No.12(『ヴィパッサナー通信』2000年12号)
警告の話
Anusāsika jātaka(No.115)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある警告を発する比丘尼についてお説きになったものです。
彼女はサーヴァッティに住む良家の娘でしたが、出家して受戒していました。しかし、出家してから修行の実践を怠り、食べることに貪欲で、他の比丘尼が行かないような地域にまで托鉢に出かけていたので、美味しい食べ物をお布施してもらうことが出来ていました。
彼女は食べ物の味覚に対する欲望に囚われ、
「もしもあの地域に他の比丘尼たちまで出掛けるようになってしまったら、わたしが受ける供養が減ってしまうでしょう。他の比丘尼たちがあそこに行かないようにしなくては…」
と考え、比丘尼たちに向かって、
「みなさん、あそこはとても危ない場所です。恐ろしい像や、強暴な犬や馬がうろうろしていますから大変危険です。どうか托鉢には行かないで下さい」と警告しました。比丘尼たちは彼女の警告を聞き入れ、一人としてその地域に近づくことはありませんでした。
ある日、彼女がその地域で托鉢をしていて、ある一軒の家に急いで入ろうとした時、一頭の獰猛な羊が襲い掛かってきて、彼女の腿の骨を折ってしまいました。人々は急いで駆け寄ってきて彼女の折れた腿の骨を接いで、床に乗せて比丘尼達のもとへ連れて行きました。比丘尼たちは、
「この人は他の者たちには口うるさく警告しておいて、自分ではその地域に托鉢に行って腿の骨を折られて帰って来たのだそうですよ」 と、嘲笑しました。
そしてこの出来事は僧団全体に広く知れわたってしまいました。
ある日、講堂で比丘達が、
「友よ、警告を発していた比丘尼は、自分では、危険な場所を歩き廻って、恐ろしい羊に腿を折られてしまったのです。」
と彼女の不徳を話し合っていると、そこにお釈迦さまがおいでになり、何を話しているのかをお尋ねになりました。比丘達が答えると、お釈迦さまは、
「比丘達よ、彼女は今だけではなく過去においても警告を発している。しかし自分では実行しないので、いつも苦しみを受けているのだ」 と言って、過去の物語をお説きになりました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は森に住む鳥として生まれました。成長してからは鳥の群れのリーダーとなり、数百という鳥を従えてヒマラヤ地方に入って行きました。
かれらがそこに住んでいたときに一羽の粗暴な牝鳥が、大きな道路まで出ていって餌を求めていました。そこで彼女は道路を走る車からこぼれ落ちた米、豆、果実などを拾って食べていましたが、「この場所に他の鳥が来て餌を横取りされたら困る」 と考えて鳥の群れに対して警告を発しました。
「大きな道路というのは非常に危険です。象や馬を始め、恐ろしい牛が牽く車などが行きかっていて、咄嗟に飛び立つこともできません。そこに行ってはいけません」 と。鳥の群れは彼女にアヌサーシカー(助言師)という名前をつけました。
ある日彼女は、いつものように餌を求めて道路を歩き廻っているとき、猛烈な速度で走る車の音を聞いて振り返ってみましたが、 「まだ大分遠い」 と油断していました。
しかしその車は風のような速度で急近づいてきたので、彼女には飛び立つ暇もありませんでした。それで車は彼女を轢いて行ってしまいました。鳥のリーダーは群れの仲間を召集したときに彼女がいないので、 「アヌサーシカーが見当たらない。彼女を捜しなさい」 と言いました。
鳥たちが捜しているうちに、彼女が道路で二つに切断されているのを見つけて、リーダーに報告しました。鳥のリーダーは、 「彼女は他の鳥たちをとどめておいて、自分ではそこを歩き廻り、二つに切断されてしまったのだ」 と言って、次の詩句を唱えました。
他の鳥には警告を与えながらも
自分では貪欲のために歩き廻っていた
彼女は車に轢かれ
羽を失い、死んでしまった
お釈迦さまは、この話をされて、 「そのときの警告を発した鳥は、この比丘尼であり、鳥のリーダーは実に私であった」 と過去と現在を結びつけられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語は、単純過ぎてつまらないものだと思うかもしれませんが、人間の心の働きの一側面について物語っています。
人は一般的に、自分の都合、自分の利益を優先にするものです。もしかすると、「優先」という言葉さえも間違いかも知れません。否、「人間は自分のことのみ考える生命体です」と言ったほうがより正しいかも知れません。自分の利益を得るために、色々と工夫しなくてはいけないのです。我々を悩ませている問題は、この「工夫」なのです。
人のために、社会のために、家族のために、国のために、人類のために、といろいろ盾に隠れて世の中で様々なことを言っていますが、道徳、社会論、政治論などを語っている人々の本心が純粋かということは問題です。世の中にある哲学、道徳、政治理念などについて、聞いている立場から見るとどこかで納得いかないところがあると思います。
私たちに教えられているものについて、完全に納得がいくならば、世の中には何の問題もありません。言う側は、自分の利益を考える分は、聞く人に納得いかないのです。聞く人も、自分の利益を考えるので、人の話には納得がいかないのです。
それなのに、我々は、つい美しい言葉に、良さそうに感じる言葉に操られてしまいます。たとえ自分の利益のために言われた言葉でも、理にかなっていれば問題はないのですが、耳障りの良さにだけ惹かれてしまうと、危険な結果にもなりかねません。
言葉の力で人に反社会的な行動を起こさせることも簡単にできます。ですから、人の言葉に簡単に乗ってしまうということは、大変危険なことです。
仏教の立場は、
『語るごとく為す、為すごとく語る』
(ヤター ワーディー タター カーリー、ヤター カーリー タター ワーディ)
[Yathā vadī, tathā kārī. Yathā kārī, tathā yadī.]Dīgha-Nikāya(DN III p. 135.16–18)
それは、ブッダを如来(タターガタ)と称する所以でもあります。