No.45(『ヴィパッサナー通信』2003年9号)
ダサンナカ国製の刀剣の話①
Dasaṇṇaka jātaka(No.401)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、前妻への愛着が断ち切れない比丘について語られたものです。
お釈迦さまはその比丘に、「あなたは悩むことがあって修行に身が入らなくなっているそうだが、本当ですか」とお尋ねになりました。「本当でございます、尊師よ。」「何について悩んでいるのですか。」「もとの妻のことが忘れられません」と比丘が答えると、お釈迦さまは、「比丘よ、今あなたの修行の障害になっているこの女性は、過去にもあなたを精神的な病気に陥れ、あなたはあやうく死ぬところでした。その時、賢者らの助けによって、かろうじて命拾いをしたのです」と言って過去のことを話されました。
むかし、バーラーナシーでマッダヴァ大王が国を統治していたとき、菩薩は、バラモンの家庭に生れました。彼はセーナカクマーラ(クマーラ=少年の意)と名づけられました。成長した彼は、タッカシラーであらゆる学問を修得しました。その後バーラーナシーへ帰ってから、マッダヴァ王の相談役を務める大臣となりました。まるで月や太陽が親しまれるように、セーナカ賢者という愛称で、市民に好かれていました。
そのころ、王の司祭大臣の息子が、王に仕えるために参じました。そのとき彼は、いろいろな装飾品で着飾った非常に美しい第一王妃を見て、すっかり心を奪われてしまいました。彼は家へ帰ってから、食事もせずに寝込んでしまいましたが、友人たちに尋ねられて、彼はそのわけを話したのでした。
王は、「司祭の息子の姿が見えない。いったいどういうことか」と尋ねました。その訳を聞いた王は、彼を召喚しました。この若者の気持ちが痛いほどわかった王は、このように解決策を決めました。「わたしは、おまえに妃を七日の間与えよう。七日間おまえの家で彼女と一緒に過ごしてみなさい。それでお前も満足するだろう。しかし、八日目には必ず妃を後宮につれて来なさい」と言いました。彼は、「かしこまりました」と言って承知し、大変喜んで妃を家へつれて帰りました。
ところが、一緒に楽しんでいるうちに、彼らはお互いに恋に落ちてしまいました。この二人は、誰にも気づかれないように家の門から逃げ出して、他の王の領土へ行ってしまいました。誰にも彼らの行方はわかりませんでした。彼らの進んだ道は、まるで船の航路のようでありました。王は、町中に太鼓を打たせて布告を出し、さまざまの方法で探し求めましたが、妃のゆくえは、ようとして知れませんでした。
そこで王には、激しい悲しみがわき起こりました。胸は重くなり、血が逆流したようになりました。それからというものは、内臓からも血が出て吐血しました。そして徐々に病気が重くなりました。偉大な王医でさえ、治すことができませんでした。菩薩は、「この王さまは、身体の病気ではない。お妃を見つけられないので、精神的な病にかかっているのだ。心理療法を施して治さなくてはならない」と思いました。
そこでアーユラとプックサという、王の賢い大臣二人に治療方法について相談しました。
「王さまは、お妃が見つからないので、精神的な病にかかっているのです。身体の病気ではありません。私たちには、薬を与える以外に、人の病を治すたくさんの方法があります。手だてをつくして王さまを治して差し上げましょう。では、このような計画でいきましょう。王宮の庭で見世物を催させます。そこで、剣を飲む技を得意とする者に、剣を飲ませましょう。王さまには宮殿の窓際に坐っていただき、見世物をお目にかけましょう。剣を飲む技を見た王さまは、きっと側近の大臣にこのように尋ねると思います。『これは命がけでやっている技だね。これよりも難しい技などあるのかい。』そこで、友アーユラよ、君は答えなさい。『王さま、人に何かを〈差し上げます〉と言うことは、この技よりももっと難しいと思います』と答えてください。そこで王さまは興味を抱き、さらに質問することになると思います。友プックサよ、王さまは、君の意見も聞くでしょう。そのとき、あなたは王さまに、このようにお答えしなさい。『大王さま、〈差し上げます〉と口では言っていても、何も与えない人のほうが多いものです。〈与える〉という言葉だけでは、人の役に立ちません。言葉だけでは誰も生きられはしない。〈差し上げる〉と言われただけで、食べることも、飲むこともできません。口に出して言うだけでなく、その言葉の通りに実行し、約束の通りに品物を与えるということは、もっと難しいことです』と。それからあとでするべきことは、わたしが心得ています。」
それから彼らは、計画通りに見世物の用意を済ませました。彼ら三人の賢者は王のもとへ行き、「大王さま、王宮の庭で見世物を用意してございます。それをご覧になると、苦しみ、悲しみなんかは消え失せます」と申し上げました。王さまを案内し、窓を開き、見世物をご覧に入れました。
大勢の人々がそれぞれ自分の得意とする技芸を披露しました。いよいよ、この見せ物の真打ちがやって参りました。一メートル弱の鋭い刃をもつ宝剣を飲み始めました。王はそれを見て、「この男は、あんな鋭い剣を飲んだ。いったい、あれよりももっと難しいことなんかがあるのか」と、感嘆の声を上げました。そして尋ねてみようと、賢者アーユラに対して最初の詩句を唱えました。
ダサンナカ国で作られた
人の血を吸い尽くす
鋭い刃を持つ刀剣を
公衆の面前で男は飲みこむ
これより至難の技があるのか
もしあるとするならばそれを問う
問うた私に答えを申せ
(次号に続きます)
スマナサーラ長老のコメント
いろいろな事に未練を残していたり、思い残すことが一杯あったりすると、修行なんか出来るはずはないし、まったく実りは得られません。過去の出来事に対する未練を断ち切って、吹っ切れた状態のほうが、人は成長していくのです。これは修行だけのことではありません。何かにチャレンジしてそれを成功させたいと思う人は、他のことに未練を感じたり、思い悩んだりすると、期待通りの成功は収められないのです。何をするにも、それだけに集中してやれば上手くいくのです。今やっていること以外、何かを思い出したり、妄想したりするのは、心が過去の出来事に引っ掛かっているということです。過去に足を引っ張られないようにして、吹っ切れた状態でいると、人のいかなる行為でも実るのです。
●Dasaṇṇaka jātaka
人は簡単に、精神的な病に陥るのです。人は、身体のことばかり心配しますが、身体はしょっちゅう病気になるわけではありません。しかし、心がいとも簡単に病気になって倒れるという事実は、忘れているのです。治療を受けたり薬を飲んだりする、数々の病の中で、九割ほどは痛んだ心が作り出す病気なのです。闇雲に薬を飲んで、あらゆる健康食品を食い漁って、身体を更に壊すよりも、自分の精神が健康か否か調べた方が良いと思います。
現代では、精神的な病気に対しても物理的な薬物を与えて治療しようとしています。すでに壊れている身体を更に壊してしまったところで、患者は何一つ出来ない状態になるのです。それで治したことにするのです。それでは、暴れている人の手足を鎖で縛って、口に猿ぐつわをはめて、「もう落ち着きましたよ」と言うようなものです。このジャータカ物語は、精神的な病を心理療法で完治するエピソードを展開しているのです。