善に達するチカラ
忍耐・堪忍の本当の意味
アルボムッレ・スマナサーラ長老
正しく生きる道
・負ける道を選ぶ必要はありません。
人生には成功もあれば失敗もあると嘯いて、気楽に生きようとしてはならないのです。そういう人々は、負ける道を選んでいます。生きるとは、終わりのない戦いです。戦い続けても、いつかは必ず負ける。それが死です。死自体は避けられませんから、そこに至るまで勝ち続けて進まなければいけない。
「ああすればよかった」という悪魔の誘惑に嵌められる人々、感情のままに生きる人々は、負ける道を選んでいます。生きている間じゅう負け続けて、死を迎えた時も負けるのです。
幸福に過ごして、幸福な死を迎えられる生き方を、ブッダから学んだほうがよいと思います。
・問題、ハードル、障害などは自然法則です。
全然気にする必要はありません。問題があることは法則です。それを乗り越えることが成長です。
・味方を発見しましょう。
問題・ハードル・障害などなどは自然法則だと言ってしまうと、皆様方は暗い気持ちに陥るかもしれません。繰り返しますが、生きることは戦いです。味方がいれば競争で勝てる可能性が高まります。私たちにはライバルばかりではなく、味方もいるものです。味方を発見して、大事にしましょう。このポイントも簡単に忘れてしまいがちです。味方の存在を無視して自我を張るならば、その人は負ける道を選んだことになります。
味方といっても、大げさに考えなくても構いません。子供たちが学校に行くとき、道路脇で待っているよく知らないおばちゃんから、明るく「しっかり頑張ってね」と声をかけられたら、そのおばちゃんも味方です。彼女の言葉を素直に受けとめれば、学校で元気にがんばる勇気が湧いてきます。
ある子供が学校で苛められているとしましょう。それ自体は大きな問題にしませんが、家に帰ったら落ち込むのです。子供の明るさが消えると、親はそれをすぐ感じます。母親が優しく対応すると、気分が良くなります。父親が「今日もあなたは男らしく学校で頑張ったのか?」と訊くと、いじめに対して対応する勇気が湧いてきます。子供は、両親が自分の強い味方だと理解して、失敗を恐れず元気に生きればよいのです。
会社で苛められているとしましょう。仲間が自分の足を引っ張ろうとしていて、自分を応援してくれる味方もいません。しかし、生きる競争に勝たなければいけない。
この場合は、自分の能力を味方にすればよいのです。能力を上げて、一層効率的に仕事をできるようにしましょう。人に何を言われても、自分が効率よく仕事をしているのだと、自分の能力が自分の味方であると理解すれば問題は解決します。というわけで、人間の知識・技術・能力・性格なども自分の味方になります。味方を発見して、味方を大事にするならば、生きる戦いに負けることはないのです。
・味方を作るというハードル
私たちに味方がいれば、それに越したことはありません。しかし、味方という存在は自然に備わっているわけでもありません。強いて言えば、両親だけです。なのに、両親もたまに味方になってくれないケースがあります。だから親の愛情も、生得権だと勘違いしないでください。親を大事にすること、親孝行することは、人間にとって欠かせない義務です。
その他の味方を作ることにも頑張らなくてはいけないのです。人は味方を買って出てはくれません。いろいろ工夫して、味方を作りましょう。他人に嫌われる、批判される行為は一切やめたほうがよいでしょう。自分が役に立つ人間であるならば、いくらでも味方が現れます。
自分の知識・能力・才能なども味方です。そういうものも生まれつきは付いてこないので、努力して身につけなくてはいけません。これも人間にとって、乗り越えなくてはいけない一つのハードルなのです。
諸問題を根こそぎ解決する
生きることは戦いであると説明しました。ハードルは自然法則だとも説明しました。今までの説明から、ハードルを乗り越える方法は実行できそうもないと思われるかもしれません。ひとつひとつのポイントを気にするのも、正直ややこしいことです。皆、「簡単な方法はないでしょうか」と知りたがっています。人生の諸問題を根こそぎ解決する方法を知りたければ、正覚者であるブッダに訊いてみてください。
その答えは、「一切の悪を犯さないこと。善に至ること。自らの心を清めること」です。この三つの言葉の実行は、ややこしくありません。実行すれば、諸問題を根こそぎ解決したことになります。
生きる戦いは最後に必ず負ける、と述べました。そのとき私は、「悔しく死ぬ」という言葉をあえて使いました。死ぬことは避けられないが、悔しく死にたくはないものです。そのためには、人生を成功させるだけでは物足りません。人格を向上させなくてはいけないのです。生まれる時はどんな生き物として生まれても構いませんが、死ぬ時は人格者になって最期を迎えてほしい。
お釈迦さまは、そのやりかたを「自らの心を清めること」という簡単な言葉で説かれました。心を清めることに挑戦すれば、この世で生きる間に成功し続けて、幸福に最期を迎えて、死後も幸福になれるのです。
高度な目標・目的を目指す
人がどんな目標や目的をめざしても、その前にハードルが立ちはだかります。たとえば、「体重を5キロ減らしたい」という目標を設定すれば、それに相応しいハードルが現れます。乗り越えたならば、体重は希望どおりに減らせます。「大学を優秀な成績で卒業したい」と思うならば、それに相応しいハードルが現れます。
そこである人が、「俗世間の次元を超えた心を作りたい」と思ったとしましょう。高い目標ですから、ハードルもそれに相応しい厳しいものになります。楽々に生きていても、俗世間の次元は破れません。仏教用語で言うならば、人が解脱を目指すとしましょう。最高の目標なので、ハードルもそれに応じて高くなります。それは「存在欲を断つ」というハードルです。
「存在欲を断つなんて不可能だ」と言ってはなりません。それは愚者の考えです。人間は、あり得ない、不可能な目標・目的を設定しません。読者の皆様のなかで、「アメリカの大統領になりたい」という目標を持つ人はひとりもいないでしょう。たとえアメリカ国籍をとっても、アメリカ憲法の規定により、それは不可能なのです。最低、日本の総理大臣になろうとする人もいないと思います。
私たちには、いろいろ目標がありますが、それらは皆、実現可能なものです。ただ実行するか否かだけの問題です。
私たちには存在欲があります。存在欲は、各自で実感できるものです。それを断とうとするならば、実現可能なのです。ただ、ハードルが高度だというだけのことです。
・ハードルを乗り越える秘訣はkhantī・忍耐です。
ここでやっと本書のテーマであるkhantī・忍耐の話に入ります。テーマに関係のない事柄をたくさん書いてきたと思われるかもしれませんが、意図的にkhantī・忍耐という言葉を避けてきました。
その代わりに、人生は戦いだ、ハードルばかりだ、戦わなくてはいけないのだ、負ける道を選んではならないのだ、勝ち続けなくてはいけないのだ、等々と話してきました。なぜならば、いままで説明したとおりに生きてみたいと思う人にkhantī・忍耐があれば、必ず成功するからです。解脱に達することもできます。khantī・忍耐さえあれば、人生のハードルはハードルでなくなるのです。
・忍耐がある人は、簡単には諦めません。
人間が抱えている問題は、「飽きっぽい性格」です。何か少々難しく感じただけで、諦めてしまいがちなのです。人生に目標を設定したならば、結果が出るまで諦めてはいけません。次から次へと現れるハードルを乗り越えなくてはいけないのです。それには忍耐は欠かせません。
要するに、忍耐とは諦めないこと、負けないことでもあります。
諦めてはならないと言っても、理性に基づく必要があります。俗世間では、諦められなくて精神的に病気に陥る人々がいます。よく見ると、あり得ないことを目標に設定しているのです。
厳しい例を出します。人が病気に罹って、医者から癌だと診断されます。さらに、末期状態であると告げられます。存在欲を断ってない患者にとって、この告知は受け入れ難いものです。諦めたくはない、何としてでも癌を治したいと思うのです。しかしこの世に末期癌を治す方法は存在しません。諦めない患者は、癌で苦しむだけではなく、精神的にも怯えて苦しまなくてはいけなくなります。客観的に見れば、「命を諦めて、残りの人生を明るく清らかな精神で過ごしたほうがよいのではないか」と思えるケースです。このように、俗世間においては諦めたほうがよい目標もあるのです。
理性に基づいて設定した目標ならば、諦める必要はありません。目標に達するまで、ハードルを乗り越え続けなくてはいけない。人間の心は煩悩に汚れているので、設定する目標も大したことはありません。失敗しても、それほど損はないのです。たとえば、東大を目指した若者が慶大に入ったと言っても、大したことではないでしょう。金メダルを目指して銅メダルに終わっても、問題はありません。俗世間のレベルで設定する目標はこの程度のものなので、それをめざして努力する時も気持ちが揺らぐのです。
人格を向上させようとするならば、揺らぐ気持ちのままではダメです。お釈迦さまが提案する「自らの心を清めること」は、決して諦めてはいけない目標です。それは汚れた心で設定した目標ではなく、正覚者の智慧で説かれた目標なのです。ですから、決して諦めてはならない目標です。khantī・忍耐はそのために欠かせない、絶対的な味方なのです。諸々のブッダが、khantī・忍耐は最上の修行であると説かれたのは、そういうわけです。
khantī・忍耐は必需品
普通に生きてみようとしても、絶えずハードルが現れます。悪を止めることにしても、善を行なうことにしても、ハードルの連続です。心清らかにしようとすると、さらに難しいハードルが連続します。
お釈迦さまは、途中で諦めることを禁じています。ある日、帝釈天がお釈迦さまを訪ねて「人はどこまで精進するべきものなのか?」と質問しました。お釈迦さまは「結果が出るまで」と答えました。つまり、「途中で諦めることは認めない」という意味です。
人格を向上させようとするとき、仏道を歩むとき、ハードルが連続して現れます。それが当然であると、冷静に受け止めることです。悔しくなったり、嫌になったり、文句を言ったりしないことです。
エベレストに登りたいと思ったならば、標高が高すぎだ、酸素が足りない、天気の変化が危険だ、等々と文句をいうのではなく、どんなハードルも当然と捉えて乗り越えましょう。
人が「嘘をつかない」と決めたとします。これは人格向上の方法の一つです。決めた瞬間から、嘘をついたほうが楽ではないか、ホントのことを言ったらマズいではないか、他人にバカ呼ばわりされるのではないか、などなどのハードルが現れます。一つひとつ、乗り越えるしかありません。
またある人が、「怒らないことにしよう」と決める。それも人格向上の道です。それには、嘘をつかない人よりも険しいハードルが待っています。
人が人格向上の道を歩む。様々なハードルに遭遇する。文句ひとつ言わず、やる気を失わず、冷静に落ち着いてハードルを乗り越える。それが「忍耐」ということです。要するに忍耐さえあれば、人格向上の道のりは解脱という山頂に達するまで問題なく進むのです。khantī・忍耐は最上の修行です。
ハードルにめげず、落ち着いて対応することがkhantī・忍耐です。落ち着いている、ということがポイントです。一般日本語では、忍耐には「我慢する」というニュアンスが入っていますが、そのように理解しないほうがいいと思います。「我慢する」には、自分の気持ちを抑える・潰す、という意味あいもあります。人格向上を目指す人は嫌々、何かの気持ちを抑えて潰す必要はありません。明るく目標をめざして進むだけです。
その道にはたくさんハードルがあって、それらを乗り越えなくてはいけない。だから、khantī・忍耐は「落ち着き」という意味だと理解したほうがよいのです。
がむしゃらにハードルにぶつかっても、khantī・忍耐にならない場合があります。がむしゃらにぶつかっているが進めない、結果がない、と言うならば、やりかたを調整すべきです。結果が出なければ、無駄な努力になります。理性が必要です。
khantī・忍耐をもって、人格向上を目指して努力する時は、努力に相応しい結果が現れているかをチェックしなくてはいけないのです。
この施本のデータ
- 善に達するチカラ
- 忍耐・堪忍の本当の意味
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年5月3日