施本文庫

善に達するチカラ

忍耐・堪忍の本当の意味 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

khantīとtitikkhāのまとめ

・titikkhāは、悪条件を堪え忍ぶことです。
・心のなかに起こる、怒りとその仲間の感情を制御すること。

仲間とは、怒り・嫉妬・憎しみ・後悔ですね。これらの感情を制御することがtitikkhāです。

・khantīは、欲・怒り・無知という三毒に心が感染して負けないように気をつけることです。
・理性と智慧を中心にして実践することです。

状況を判断しながら、どうすれば上手くいくのかと見ながら、頑張るべき時は頑張る、手を緩めるべき時は緩める、休むべき時には休むというふうに、しっかりとした善い結果が出るように調整することがkhantīです。

・常に、冷静な心を保つことです。

最終的な結論は、「常に冷静でいましょう」ということになります。

khantīとは解脱の智慧です

これから、解脱とkhantī・忍耐の関係を勉強してみましょう。今までの説明と次元の違う話になるかもしれません。超越したkhantīとは、解脱のことなのです。今までの話と違う話ではなく、解脱の同義語としても、khantī(平安、落ち着き)を使っています。

・ヴィパッサナー実践とヴィパッサナーの智慧

ヴィパッサナーを実践する人に、徐々に智慧が顕れます。仏典では、実践に伴って顕れる智慧をヴィパッサナー智慧(観智 vipassanāñāṇa)と言います。
解脱は出世間の智慧なので、俗世間的な智慧と区別するために、このように言葉を変えているのです。ヴィパッサナー智慧が顕れた人の心には、まだ煩悩があります。解脱に達した人の智慧に、煩悩はありません。それだけの差です。智慧とは、無常・苦・無我を発見することです。修行中も無常・苦・無我を発見し、体験していきます。それこそが真理なので、当たり前の話です。しかし、まだ心が煩悩を断って解脱の境地に進入していません。この差を示すために、仏典では「ヴィパッサナー智慧」と「解脱の智慧」の2つにしています。

ヴィパッサナー智慧にはランクがあって、経典では7つ(七清浄)です。解脱は別な枠にしています。注釈書になると、智慧のランクをより詳しく分けています。七清浄の6番目は、行道智見清浄(paṭipadāñāṇadassanavisuddhi)と言います。修行者は本格的に道に入って精進しているところです。そこで顕れる智慧は、さらに詳しく9つのランクに分けています。そのうち8番目は、行捨智(saṅkhārupekkhāñāṇa)と言います。修行者は、一切の現象は無常・苦・無我であることを疑いなく揺るぎなく明確に発見している処です。その時は、「すべての現象に対して何の反応もしないで落ち着いていられる」という精神状態になるのです。これが高度なレベルのkhantīです。その時あるのは、「忍耐」ではなく、「落ち着き」です。

修行が進むと間もなく、一切の現象に執着することではなく、離れる方向に心が傾くので、心は解脱を体験しようとします。その瞬間、煩悩を断って、涅槃を経験するのです。それから、その修行者の心が、如何なる場合も揺らぐことのない、khantī・落ち着きに達します。khantīは解脱の同義語としても使われます。これが、khantīという智慧です。

随順忍耐

本書の終わりに、お釈迦さまが使用なさった随順忍耐(anulomikā khantī)という用語を紹介しましょう。これは、「解脱に随順した忍耐」という意味です。俗世間の次元を超えて、出世間の境地に入ろうとしているボーダーラインの智慧です。
その智慧が顕れて、次に「決まっている道に入ります(sammattaniyāmaṃ okkamissati)」ということになります。法則的に、解脱に達する直前の道に入った状態です。そこから堕落すること、退行することは絶対にありません。次の瞬間、心が煩悩を断って、解脱に達するのです。
修行を始めた方であるならば預流果に、修行者が預流果であるならば一来果に達します。一来果の方が修行に励んだならば不還果に、修行者が不還果であるならば阿羅漢果に達します。阿羅漢果とは最終解脱のことです。解脱を経験するとは、まことのkhantī(落ち着き)に達することなのです。

つまり、仏道修行とはkhantīに始まりkhantīに終わるのです。

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この施本のデータ

善に達するチカラ
忍耐・堪忍の本当の意味 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2015年5月3日