No.11(『ヴィパッサナー通信』2000年11号)
歩行瞑想の話
Asaṅkiya jātaka(No.76)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、サーヴァッティーに住む、ある在家信者について説かれたものです。
彼は預流果の悟りを得た尊い弟子でありましたが、ある仕事のことで、車の隊商の一隊とともに旅をしていました。ある日、森のとある場所で荷物をほどきキャンプを張って一夜を明かすことになったとき、彼は隊商からほど近い樹のそばで歩行瞑想をしていました。
そのとき、五百人の盗賊が、 「キャンプを襲おう」 と弓や棍棒を手に持って様子を窺っていましたが、歩行瞑想を続けている在家信者を見て、 「あれは、キャンプの番人に違いない。彼が眠るまでは手出しは出来ない」 と、あちこちに潜んでいました。
ところが在家信者は、夜の前半にも、中盤にも、後半にも、ずっと歩行瞑想を続けており、ついに夜明けになってしまい、盗賊たちは襲撃をかける機会を失って、武器を捨てて逃げて行きました。
無事に仕事を終えた彼は、サーヴァッティーに帰るとお釈迦さまのもとへ行きました。
「尊師よ、自己を守るということは他を守ることにもなるのでしょうか?」
「ええその通りですウパーサカ(在家信者)よ、自己を守ることが、他をも守ることになり、他を守ることが、自己をも守ることになるのです」
在家信者がまた、
「実に世尊のおっしゃる通りです。私はある隊商とともに旅をしておりましたとき、『自分自身を制御しよう』と思い、樹の下で歩行瞑想を行っていたのですが、そのことが結局は隊商全体を守ることにつながりました」
と言うと、師は、
「ウパーサカよ、以前にも賢者たちは、自分を守ろうとして他をも守ったのです」
とおっしゃって、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩はバラモンの家に生まれました。彼は成人に達したとき欲望に患いがあることを知って、遍歴行者として出家しました。そしてヒマラヤ地方に住んでいましたが、塩や酢が必要になり人里に降りて托鉢したところで、ある隊商に出会って一緒に旅をすることになりました。
ある日、森のとある場所で荷物をほどきキャンプを張って一夜を明かすことになったとき、かれは荷物から遠くない場所で禅定の楽を享受しながら、樹の下で歩行瞑想を行っていました。
すると五百人の盗賊が夕食を食べ終えてやって来て、 「あの荷物を全部盗んでしまおう」 と彼らを包囲しました。
ところが盗賊たちは修行者を見て、 「もしも彼が我々を見つけたら、キャンプしている人々を呼ぶだろう。彼が眠りについたら襲撃をかけよう」 と、そこにとどまっていました。」
しかし、修行者は一晩中歩行瞑想を続けたので、盗賊たちは機会を失い、それぞれ手に手に持っていた石や棍棒を捨てながら、隊商に向かって大声で、
「皆の者よ! もしも今日、このそぞろ歩きをする修行者が樹の下に居なかったら、すべての物が略奪されていたであろう。おまえたちは、この修行者を大いに敬わなければならんぞ!」
と、悔し紛れに叫んで立ち去って行きました。
隊商の人々は朝早く、盗賊たちが捨てていった石や棍棒などを見つけて驚き、恐ろしくなって、菩薩である修行者に近づき礼拝してたずねました。
「尊師よ、あなたは盗賊をご覧になったのですか?」
「ええ見ました」
「尊師よ、あなたはこれらの盗賊たちをご覧になって恐れたり怯えたりはなさらなかったのですか?」
菩薩である修行者は、
「友よ、財産を所有している者は盗賊を見ると恐れを抱きます。しかし、私には財産というものが一切ありません。私には恐れたり、怯えたりする必要はないのです。村に居ても、あるいは森に居ても私には恐れるものもおびえるものもありません」
と言って、彼らのために説法しながら、次の詩句を唱えました。
村に居るときにも憂いがなく
森に居るときにも私には恐れるものがない
慈しみの心と憐れみの心とをもって
まっすぐに梵天に至る道を昇っている
このように菩薩は、この詩句によって法を説き、心を歓喜させている人々に敬われ、命の続くかぎり、四つの崇高な境地である「四梵住」(慈・悲・喜・捨の四無量心)を修習して、梵天の世界に生まれました。
お釈迦さまはこの説法をされて「その時の隊商は仏弟子たちであり、修行者は実にわたくしであった」と過去と現在を結びつけられました。
スマナサーラ長老のコメント
世の中の人々は、他人の欠点や過ちは目ざとく見つけて、お節介にもいろいろと指摘したり、忠告したり、批判、非難します。
しかし、忠告されたからといって、相手が反省してよい方向に向かうということはほとんどないのです。
言い換えれば、「君がしっかりしなさい。怠けるなよ」と言って、自分自身がしっかりしていないこと、怠けているということは棚に上げてしまいます。
社会の皆が、「あなたが悪い」という論理でいけば、「自分が悪くない」と思っているから、結局皆悪いことになって、誰一人も良い人間になる努力をしないことになります。
仏教では、他人のことを云々と悩むのではなく、自分の心をしっかり育てなさいと教えられています。
社会の個人個人が、自分自身を正すべきだと思って、実行するならば、結果として社会全体が良くなるのです。
ですから、自分を守れば、他を守ることになります。