No.6(『ヴィパッサナー通信』2000年5号)
金塊の話
Kañcanakkhandha jātaka(No.56)
この物語は、釈尊がサーヴァッティにおられたとき、ある一人の比丘について、お説きになったものです。
サーヴァッティに住んでいた良家の一人息子が、お釈迦さまの説法を聞いて、仏・法・僧の三宝に帰依して出家しました。そのとき彼の指導者たちは、膨大な数の戒律を複雑な分類で厳密に説明して聞かせました。
そこで彼は、 「この戒というものは実に数が多い。自分はそんなに多くの戒を課せられても到底実行は出来ないだろう。戒も満足に守れない者が出家しても何にもならないのだから、それよりも一家の家長として布施などの善行をなしたり、妻子を養ったりすることのほうが良いことだろう」 と考えました。
そこで指導者に、 「師匠よ、私にはそんなに多くの戒律は守り切れません。守れないのに出家してもなんの益もないと思いますから、私は俗人に還って生活をしますので、僧衣と鉢をお返しいたします」 と申し出ました。
指導者たちは、 「もしそういうことならば、お釈迦さまにきちんとお話してから行きなさい」 と言って、彼を引き連れて講堂に居られたお釈迦さまのもとに行きました。
お釈迦さまは、 「比丘たちよ、あなたたちは何故この比丘を無理に連れて来たのか」 と尋ねられたので、指導者たちは事情をお話しました。お釈迦さまは、
「比丘たちよ、あなたたちは何故この比丘に多くの戒律を説明したのですか?、この比丘は持っている能力の範囲でしか戒を守ることは出来ません。あなたたちは今後は決してそのような指導方法はとらず、この比丘のことは私に任せておきなさい」
と言われて、その比丘に向かって、
「あなたは多くの戒を守る必要はありません。しかし、ただ三つだけの戒ならば守ることが出来るでしょう」
「世尊よそれならば出来ます」
「よろしい、それではあなたは今後、身・口・意(身体の行為・言葉・考えること)の三つを守りなさい、つまり身・口・意による悪業を慎みなさい。俗人には還らずに修行に戻りなさい。この三つの戒だけを守りなさい」
と命じられました。そこで比丘は安心して、
「承知いたしました。世尊よ、私はこの三つの戒を守ります」 と申し上げ、お釈迦さまを礼拝してから指導者たちと一緒に去って行きました。
その後この比丘は三つの戒を守りながら、心の中で、 「指導者たちは私に色々な戒律を説明してくれたが、彼等自身はブッダでないために、私に理解させることが出来なかった。お釈迦さまは、まことに正しく覚られたブッダであらせられるから、あれほど膨大な戒を三つのことに含ませて、私に授けて下さったのだ。お釈迦さまはまことに私の擁護者である」 と思って智慧を増していき、数日を経たある日に遂に阿羅漢の悟りを得ました。
講堂に集まった比丘たちはその知らせを聞いて、
「友よ、『私は膨大な数の戒は守れません』と言って還俗しようとした比丘に対し、お釈迦さまは一切の戒を三つの戒に含めてお授けになり、その比丘は阿羅漢の悟りを得ることが出来た。お釈迦さまは何と非凡な師であらせられることか」と話しながら、ブッダの諸々の徳を賛嘆しながら坐っていました。
ちょうどその時お釈迦さまが講堂に来られて 「比丘たちよ、非常に重い荷物でも、幾つかに分ければ軽くなる」 と、金塊の話を説かれました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩はある村の農夫でありました。
彼はある日、以前は村であって、今は廃墟になっている野原で耕作をしていました。その場所には昔お金持ちが住んでいて、地中に大きな金塊を埋めておいたまま、この世を去っていました。菩薩である農夫が耕作をしていると、鋤がこの金塊に堀当たって動かなくなりました。
「おそらく樹の根が拡がっているのだろう」 と思って土を取り除けてみると金塊が見つかったので、そっとまた土を被せておいて、その日は一日中他の場所を耕していました。
日が沈んだあと、軛や鋤などを片付けて 「金塊を持って帰ろう」 と思ってそれを持ち上げてみましたが、容易には持ち上げることが出来ませんでした。
そこでその場に坐りこんで、心の中で、 「これだけは生活費として使おう。これだけは使わずに貯蓄しておこう。これだけは商売の資金にしよう。これだけを布施などの善行為に使おう」 と考えて、金塊を四つの部分に分けました。
このように分割することによって金塊は軽くなったので、持ち上げて家に運び、四通りに分けて置きました。その後、彼は布施などの善行為をおこないながら、正しく、また大変悦ばしく生涯を全うしました。
この物語をなさって、お釈迦さまは次の偈で説法なさいました。
心の喜びをもって幸せを感じる人が
解脱を得るために善行為を行う
彼が徐々に全ての煩悩を断って
涅槃に到達する
と、阿羅漢の悟りに達することを理想とするべきと法話をされて 「その時金塊を得た農夫は私であった」 と話を結ばれました。
スマナサーラ長老のコメント
●数の信奉者たちが、自分の頭がいかに優れているかと見せるために、簡単なものでも人間の頭では理解できないほど複雑にする。本当に頭の良い人であるならば、どんな難しいものでもみんなに簡単に理解できるように単純化する。物事を複雑化するのは、頭の悪い証拠です。それは、自己満足にすぎないのです。
実践不可能な一億以上の戒律を、お釈迦さまが実践可能な三つに集約しました。重い金塊を一度に運べなければ、幾つかに分割したならば、簡単に運べるのです。人の役に立つのは、理解し難い複雑な哲学ではなく、単純明快な真理だけです。
●富に恵まれたら、贅沢三昧で堕落することは、論理的な生き方ではありません。
収入は、
1. 使用する分
2. 投資する分
3. 貯蓄する分
4. 他人のために(福祉)、自分の精神的な安らぎを得るために使用する分
として計画的に分配するのは、仏教的な経済観念です。