No.14(『ヴィパッサナー通信』2001年2号)
死者への供え物の話
Matakabhatta jātaka(No.18)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、死者への供え物についてお説きになったものです。
その頃人々は、多くのヤギや羊を殺し、亡くなった親族への供え物として捧げていました。比丘達は人々がそういう行いをしているのを見て、お釈迦様に、
「このようなことをして利益があるのでしょうか?」
とたずねました。お釈迦さまは、
「比丘達よ、たとえ死者への供え物であったとしても、生き物を殺したならば、いかなる利益もない。過去においても賢者達が説法をし、ジャンブ洲(インド)の全住民に、このような行為をやめさせたことがある。しかし時が経つにつれ、再びこのような悪習が現れたのだ」
と言われて、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、三つのヴェーダの奥義を究めた一人のバラモンが、
「死者への供え物を捧げよう」
と、一匹の羊を捕らえさせ、弟子達に、
「おい、この羊を川で沐浴させ、首に花環をかけ、神への供え物の印をつけ、飾りたててから連れてきなさい」
と命じました。
彼らが言われたとおりにすると、その羊は自分の前世の行為を見て、
「自分は今日こそ、このような苦しみから逃れることが出来るのだ」
と喜びの心が生じ大声で笑いました。そしてさらに、
「このバラモンは、私を殺すことによって、私が受けてきたような苦しみを得ることなるだろう」
とバラモンに対する憐れみが生じ、大声で泣きました。
それを見ていたバラモンの弟子達は、
「羊よ。なぜ大声で、笑ったり泣いたりしたのか?」
とたずねました。すると羊は、
「その問いは、あなた達の師匠の前でなさって下さい」
と言ったので、彼らは羊を師匠の前に連れて行き、いきさつを報告しました。今度は師匠が、
「羊よ、お前は、なぜ笑ったり泣いたりしたのか?」
とたずねました。羊は前世を思い起こす智慧の力によってバラモンに語りました。
「バラモンよ、私は前世で、あなたと同じく聖典を読誦するバラモンでしたが、死者への供え物を捧げようとして一頭の羊を殺したために、四百九十九の生涯において首を切られました。そして今度が私にとって最後にあたる五百番目の生涯なのです。
この苦しみから逃れられると思うと、喜びが生じ笑ったのです。また、私を殺せば、あなたは以前の私のように今後五百の生涯において首を切られる苦しみを得ることになるだろうと思うと、あなたへの憐れみが生じ泣いたのです」 と。
「羊よ、恐れることはない、私はお前を殺したりはしない」
「バラモンよ、何をおっしゃるのですか?あなたが殺す殺さないにかかわらず、私は今日死から逃れられないようになっているのです」
「羊よ、恐れることはない、私はお前を保護して付き添っていることにしよう」
「バラモンよ、あなたの保護はささやかなものですが、私の犯した悪事は強大なのです」
こうした会話を交わした後、バラモンは羊を解放し、
「この羊を誰も殺してはならないぞ」
と言って、弟子達とともに羊についてまわり保護していました。
羊は、ある岩の頂き近くの茂みに首をもたげて葉を食べ始めましたが、丁度そのとき雷が落ちて、岩の一角が崩れて羊の伸ばした首に落ち、頭を断ち切りました。そこに大勢の人々が集まって来ましたが、その場所に樹の神として生まれていた菩薩は、人々の見ている前で空中に足を組んで坐り
「これらの生ける者たちは、このような悪事のもたらす結果を知るならば、おそらく生き物を殺すことはしなくなるであろう」
と、妙なる声で説法をして、次のような詩句を唱えました。
もし、生きとし生けるものが
「生をもつことは苦しみである」と知るならば
生き物が生き物を殺すことはなくなるであろう
生き物を殺す者は、必ず悲しむことになる
こうして菩薩である樹の神は、地獄に対する畏怖心を起こさせて説法をしました。
人々は地獄の恐ろしさにおびえ、生き物を殺すことをやめました。菩薩は説法をして大勢の人々に戒めを守らせ、業に従って生まれ変わって行きました。人々は菩薩の訓戒を守り、布施などの善行為を行って天界に生まれました。
お釈迦さまはこの物語を話されて、 「そのときの樹の神は実に私であった」 と、説かれました。
スマナサーラ長老のコメント
死者のための供養、豊作などの感謝、結婚、出産など、人間にとってのお祝い事は、数多くあります。お祝いだといって、殺生することや飲酒に溺れることを言い訳にするのです。感謝祭、感謝祭といって、七面鳥の丸焼きを食べるのです。クリスマス、お正月などをお祝いするときも、殺される豚、鳥などの数には限りがないのです。
人間のお祝い事、お祭りなどは、動物たちにしてみれば、この上ない恐怖の原因になるものです。人間にとってはお祝いですが、他の生き物にとっては呪いです。
昔の宗教の世界では、豊作、繁栄などを希望して、動物や処女を生けにえにする習慣がありました。動物ばかりではなく、人間さえ「供え物」にしたのです。エジプトのピラミッドに、王の遺体を安置するときには、死者の復活を希望して幾人もの人々を生けにえにしたのです。
これは、「自分の幸福を希望して他の誰かを不幸にする」という無知で愚かな行為です。安らぎを希望して、脅威を与える。平和を希望して、戦いを挑むような生き方は、仏教から見れば、利口な生き方ではありません。お釈迦さまは、苦しみを与えるものは苦しみを受ける、恐怖を与える者は恐怖を受けるという立場で、幸せを望むなら、幸せを与えるべきと説かれました。
殺されることほど、生命が嫌がるものはありません。最大の恐怖は、殺されることです。すべての生命にとって「幸せになりたい」という思いは、普遍的な感情です。であるならば、いかなる理由があっても、他を殺すことは不幸を招くことになるとお釈迦さまは説かれ、一切の生命に対して慈しみの心を育てるようにと教えられました。
慈しみこそが、生命として幸福を実現できる、唯一の方法です。生きることさえも大変苦しいものです。誰の生き方にしても、「やっと生きているのだ」と言った方が正しい。それを知る人が、他の生命を慈しみで思うのであって、殺す気にはならないでしょう。