ジャータカ物語

No.30(『ヴィパッサナー通信』2002年6号)

象使いの話

Upāhana jātaka(No.231) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊が竹林精舎に滞在しておられたとき、デーヴァダッタについて語られたものです。

講堂において、比丘たちが話を始めました。「友よ、デーヴァダッタは師に背き、如来の敵となり、大破滅に陥った。」するとそこへお釈迦さまがおいでになって、お尋ねになりました。「比丘たちよ、おまえたちはここに集まって何を話しているのですか。」「これこれの話でございます」と答えるとお釈迦さまは、「比丘たちよ、デーヴァダッタが師に背いて、如来の敵となり、大破滅に陥ったのはいまだけのことではありません。以前にも同じように陥ったのです」とおっしゃって、過去のことを話されました。

その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は象の調教師の家に生まれ、成人して、象使いの技法の奥義にまで達しました。

そこへ、カーシ村出身の一人の青年がやって来て、菩薩のもとで象使いの技法を学びました。そもそも菩薩というものは、なにか技術を教える場合、教え借しむことをせず、自分の知っていることは、あますところなく教えるものです。それゆえにその青年は菩薩の知識と技術をあますところなく習いおえて、菩薩に言いました。「先生、わたくしは王様にお仕えしたいと存じます。」菩薩は、「よろしい」と言って王のもとに行き、そのことをお話しました。「大王よ、わたくしの弟子が、お仕えしたいと願っております。」「よろしい、ここへ寄越しなさい。」「では彼の給料をお決めください。」「おまえの弟子に、おまえと同じ額をやるわけにはいかない。おまえに百やるとすれば五十やるし、おまえに二百やるとすれば、百やろう。」

菩薩は家に帰ると、このことの次第を弟子に話しました。弟子は、「先生、私はあなたとまったく同じ技術を習得しております。もしあなたと同じ給料が頂ければ、お仕えしますが、もしそうでなければお仕えしません」と言いました。菩薩はそのことの次第を王に話しました。王は、「もしその弟子におまえと同じことをやらせて、おまえと同じ技術を示すことができるならば、おまえと同じ給料をやろう」と言いました。菩薩はそのことを弟子に話しました。弟子が、「よろしゅうございます。お見せ致しましょう」と答えたので、そのむねを王に話すと、王は言いました。「では明日技術を見せよ。」「かしこまりました。お見せ致しましょう。ふれ太鼓を鳴らして都中にお知らせください」と応じました。

王は、「明日、先生と弟子の二人が象使いの技術を見せるそうだ。見たい者は、明日宮廷に集まりなさい」と太鼓を叩いてふれさせました。

菩薩は、「わたしの弟子は技法の巧妙さに通じていない」と考えて、一頭の象を捕らえ、一晩のうちに命令の逆に動く調教をしました。菩薩がその象に「進め」と言えば戻り、「戻れ」と言えば進み、「立て」と言えば横になり、「横になれ」と言えば立ち、「取れ」と言えば置き、「置け」と言えば取るように仕込んでおき、翌日その象に乗って宮廷に赴きました。弟子もまた魅力的な象に乗って来ました。大勢の人々が集まりました。そして両人ともに同じ芸をやって見せました。さらに菩薩は自分の象に命令の逆をさせました。象は、「進め」と言われて戻り、「戻れ」と言われて前に進み、「立て」と言われて横になり、「横になれ」と言われて立ち、「取れ」と言われて置き、「置け」と言われて取りました。

大勢の人々は、「ああ、けしからん弟子だ。自分の師匠と競い合うなんて。自分の分際をわきまえず、『先生と同格だ』と勘違いしている」と言って、土塊や棒などで殴りつけて、その場で殺してしまいました。

菩薩は象からおりて、王に近づき、「大王よ、技術というものは、自分の幸福のために習うものでございます。しかし、ある人にとっては、習いおぼえた技術は出来そこないの履物のように、破滅をもたらします」と言って、つぎの二つの詩句を唱えました。

苦しまず楽に歩こうと
人が買った履物
熱で底が熔け 焼きついて
その人の足まで噛み付くように

素性が賎しく 育ちも悪い者は
あなたの学問と技術を学び取り
その学識によって身を滅ぼす
素性が賎しい者は
出来そこないの履物に譬えられる

王は満足して、菩薩に大きな名誉を与えました。

お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの弟子はデーヴァダッタであり、先生は実にわたくしであった」と。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

人間はいろいろと才能を持って生まれてきます。生まれてからも能力を開発して自分を磨いて行きます。そうすることで、楽に幸福に生きて行こうと思うのです。しかし、才能・能力・学識・技術などがあったからといって、その人が幸福になれるとは限りません。

人の全ての能力は、人格という器に入るのです。人格者というのは、子供のころからよく躾をされているのです。社会のきまりは自然に身に付いており、悪いことだ、不正だと思われることは、決してしません。何よりも道徳的な人間なのです。人格者は、特別に技術・能力などがなくても、皆に親しまれるので、幸福に生きる事ができます。学識・技術などの能力を発揮して幸福になるためには、人格の支えが不可欠です。

人格が出来ていない人の学識・能力は、人類のためになるものではありません。器自体が汚れているので、その中に入る能力なども汚染されるのです。使い物にならないのです。お金のためなら何でもする人には、何の人格もないのです。その人がその上、天才的な能力も持っているならば、かえって大変危険な存在になるのです。現代の世界でも、学識と技術はめまぐるしく発展していますが、世界は一向に平和になりません。人類が幸福にもなりません。逆に、不公平が増すばかりです。戦争は絶えないのです。貧困もひどくなるのです。収入がないことで自殺する人が出るほど追い込まれているのです。この問題の原因は、技術・学識にあるわけではありません。人類が財産よりも知識や能力よりも、道徳的な生き方に価値があることを忘れていることと、「金さえあれば全てOK」という思考にあるのです。

このエピソードは、現代人が忘れている、「幸福と平和への道は、唯一道徳にある」ことを諭しているのです。この物語に出てくる弟子も、先生と同様な能力を身につけましたが、その能力を生かすために必要な道徳を学ばなかったのです。現代人と同じく、「同じ能力に同じ給料を払え」と要求したのです。実は、今の社会もよく調べると、安定して高い収入を得ている人たちは、能力よりも人格が評価されていることがわかると思います。不正を働くと、能力を問わず誰でも辞任することになるのです。