善に達するチカラ
忍耐・堪忍の本当の意味
アルボムッレ・スマナサーラ長老
平和の実現
次の偈に入らなければいけないのですが、ちょっと脱線して別な話をします。
2014年の2月から3月にかけて、日本の方々と一緒にカンボジアやラオス、タイを旅行しました。私は他のテーラワーダ仏教の国々の状況を知りたいという気持ちがありました。カンボジアの仏教は、ポルポト政権によって全滅に追い込まれた歴史があります。お寺をすべて壊して、何万ものお坊さん達を殺したり、還俗させたりして、経典をすべて燃やして、仏教を根絶やしにしてしまった。
それでも、ふたたび平和を取り戻した瞬間に、仏教は見事に復活したのです。
そこで、ゼロになった仏教をどうやって復活させたのか、調べてみたくなりました。カンボジアでは、ほとんどみんな若いお坊さん達ばかりです。タイなどいろいろな国に留学して、勉強して、さっさっと国に戻ってくるのです。
そこで、私たちが訪問したプノンペンの有名なお寺に、一人だけちょっと年上のお坊さんがいて、ホールに入る前に看板を見せてくれたのです。その看板に書いてあったのが、先ほど勉強した「Sabba pāpassa akaraṇaṃ」という偈です。カンボジアのクメール語と日本語訳も英語訳もありました。彼らは胸を張って「これをよく見てください」と言います。仏教徒ならば、誰でも暗記しているような偈です。私と一緒に旅した日本の皆さんも、その偈を暗記しています。そのお坊さんは、なぜその偈を国宝でも見せるような気持ちで誇らしげに示すのかと、正直ピンと来なかったのです。
そのお坊さんは私たちと対話しているときも、自分たちの活動として、この偈を印刷してすべての学校に何十万も印刷して配っているのだと、いろいろな人にその偈のコピーを渡しているのだと強調しました。結構お金のかかる作業でしょう。そのお坊さんは必死で、そういう活動をしているのです。
そこで、さらにその状況を勉強したところで、なるほどとわかったのです。彼らの指導者だったのは、故マハー・ゴーサーナンダ長老です。かなり優れた学者で、修行者としても仏教界で篤く尊敬されていた方です。このお坊さんは、仏教が破壊され、国民が次から次へと殺されて、カンボジアが地獄のどん底に陥った時、突然、難民キャンプに現れました。仏教の活動は禁止されていたにも関わらず、皆たいへん感激して、この長老を迎えたのです。当時の人々の話によると、皆カンボジアに太陽が現れたような感じがしたそうです。この長老は皆に一言も語らず、自分の鉢の中から皆に小さなビラを配りました。
そのビラには「Sabba pāpassa akaraṇaṃ」で始まる四行の偈がクメール文字で印刷されていて、クメール語の訳もつけてあったのです。
殺戮の的になっていて、人間には想像できないほどの悩み苦しみを経験していたカンボジア人たちは、この偈を読んだ瞬間、心の中の怒り憎しみが晴れて平和と安らぎを感じたと言われています。
優れた学者であるにもかかわらず、この長老の説法は子供から年寄りまで誰にでも通じるものでした。この長老の英訳された説法を読んで、私も深く感動したものです。ここまでシンプルな言葉で仏教の真髄を語れるのだから、この長老は聖者の一人だったのではないかと思いました。
この長老お一人の努力によって、地獄に堕ちていたカンボジアが、優しい人間で溢れる平和な国になりました。ゴーサーナンダ長老は、カンボジアの将来を決める国連の会議などに参加してアドバイスをするだけではなく、街から街へ仲間のお坊さんや信者さんたちと一緒に歩いて、平和の説法をなさったのです。長い間、教育を禁止されていたカンボジア人には、難しい言葉は理解できません。その長老はどこにいても、Sabba pāpassa akaraṇaṃという偈に秘められているメッセージを伝えたのです。この偈とゴーサーナンダ長老の平和活動は一つでした。ということは、カンボジアの平和とSabba pāpassa akaraṇaṃという偈は一つなのです。
ゴーサーナンダ長老の活動を理解してから、あのお坊さんが、誇らしげにこの偈を紹介した意味が分かりました。やはり、カンボジア人にとってこの偈は、怨み憎しみ落ち込みを越えて、心の安らぎを感じて、平和に生きる道を示された、国宝なのです。
カンボジア人はみな落ち着いていて、優しい人々です。とても明るくて、常に微笑んでいます。ポルポト政権に対して、微塵も怨みを持っていないようです。自分の親や親戚のことを密告して、死に追いやった人々のことも許しました。世に見られない、稀な現象です。仏教に対する深い知識は無いが、尊敬に値する立派な仏教徒なのです。「自らの心を清らかにすること」を実行している人々です。敵を裁く気持ちをもつことさえも、自らの心を汚すことなのだと知っているのです。
たった四行であっても、ブッダの言葉には国一つをまるごと平和にできる力があります。この真理の力は不可思議なものです。
まだ皆さまには、信じがたい話かもしれません。ゴーサーナンダ長老とその弟子比丘たちの説法を私なりにまとめてみました。
何かをやりたくなったら、まず自分に問うてみましょう。「これは善いこと? これは悪いこと?」「Sabba pāpassa akaraṇaṃ, kusalassa upasampadā」という二行に当て嵌めてみましょう。たとえば、ある人が仕事をしたとする。報酬を頂かなくてはいけない。相手が「いくらぐらいが宜しいですか?」と訊く。ふつうの人間は少々余分に金を貰いたくなるものです、そこでいつでも、雇う側と雇われる側が交渉になります。喧嘩にもなったり、互いに信頼出来ない結果になったりもする。これは普通な生きかたです。
しかし、この人はこのように考えます。「これは10ドル程度の仕事だが、20ドルを要求しても、払ってもらえるかもしれない。この思考は善い思考だろうか? 悪い思考だろうか? 確かに悪い思考だ。悪い思考は心を汚すから、やめておこう。」そういうわけで、「10ドルでけっこうです」と答えます。仕事を頼んだ側は、適切な値段なので気持ちよく払ってくれるでしょう。真面目な仕事ぶりを見ると、相手を喜ばせたい気持ちも生まれるから、自分から言わなくても20ドルを払ってくれる結果になるのです。
いつでも何かしようとするとき、「これは善いこと? 悪いこと?」と自分に問うてみる。ただそれだけです。それだけで人間は直ります。そんなに難しい理屈も、哲学も要りません。ただ、いつでも「これは善いこと? 悪いこと?」と自分に聞くだけです。いとも簡単に、立派な人間になれます。カンボジア人はこの方法を実践しているのです。ブッダの戒めを宝の持ち腐れにしていないのです。カンボジアで新たに出家した若い人々は、まだ仏教学を専門的に学んではいません。しかし、なんの間違いも起こさず、まじめに戒律を守って修行しています。学問のない出家比丘たちも「これは善いこと? 悪いこと?」という尺度に自分の人生をあてはめているからです。とは言っても、タイに留学して学業を修めた若い比丘たちもたくさんいます。彼らが皆の先生となって指導しています。
「Sabba pāpassa akaraṇaṃ, kusalassa upasampadā」という偈には、どんな人間でも立派に成長させる力があるのです。
実践の仕方を詳しく
・身・口・意で行為したくなる衝動(saṅkhāra)が起こる。
私たちの行為は、身・口・意という三つに分けられます。身とは体でおこなう行為、口とは言葉で喋ること、意とは考えることです。ここで、行為をする以前のsaṅkhāra(サンカーラ)を発見しましょう。Saṅkhāraとは、行為を司る衝動のことです。一般人は、何かやりたくなったらやってしまいます。そのままだったら、成長はあり得ません。動物なら、やりたくなったことをやってしまいます。しかし、人間にはもう少々、違うことができるはずです。それは、「行為を司る衝動を発見すること」です。
体でなにかをやりたくなったならば、やりたいというエネルギーを感じるでしょう。それを発見しましょう。何か喋りたくなったら、喋りたいというエネルギーを感じるでしょう。それを発見しましょう。何かを考える時も、考えたいというエネルギーがあります。発見するのは難しいかもしれませんが、諦めて欲しくないのです。身行為・口行為の衝動を発見することに成功すると、意行為の衝動も発見できるようになります。身口意の行為をしたいという意欲は、心に起こるものです。そのエネルギーが体に伝わって、体の行為をしたり、言葉をしゃべったりするのです。心に起こる衝動・意欲を発見しましょう。これがsaṅkhāraを発見することです。
・次に「これは善?それとも悪?」と調べる、自分に問うてみる。
Saṅkhāraという衝動には、善と悪という区別があります。行為はただの行為です。善行為・悪行為と区別するのは、saṅkhāraが行為を引き起こしているからです。衝動を発見した人は、その時「これは善? それとも悪?」と自分に問うてみます。それだけでも十分だと思います。しかし、条件があります。「立派な人間に成長したい」という希望が必要です。そのような希望を持たない愚者は、悪いことをして何が悪いのか、という開き直った態度を取るものです。成長したいという希望がある人の心は、衝動が悪だと発見したら、その衝動を消します。それだけで、すべての生き方が善になってしまうのです。
・大まかな行為から始めますが、能力が上がると細かな行為まで管理できるようになる。
・悪・善の意欲を起こす衝動を発見して、それを絶つのです。
次に、上級レベルの実践の仕方を説明しましょう。
実践を始める人は誰でも、まず大まかな行為を惹き起こす衝動を発見します。そうすると、激しい怒り・激しい欲などの衝動から起こる行為が無くなります。一般的に罪を犯さない人間になるのです。
次にその人は、さらに細かく自分の行為をチェックします。自分の心に、悪を犯すまでには至らない貪瞋痴が生まれることを発見するのです。たとえば、美味しいものを作ろうと料理をする。悪行為ではありません。しかし、心は欲に染まっています。子供が散らかした部屋を片付けて掃除する。その時、子供のだらしない生きかたに苛立っています。後片付けと掃除は悪行為ではありません。しかし心は怒りに染まっているのです。
このように、細かな貪瞋痴も発見して成長しましょう。成功すれば、貪瞋痴の衝動を離れた行為だけで生きることができます。貪瞋痴とは対極にある、不貪不瞋不痴の衝動のみで生きられるようになります。悪を犯さないことは、ほぼ完了です。善に至ることも、ほぼ完了です。
もう一つ、ステージがあります。
「なぜ貪瞋痴と不貪不瞋不痴の衝動が起こるのか?」と調べてみます。衝動の原因は、「私は存在する。従って他人も存在する。ものごとも存在する」という前提で生きていることです。それならば、貪瞋痴も不貪不瞋不痴も起きてしまうのは当り前です。
私はほんとうに存在するのでしょうか? 他人もものごともほんとうに存在するのでしょうか? なぜ「存在する」という前提に至ったのでしょうか? 貪瞋痴の衝動が起きて悪行為を司るのだから、この存在感は正しくないはずです。ものが存在するならば、生命は善悪に振り回されることから永久的に離れられません。要するに、生命には救いは成り立たなくなります。
ということで、「存在感とは何か?」について調べる必要があります。他人が存在するか否かを調べるのは不可能です。他人が存在すると思うのは、「自分が存在している」という前提があるゆえです。誰にでも、「私がいる」という実感があります。その実感を観察します。「私がいる」という実感は、いかなる仕組みで起こるのかと観察するのです。皆さまにヴィパッサナー冥想として紹介しているのは、この観察のしかたです。
観察の結果、「一切の現象は無常・苦・無我である」と発見します。無常・苦・無我は真理です。先入観を使わず正しく観察するならば、誰でもこの結論に達します。要するにすべては無常なので、「ものは存在しない」のです。無常たる現象に対して、貪瞋痴は起こりえません。同時に、不貪不瞋不痴も起こりえません。この発見は、解脱の境地です。善も悪も乗り越えた境地です。
「一切の悪を犯さないこと」というたった一行を実行することで、人は解脱に達するまで成長できるのです。
以上の話を踏まえたうえで、ここから本書のテーマに入りましょう。
この施本のデータ
- 善に達するチカラ
- 忍耐・堪忍の本当の意味
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年5月3日