ジャータカ物語

No.40(『ヴィパッサナー通信』2003年4号)

悪戯好きの話

Keḷisīla jātaka(No.202) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、Lakuṇṭakabhaddika(ラクンタカバッディカ)長老について語られたものです。
この長老は美声の持主で、説法がうまく、特別な能力を具えた大阿羅漢の境地に達し、仏教界では有名な人でした。しかし、八十大弟子のなかで一番背が低く、まるで沙弥のように小さく、戯れられるために生まれてきたかのようでした。

ある日、彼が如来を礼拝してから、ジェータ林(祇園精舎)の境内のところへ行くと、地方に住む三十人ほどの比丘が、「十力者(お釈迦さま)を礼拝しよう」とジェータ林に入ってきて、僧院の境内のところで長老を見かけ、「あいつは沙弥だな」と思い込んで、長老の衣の裾をとったり、手を掴んだり、頭を捉まえたり、鼻を摘んだり、両耳を引っ張って揺り動かしたりして、ちょっかいを出してからかいました。
それから、鉢と法衣を整えてお釈迦さまに近づいて礼拝し、腰を降ろしました。お釈迦さまとの穏やかな会話が終わったとき、彼らは尋ねました。

「尊師よ、釈尊のお弟子の一人に、ラクンタカバッディカとかいう方がいらして、巧みに法話をされるということでございますが、今、どこにおいでになりますか。」
「比丘たちよ、おまえたちは会いたいと言うのですか。」
「はい、さようでございます。」
「比丘たちよ、おまえたちが境内のところで出会って、法衣の裾などをとり、からかって遊んできたのがその人です。」
「尊師よ、そのように誓願に誓願を重ねて、八十大弟子の資格を持つお弟子が、どうして、威厳に欠けて生まれついたのでございますか。」
お釈迦さまは、「自ら犯した罪のためです」とおっしゃり、彼らの求めに応じて、過去のことを話されました。

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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は神々の王サッカでありました。
当時、ブラフマダッタ王に、老い衰えた者は、象であれ、馬であれ、牛であれ、見せることは出来ませんでした。王は悪戯好きであったので、そのような者を見ると、あとを追わせ、古ぼけた車を見ると、打ち壊させました。年老いた女たちを見ると、呼びつけてその腹を打たせ、倒させたり、また立たしたりしておびえさせました。年老いた男たちを見ると、曲芸師のように地面を回転するなどの芸をさせました。老人が見当らないときには、「これこれの家には老人がいるそうだ」と聞くと、呼びつけて楽しみました。人々は恥じて、自分の父母を国外に送り出しました。母への孝養、父への孝養は跡を絶ってしまいました。王の家来たちも悪戯好きでした。

死者たちは次々に四つの苦界(四悪趣)を満たし、天界の人々は減少しました。サッカは、新しく天界に生まれてくる者を見かけないので、「いったい、どういうわけなのだろう」と考えたすえに、王の悪戯に気がついて、「ひとつ彼をしごいてやろう」と思いました。

あるお祭の日、ブラフマダッタ王は飾りたてた象に乗って、飾りたてられた町を右から巡回していました。そのときサッカは老人の姿に身を変えて、古ぼけた車に乳清(醗酵乳)の入った壺を二つのせ、二頭の年老いた牡牛をつなぎ、ぼろの着物をまとって、車を御しながら、王に向って近づいて行きました。

王は古ぼけた車を見て言いました。「あの車をどけろ。」「王様、どこにあるのでございますか?わたしたちには見えません。」神々の王サッカは自らの神通力によって、王だけにしか姿を見せなかったのです。サッカは王のすぐそばに近づくと、王の上方に車を駆って、王の頭上で一つの壺を打ちこわし、引き返して二つめの壺を打ち割りました。すると王の頭から、ここかしこに乳清が流れ落ちました。王はそのために、困惑し、羞恥し、嫌な思いをしました。

王がこのように困りはてたのを知って、サッカは車を消して、サッカの姿をあらわし、金剛杵を手にして空中に立って言いました。
「悪者よ、悪王よ、おまえだけが歳をとらないなどということがありえようか? 老いがおまえの身体には襲いかからないとでもいうのか? 悪戯好きとなっておまえは年寄りを苦しめている。おまえ一人のために、このように年寄りたちは苦しめられて、死んでいった者は次々に苦界を満たしている。人々は父母を養うことも許されないでいる。もしおまえがこういうことをやめないのならば、わしは金剛杵でおまえの頭を打ち砕くぞ。これから決してこのようなことをしてはならない。」

こう言っておどかして、父母の徳を述べ、年長者を敬う行為の功徳を説き教えて、サッカは自分の住居に帰っていきました。王はそれ以来、そのような行為をする気を起こしませんでした。
お釈迦さまはこの過去の物語をされて、悟りをひらいた人として、次の詩句を唱えられました。

身体の大小に関わらず
白鳥・鴨・孔雀・象・鹿
また他の生きものたち
みな獅子を怖れる
同じく 人間においても
たとえ青少年でも
賢者こそが偉大である
愚者は体格が大きくても
偉大にはならない

お釈迦さまはこの法話をされて、真理を説き明かされ、過去を現在にあてはめられました。真理の説明が終わったとき、比丘たちのある者は預流果の境地に達し、ある者は一来果の境地に達し、ある者は不還果の境地に達し、ある者は阿羅漢果の境地に達しました。

「そのときの王は、ラクンタカバッディカであった。彼はその悪戯好きな性質のために、他人の悪戯の的になって生まれてきたのである。そして、サッカは実にわたくしであった」と。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

面接試験を受けに行く場合は、身なりを整えて行かないと、試験官はあなたの履歴書に目を通すこともなく不合格にするでしょう。代わりに、身なりは良いが能力のない受験者のほうを採用し、会社にとっては悩みの種となるでしょう。人間の容姿はさまざまです。大柄も小柄もいる。障害者も健常者もいる。美男美女だけでなく不細工な人もいる。無知な人は外面的なかたちにこだわって、不幸になるのです。重要なのは、人の役に立つ知識や能力を持っていることです。歳さえも関係ないのです。ラクンタカバッディカ尊者は、輪廻の中で固い誓願を立てて修行を積んで、天才的な能力を持って生まれて、解脱を得るのです。仏陀の八十大弟子の一人として認められることに、容姿は何のハンディにもならなかったのです。

誰にとっても、悪戯をやらかすことは気持ちよく感じるものです。悪戯をすることで簡単に楽しめます。人が楽しんで何が悪いかと思うのは、一般的な感情かもしれません。しかし、自分が楽しむために誰かが不幸を味わう結果になるのです。この物語の王は、年寄りをいじめることが楽しかっただけなのです。悪気はなかったのです。しかし形がどうであろうとも、他人に迷惑をかけることは罪なのです。