁の関係を認める場合は、決定邪見にならないのです。決定邪見者は、こころを完全に閉ざしています。自分を精進して良くしようという意欲を捨てています。これは重罪です。

第十一偈

Kiñcāpi so kammaṃ karoti pāpakaṃ
キンチャーピ、ソー、カンマン、カローティ、パーパカン
Kāyena vācā uda cetasā vā
カーイェーナ、ワーチャー、ウダ、チェータサー、ワー
Abhabbo so tassa paṭicchadāya
アバッボー、ソー、タッサ、パティッチャーダーヤ
Abhabbatā diṭṭhapadassa vuttā
アバッバター、ディッタパダッサ、ヴッター
Idam pi Saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、サンゲー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

身、口、意にて
悪をおかすことになりとても、
彼はそれを隠蔽することあたわず。
知見に達した者は
隠蔽することあたわずといわるるなり、
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。
この真実により、幸いがあらんことを。

たとい(kiñcā)彼が(so)身体によって(kāyena)、言葉(vācā)あるいは(uda)また(vā)心によって(cetasā)悪しき(pāpakaṃ)行為を(kammaṃ)為しても(karoti)、
彼が(so)それを(tassa)覆い隠すことは(paṭicchādāya)不可能である(abhabbo)。
[涅槃の]境地を(padassa)見たものにとって(diṭṭha)不可能なことであると(abhabbatā)言われている(vuttā)。
これも(idam pi)僧団における(saṅghe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

預流果は言い訳をしない

「体・言葉・こころで罪を犯しても彼はそれを隠すということはしません。預流果に達した者は隠すことをしません。それゆえにサンガは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。」
 
預流果に達した人が、何か悪いことをしたとしましょう。それはあり得ることです。完全な解脱に達するためには、十結という十種類の煩悩を無くさなくてはいけないのです。預流果に達したら、有身見・疑・戒厳取という三つの結(煩悩)は無くなりますが、欲貪(欲)・瞋恚(怒り)・色貪・無色貪(色界・無色界の梵天に生まれても悪くないという執着)・慢・掉挙・無明という七つはまだ残っているのです。たとえば慢に誘惑されて人を軽視したり、見下したりする可能性もあります。怒りが出て人を怒鳴ったりすることもあり得えます。俗にいう「罪を犯す」ことには決してなりませんが、仏教的に言えば、悪行為にかわりはないのです。悪行為には、身体・言葉・思考の三種類があります。

預流果の人は、この三つの行為の間違いを犯しても、それが間違いだと知っているのです。悪行為を正しいことだと勘違いしないのです。一般の人々は違います。一般の人々が罪を犯す時、それが正しいと思って犯しています。自分の間違いを正当化するために、「家族を守るためにそうするしかなかった」などと言い訳をします。預流果に達した人は、自分の誤った行為を決して隠しません。罪を認めて懴悔し、自分を戒めようと努力するのです。自分の生き方で、仏法僧が批判を受けないように気をつけるのです。ふつうの人々は自分の悪行為の責任を何としてでも他人のせいにしたがります。「法律で禁止していない」「いま不景気なのでこうするしかない」「自分は漁師の家に生まれたので漁業をしなくてはいけない」「人がやることは神様が決めるので自分にはどうしようもない」等々を理由にする場合、それは自己責任を免れようとしていることです。しかし誰かから「あいつを殺せ。さもないとお前の子供を殺すぞ」と脅されても、自分が殺意を抱かない限り、殺すという行為はできません。行為はすべて、最終的に自己責任です。預流果に達した人は、この法則を知っているのです。だから、自分が誤った行動をとったならば、それを決して隠そうとはしないのです。言い訳をして責任を免れようとはしないのです。預流果に達するとは、大胆な人格改良です。「罪を隠せない」人間がいることは、すべての人間にとって幸福です。

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「宝経」法話 
Ratanasuttaṃ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月