No.42(『ヴィパッサナー通信』2003年6号)
兄弟ブタの話①
Tuṇḍila jātaka(No.388)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、死を恐れたある比丘について語られたものです。
彼は、サーヴァッティーに住む名家の子で、ブッダの教えに従って出家しましたが、非常に死を恐れていました。ほんのちょっとした木の枝のざわめきや、棒の倒れる音、鳥や獣の声、あるいはそのほかの似たような音を聞いては、死の恐怖に苛まれて、まるで腹部を傷付けたウサギのように、震えながら走ったということです。
比丘たちは、講堂で話を始めました。「友よ、ある比丘が死を恐れて、ほんのちょっとした音を聞いても、震えて逃げるそうだ。この世においては、生きとし生けるものにとって死は必然であって生命は無常である。そもそもこのことは、根本的に心すべきことではあるまいか」そこへお釈迦さまがおいでになってお尋ねになりました。「比丘たちよ、何の話をするために、今集まっているのか?」「これこれの次第でございます」と言われて、お釈迦さまはその比丘を呼んでこさせました。「おまえは死を恐れているそうだが本当か?」「さようでございます、尊師よ」その事実にもとづいてお釈迦さまは、「比丘たちよ、今ばかりではなく、過去においても彼は死の恐れに苛まれたことがあるのだ」と言って過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は牝ブタの胎に宿りました。牝ブタは月が満ちて、二匹の子を産みました。
ある日のこと、牝ブタは子ブタをつれて、とある穴のなかに寝そべっていました。そのとき、バーラーナシーの城門に近い村に住んでいる一人の老婆が、綿畑から綿を籠一杯つみ取って、杖を地面に突きながら帰ってきました。牝ブタはその音を聞いて死の恐怖に襲われ、子ブタをそこに棄てたまま逃げて行ってしまいました。老婆は子ブタを見つけて、息子であるかのような想いを抱き、子ブタをかごに入れて家へつれ帰り、兄をマハートゥンディラ、弟をチュッラトゥンディラと名づけて、自分の息子のようにして育てました。二匹のブタは、その後、すくすく成長して大きな身体になりました。老婆は、「こいつらを売って金にしないか?」と言われても、「私の可愛い息子なんだから」と言って決して手離そうとはしませんでした。
さて、ある祭礼のときのことです。博奕打ちたちが酒を飲んで、肉がなくなってしまったとき、「どこかから良い肉が手に入らないか?」と考えました。彼らは老婆の家にブタがいることを知り、代金をもってそこへ行って、「婆さん、お金を受けとって、ブタを一匹俺たちにくれよ」と言いました。老婆は、「おまえさん、我が子を食肉用として売り渡す母親がこの世に居るとおもいますか?ばかばかしい」と拒みました。博奕打ちたちは、「婆さんよ、息子と呼んでいても、所詮はブタだ。人間じゃないぜ。俺たちにゆずっておくれよ」と何度も頼みましたが、手に入れることができませんでした。そこで老婆に酒を飲ませ、酔った頃を見計らって、「婆さんや、ブタなんか飼って育てても、何の役にも立たんよ。金に替えて、何か好きなものを買いなよ」と言って老婆の手にお金を握らせました。
老婆は金を受けとって、「あんたたち、いくらなんでもマハートゥンディラだけは絶対にやらないよ。どうしてもというなら、チュッラトゥンディラの方を連れて行きな」と言いました。「そいつはどこにいるんだい?」「あの子は、そこの藪のなかにいるよ」「そいつに声をかけておくれよ」「今ちょっと餌がないんだよ」と老婆が言うと、博奕打ちたちは早速お金を出して、ご馳走の餌を買ってきました。老婆はそれを受けとり、戸口にあるブタの餌桶を充たして、その餌桶のそばに立ちました。三十人ばかりの博奕打ちたちも、縄を手にして同じように立っていました。老婆は、「ほうれ、チュッラトゥンディラや、おいで」とブタに声をかけました。それを聞いてマハートゥンディラは、「これまで私のお母さんは、チュッラトゥンディラに声をかけたことはなかった。いつもは先に私のほうを呼んだものである。今日はきっと私たちに恐ろしいことが起るだろう」と思いました。兄は弟に話しかけて、「弟よ、お母さんが呼んでいるぞ。すぐに行って見ておいで」と言いました。
弟は藪の中から出て行きましたが、餌の木桶のそばに博奕打ちたちが待ち構えているのを見て、「今日私は殺されてしまうんだ」と思い、死の恐怖におののいて逃げ出し、身震いしながら兄の前に戻ってきました。しかし、身を震わせてよろめき歩き、しっかりと立っていることができませんでした。マハートゥンディラは弟を見て、「弟よ、今日おまえは動揺して歩き廻りながら、入口の様子ばかりを窺っている。いったいどうしてそんなふうにしているんだ?」と尋ねました。弟は自分が見てきたことを話して、詩句を唱えました。
今日 ご馳走の餌で
餌桶は充たされ
母はそばで見守っている
されど 投げ縄を持った人が多数いる
食べる気持ちは消えうせた
(次号に続きます)
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓 ……恐怖
恐怖感は全ての人間にあります。人間だけではありません。すべての生きとし生けるものに、恐怖感があるのです。恐怖感に苛まれて困っている人もいるのですが、しかし恐怖感が全く消えてしまったら、どういうことになるかとは考えたこともないのです。かえってそれは、考えられないのです。恐怖感から完全に解放された生命などいませんから、そうなったときの開放感がどのようなものかと推測さえもできません。
様々な恐怖感があります。試験に落第したら、就職できなかったら、リストラになったら、癌に冒されたら、伴侶が浮気したら、子供が非行に走ったら、家に強盗が入ったら、云々。このリストは限りなく続くのです。一つ一つの恐怖感を取り除く対処法を探そうとするかもしれませんが、そんなものはないと思ったほうがよいのです。無限の恐怖感に、無限の対処法が必要です。
無限に広がる恐怖感を生み出す大もとがあります。それは、死の恐怖感です。生命は死にたくないのです。何としてでも死だけは、避けたいのです。幸福で生き続けるために、人間と他のすべての生命が行っている一切の行動は、元はといえば、死を避ける行為です。宇宙探検も、科学発見も、文学や芸術も、残酷な殺戮を行う戦争も、愚かな人間が死を避けるためにやっているのです。死は必ず訪れると皆聞いたことはありますが、それがわが身にも降りかかって来るとは決して思いません。認めないのです。だから人間の生き方は、矛盾から始まって矛盾で終わるのです。戦争を起こしたら敵も味方も両方とも死ぬとわかっていながら、「平和のために、皆の命を守るために」戦うのです。平和のために平和を壊す。十人を殺した殺戮者を正義に目覚めさせるために、百人を殺して脅すのです。人は長生きするために猛毒を飲むような生き方をしているのです。死の恐怖感を正しく理解しない限り、人の行為は全て矛盾なのです。