善に達するチカラ
忍耐・堪忍の本当の意味
アルボムッレ・スマナサーラ長老
第二章 忍耐とは我慢ではなく「落ち着きの心」
khantī・忍耐
Khantī paramaṁ tapo titikkhā 忍耐・堪忍は最上の修行である
nibbānaṁ paramaṁ vadanti buddhā 涅槃は最高のものであると、仏陀たちは説きたもう
Na hi pabbajito parūpaghātī 他人を害する人は出家者ではない
samaṇo hoti paraṁ viheṭhayanto 他人を悩ます人は沙門(道の人)ではない
このダンマパダ184偈は、二つのキーワードで成り立っています。183偈は、人が歩むべき正道はどのようなものなのか、という理論的な教えだと理解したほうがよいと思います。しかし私は勝手に、理論的な教えの実践面と実践の仕方を延々と説明しました。これは、説法する僧侶たちが伝統的に行なうやりかたです。短い経典を引用して詳細に説明することで、解脱に達するまでの道順を示すのです。実践の仕方は説明したので、ここからは偈のキーワードだけ解説しても十分ではないかと思います。
もう一つ、考えがあります。184偈は「一切の悪を犯さないこと」などの偈でお釈迦さまが説いたことの実践の仕方である、と理解することです。要するに、まずお釈迦さまは「正道は何なのか」を説明する。それから、「どのように正道を実践すべきか」をレクチャーする、という順番です。
お釈迦さまが「このようにしなさい」と強く述べる場合は、聴く相手はいつでも出家比丘たちです。出家する人々は、自分の命を師匠たる釈尊に預けています。だから、釈尊にも弟子たちを指導する義務が生じるのです。
一般人とお釈迦さまの間では、このような関係はありません。説法を聴く人は自由なので、実践するか否かは各人が判断しなくてはいけない。だから、お釈迦さまは、真理を示し、実践の仕方を提案するまでに留めるのです。ポイントは次のとおりです。
・ダンマパダ183偈で、理論的に仏道を説かれました。
・184偈は、実践・やってみることを推薦するのです。
・心を清らかにする道こそが「修行」です。
修行とは何でしょうか? 世界にはたくさんの修行方法があります。いずれも等しく修行だと言うべきでしょうか? なかには相反する修行も存在します。その場合、両方正しいとは思えませんが、どちらが正しいと判断するべきなのでしょうか? 相反する修行というと、皆さまに理解が難しいかもしれません。唯一絶対的な神を信仰する宗教といえばイスラム教とキリスト教ですが、それぞれの諸宗派の修行を見ると、似ていないのです。
適切な例とは思いませんが、日本の習慣からも一つ例を出します。日本仏教のある宗派は、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることのみが本物の修行だと修行します。また別の宗派は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることのみが本物の修行だと説きます。一般人には、「どちらが正しいのか?」という疑問が起きるでしょう。一つを選ぶと、もう一つの宗派に反対したことになります。両方実践することになると、双方の宗派から追い出されます。困ったものです。
一般の方々は、滝行、断食、菜食、お祈り、写経、巡礼などが修行だと思っています。どんな修行方法にも共通する問題は、一つを選んで「これこそ」と言うことはできない、ということです。
この問題を解決するには、智慧の完成者に訊かなくてはいけないでしょう。ブッダは、「心を清らかにすることが修行です」と答えます。人間が自分の好みで組み立てる修行方法に興味はないのです。自分が組み立てた方法でも、心が清らかになるならば、文句はありません。
しかし心が汚れた人が、汚れた心で考えて導き出した結論が、正しいと言える保証もない。だから、ここで気持ちをはっきりさせましょう。心を清らかにすることが、本物の修行なのです。
・ここで、tapo(tapas)/修行という単語を使います。
・「苦行」を意味する場合も tapasという語が使われました。
インド文化では、宗教者が特別だらしないことをいろいろ派手にやっています。ヒンドゥー教の行者たちは、今も裸で過ごしたりしている。とりわけナーガ・サードゥ(nāga sādhu)というグループは極端です。詳細はネットでチェックすれば分かりますが、汚いものを食べる、裸でいる、体を苛めるなど、やることに限りがありません。
面白いことに、ヒンドゥー教のおおもとの聖典『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』などでは、苦行を推薦していません。現代ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』も同じです。しかしヒンドゥー教の一部の人々が、派手に苦行を実践しているのです。
ジャイナ教は苦行を推薦する宗教で、「苦行をして業を断たない限り魂は救済されない」と説きます。でも、ジャイナ教のお寺は塵一つない綺麗な場所です。在家の人々は、たいへん綺麗な白い服を着ています。苦行を推薦するジャイナ教徒は格好よく品格よくいるのに、苦行を推薦しないはずのヒンドゥー教徒は裸でいたり苦行したり体を様々な方法で苛めたり一般社会人が非難する行為をしたりするのは、ちょっとおかしなことだと思います。出家に裸でいるべきだと説くのはジャイナ教です。いまも山に隠れて裸形を守る少数派の行者がいます。しかし、ジャイナ教でも多数派の行者は、白い服を纏っているのです。
体を苛める修行といえば、体に釘を打ったり、手を上げたまま降ろさないでいたり、火の上を歩いたり、断食したり、あるいは猿行をしたり、方法は様々です。インドにはハヌマーン(hanumān)という猿の神様がいます。ハヌマーン神を信仰する修行者は、体を裸にして灰を塗って、猿のようにいろいろ模様もつけて喋らないで過ごします。猿は喋れませんからね。質問をしたら、ウーウーとか何とか唸ります。それで隣に人が座っていて、「いま、神様はこういう言葉を言いました」と通訳する。知識人なのに、インド人は「神のお告げ」としてこれを信じています。誰も、「なぜ、通訳者だけ猿の言葉を理解するのか?」と疑問に思わないようです。もし猿の言葉が理解できるならば、動物の研究をする科学者たちは助かるのに、そのような研究所には行きません。たとえ知識人であっても、宗教・信仰がらみになってくると、滑稽な振舞いをしてしまうのです。
お釈迦さまの時代にも、インドでは苦行(tapas)という言葉が流行っていました。たくさん修行方法があったからこそ、お釈迦さまは「忍耐・堪忍こそが最上の修行(tapas)である」と説かれたのです。
このたった一言で、無数にある矛盾だらけの修行方法を、全部却下してしまったのです。忍耐と堪忍はお釈迦さまの具体的な言葉ですが、理論的な言葉に入れ替えれば、「自ら心を清らかにすること」になります。
出家比丘には、着るべき衣は糞掃衣であると定められています。糞掃衣は、人々が捨てた布を拾って、縫い合わせて衣にしたものです。要するに、着る服の製品価値はゼロです。そうすることで、衣を纏っていても心が汚れないのです。基本はそうなっていますが、在家の方々が衣をお布施するので、いまは出家には糞掃衣を纏うことができなくなりました。とはいっても、衣だけでは、心を汚す対象になりません。
在家の仏教徒には服の制限は一切ないでしょう。質素な服を着ても、派手なブランドの服を着ても構わない。ただ、心が汚れないように気をつければ十分です。仏教徒が、見栄を張るために、他人と差をつけるために服を選ぶならば、それは間違いです。TPOに合わせた服を選べば十分なのです。服によって心が汚れないように気をつけましょう。それも修行になります。
また、宗教は食べるものにも色々制限をつけます。食べるべきものと食べてはいけないものを定めます。仏教から見れば、それも余計な話です。人は経済的に余裕があれば、贅沢に食べても構わないのです。豊かなのに粗食をする必要はありません。しかし、食べるもので見栄を張るならば、他人と差を付けようとするならば、傲慢な気分になるならば、良くないことです。仏教徒は適当に、常識的に食をいただきますが、それによって心が汚れることを戒めるのです。
苦行は無意味
ある時、お釈迦さまが一人の行者に出会いました。彼は長きにわたり、決して体を洗わないという修行をしていたのです。自分が一年も体を洗わないでいることを想像してみてください。人が近寄れないほどの悪臭を放つと思います。その行者は、髪の毛を頭のうえに結んでいました。決して洗わない髪の毛を結んでいるから、派手に汚れて、シラミなどの寄生虫たちがわき放題です。裸ではなく、体には鹿の皮をまとっていました。それも現代人が着るレザーウェアとは違います。鹿の死体から剥がしただけの鞣していない皮です。そのような皮も、寄生虫にとっては絶好の住処です。行者は、この生きかたを何年も続けて行なっていました。本人はかなり苦しかったろうと思います。それで、「自分は他人に真似のできない修行をしているのだ」と威張っていたのです。
お釈迦さまは彼に話しかけました。
「kiṁ te jaṭāhi dummedha 愚者よ、お前の頭上の巻き髪は何なのか?
kiṁ te ajinasāṭiyā 体に纏っている鹿の革は一体何なのか?
abbhantaraṁ te gahanaṁ お前の心の中は派手に汚れているのだ。
bāhiraṁ parimajjasi お前は外見だけなんとかしようと思っている」と(ダンマパダ394)。
お釈迦さまは、その行者をゴミ扱いして叱ったのです。
お釈迦さまは、「体はゴミ」という意味で言ったのではありません。「お前、体をゴミだらけにしても、なんの意味もない。なぜなら、お前の心がゴミだらけだから」という意味です。
外(外見)を何とかしたからといって、心が清らかになる保証はありません。外見に引っ掛かったことによって、心がなおさら汚れる可能性は大きいのです。
そういうわけで、tapas(修行)の意味は「心を清らかにすること」です。
この施本のデータ
- 善に達するチカラ
- 忍耐・堪忍の本当の意味
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年5月3日