ジャータカ物語

No.4(『ヴィパッサナー通信』2000年3号)

園林を破壊した話

Ārāmadūsaka jātaka(No.268) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊がコーサラ国のある村で、お説きになったものです。

お釈迦さまがコーサラ国の人々の間を托鉢してまわられていたとき、ある村の大きな家の主人に招待されて、その家の庭園を訪れておられました。

主人は、お釈迦さまを先頭とする僧団に御布施をしてから申し上げました。

「どうぞ皆様、ご自由にこの庭園を散歩なさって下さい」

比丘たちは立ち上がり、庭園の管理者に案内されて歩いていると、空き地があるのを見つけて管理者にたずねました。

「この庭園は、ほかのところではいたるところ木々が生い茂って深い木陰になっているのに、ここのところだけは何の樹木も潅木も無いですが、いったいどういうわけですか?」

「はい、皆様。この庭園に植林するときに、一人の村の若者が水やりを任されていたのですが、この場所の苗木を根こそぎ引き抜いてしまい、根の大小に応じて水の量を加減しようとしました。それで苗木は傷んでしぼんでしまい、枯れてしまったのです。そんなわけで、ここのところだけが空き地になってるのです。」

比丘たちはお釈迦さまのもとに近づき、このことを申し上げました。

お釈迦さまは 「その若者が園林を破壊してしまったのは、今だけに限ったことではない」 と、過去の物語をお説きになりました。

その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、人々のあいだでは、これから行われるお祭りの話でもちきりでした。祭りの触れ太鼓の音が鳴り響くと、人々はすっかり祭りのことに夢中になっていました。

そのころ国王の庭園には多くの猿たちが住んでいました。庭園の管理者は、 「この猿どもをうまくてなづけて水やりをさせれば、私は祭りに出掛けることができる」と考えました。 そこでボス猿のところへ出向いて、

「この庭園はお前たちにとっても大切なもので、ここにある花や果実や若芽を食べてお前たちは生きている。わたしはしばらくの間出掛けてきたいので、留守中この庭園にある苗木に水をやってくれないか?」 と訊ねました。

ボス猿は快くひきうけたので、彼は水をやるためのバケツと水さしを猿たちに与えて、いそいそと祭りに出掛けて行きました。さっそく猿たちはバケツと水さしを使って苗木の水やりをはじめました。そこで目付役のボス猿は猿たちに声をかけました。

「さあみんな、水というものは大事に節約して使わなくてはならない。お前たちは苗木に水をやるときに、一本一本根を引き抜いてよく観察し、根が長くて地中深くまでのびている苗には多めの水を、まだ根が短くて浅いところまでしかのびていない苗には少なめの水をやりなさい。そうすればあとで、われわれにもこの貴重な水が残ることになるだろう」 と、自分の知識の深さを見せました。

猿たちは「なるほど」と同意して、ボスに言われたとおりにしました。

ちょうどそのときに、あるひとりの賢い人が王宮の庭園に来て、猿たちのしていることを見かけて言いました。「やあ、猿たちよ。どうしてお前たちはいちいち苗木を引き抜いて、根を見てから水をやっているのか?」

猿たちは答えました。「私たちのボスが、こうするようにと私たちに言いきかせたのです」 と言いました。

賢い人は、このことばを聞いて、 「ああ、全く嘆かわしいことだ。智慧のない愚かな者たちは気の利いたことをしているつもりで無益なことばかりしているのだ」と考えて、次のような詩句を唱えました

有益なことにうとい者は、役に立とうとしながらも全く幸福をもたらさない
その愚か者が逆に益あるものを滅ぼすばかり
あたかも園林に住む猿のように

このようにして、その賢い人は、詩句によってボス猿を諭して、自分の仲間たちとともに庭園を立ち去りました。

お釈迦さまは、 「その村の若者が園林を破壊してしまったのは、何も今だけに限ったことではない。過去においても園林を破壊してしまったことがある」とおっしゃいました。

この過去生物語で、ボス猿は園林を破壊してしまった村の若者、ボス猿を諭した賢い人は菩薩(お釈迦さまの前世)でした。

スマナサーラ長老のコメント

世の中で、知識や学問、論理、理屈などに凝り固まっている人が、いたずらに大勢います。

その人々は何か問題が起きたら、きまり、法律、習慣、慣例、理論など、想像できる範囲のすべての知識を絞って、延々と考えて結論を出す。脳細胞にまで汗が出るくらい考えてくれるのはありがたいのですが、肝心な結論は全く役に立たないか、もうすでに遅すぎるかになるのは残念です。

我々の社会で様々な問題が、次から次へと現れます。その時知識人たちが色々と話し合いますが、一向に問題が解決することでもなく、社会が良くなることでもないのです。

この物語のボス猿は、言ったことが感心するほど論理的です。
大事な水の資源を守ることまで考えたのですから、大したものです。
でも、自分の知識に酔って考えると、どこかに全て無になる落とし穴があります。

知識、科学と技術の進歩などだけ誇らしげに賛嘆している我々は、原子爆弾も作り、地球を丸ごと破壊になるように追い込む。

知識も科学も技術の発展も、芸術も政治経済などの全てが、人間に幸せに豊かで生きていられるための手段として現れたものです。

やがてこの手段は目的になってしまって、目的であるはずの幸せに生きることは忘れたのです。人々が自分を幸せにしてくれるはずの手段の奴隷になって、苦しむようになってしまったのです。

頭の能力では、このボス猿には負けたくないようです。

知識、理屈などにとらわれている我々は、肝心な何かを忘れているということは、この物語の教訓ではないかと思います。