No.49(『ヴィパッサナー通信』2004年1号)
蚊を退治する話
Makasa jātaka(No.044)
この物語は、釈尊がマガダ国を遊行しておられたときに、ある村で愚かな村人たちについて語られたものです。伝えるところによると、そのとき如来は、サーヴァッティーからマガダ国へ赴き、そこを遊行して、とある村へ到着されました。その村には、大勢の愚か者たちが住んでいました。
ある日のこと、その愚か者たちが集まって、「皆さん、われわれが森へ入って仕事をしていると蚊にくわれ、そのためにわれわれの仕事が邪魔されてしまう。皆で弓と武器を持って行って蚊と戦い、全部の蚊を射ったり斬ったりして殺してしまいましょう」と相談しました。そして、森へ入って行き、「蚊を射殺そう」と言って、心ならずも互いに射合い、斬り合いました。そして苦しみながら帰って来て、村の内や中央や入口に倒れていました。
お釈迦さまは、比丘たちに囲まれながら、その村へ托鉢に入られました。残った賢い人々は、お釈迦さまを見て、村の入口に礼拝所を作り、お釈迦さまを初めとする比丘サンガに多大な布施を行ない、お釈迦さまを礼拝して一面に坐りました。お釈迦さまは、あちこちの場所の負傷した人々をご覧になり、信者たちにたずねられました。「これら大勢の者たちは傷ついているが、彼らはどうしたのか。」「尊師よ、この人たちは、『蚊を退治しよう』と言って出かけ、互いに射合って、自ら怪我人となったのです。」お釈迦さまは、「愚か者たちが、『蚊を打とう』として自分たち自身が傷ついたのはいまだけのことではなく、前生でも、『蚊を打とう』として仲間を打ったのである」と言って、人々に懇請されて過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、商業で生計を立てていました。そのとき、カーシ国のとある辺境の村に大勢の大工たちが住んでいました。
その中の一人である禿頭の大工が木を切っているとき、一匹の蚊が、その銅鍋の底のような後頭にとまって、槍で突くように頭を嘴(くちばし)で刺しました。彼は自分のそばに坐っている息子に言いました。「おい、わしの頭を蚊が槍で突くように刺している。追い払っておくれ。」息子は、「父さん、辛抱していてくださいな。一撃でそいつを殺しますから」と言いました。菩薩は、自分の扱う商品を仕入れるためにこの村に着き、その大工の小屋に坐っていました。大工が息子に「おい、この蚊を追い払っておくれ」と言ったのは、丁度そのときでした。息子は、「父さん、追い払ってあげるよ」と、鋭利な大なたを振りあげ、父親の背後に立って、「蚊を打つよ」と、父親の頭を真二つに割ってしまいました。大工は、即座に死んでしまいました。菩薩は、彼のそのしわざを見て、「(味方の愚か者よりは)たとえ仇敵であっても、賢明な者のほうがまだましである。何故ならばそういう者は、刑罰の恐れを理由にしてでも、人々を殺すことまではしないだろう」と考えて、つぎのような詩句を唱えました。
浅はかな味方より余程
思慮ある敵は優れたり
蚊を殺そうとするこの白痴は
父親の頭を切り裂く
この詩句を唱えて菩薩は立ち去って行きました。大工は、親族たちによって、手厚く葬られました。
お釈迦さまは、「信者らよ、このように昔も蚊を退治しようとして、人を殺した者がいたのです」とおっしゃって、説法をなさいました。そして過去を現在にあてはめられました。「そのときの詩句を唱えて去った賢明な商人は、実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓…蚊を退治する話
人付き合いというものは、生きていく上で必ず必要です。人間関係さえ上手くいけば、幸福に生きられるということは明白な事実です。人付き合いの失敗は、人生そのものの失敗です。人は誰でも多かれ少なかれ、他人との付き合いについてかなり苦心するのです。幼児たちから老人まで、他人との付き合い方は頭の痛い問題です。ですからこれは一生涯の問題です。
他の問題、たとえば仕事のことは、仕事に就く年齢に達したとき悩めばよいのです。それは子供と老人には関係がないのです。健康の問題は、病気を抱えている人々が気にするべきものです。教育の問題は、若者が注意すべきです。子育ての問題は、若い夫婦たちが取り組むべきものです。老夫婦たちにはその悩みはありません。このように考えると、人間に関わるこれらの問題というのは一生涯のものではなく、一時のことであると理解できます。人には次から次へと問題が現れますが、一つの問題を生涯引きずる必要はありません。その時どきに現れる問題を、その場でその時に解決していけばよいのです。
しかし、人付き合い・人間関係という問題は、一生涯の問題です。解決しましたと軽々しく言って片づけることはできないのです。年齢と環境の変化とともに、人間関係の形は変わっていきます。それに絶えず適応しないと、社会人として落ちこぼれるのです。幼稚園児たちの人間関係と、小学生の人間関係は同じではありません。園児の時は友達がいっぱいいたのに、小学生になってから仲間に苛められて、ひとりぼっちになるケースもあるのです。それは、その子が年齢による状況の変化に適応できなかったということです。二十歳になった子供の暴力で親が悩むのは、両者ともに年齢の変化に適応できなくなっているからです。
また、場所によっても人間関係は変わるのです。たとえば、会社で真面目に仕事をする立派なサラリーマンが、飲み屋で女性とトラブルを起こしてセクハラ罪で訴えられるとします。この場合は、会社では立派な人間ですが、遊び場の人間関係での立ち居振る舞いがまずかったことになるのです。ですから、時と場に応じて常に変化する人間関係に、我々は常に適応できるように心がけなくてはならないのです。
家にいても学校・会社にいても、人間関係からは逃げられません。ひとりで山で遊んでいても、やりたい放題で遊ぶことは禁止なのです。社会のために自然を守り汚さないことに、気をつけなくてはいけません。自然災害に遭遇して全財産を失って、避難生活をしていても、人間関係だけはついてきます。たとえ避難所でも人間関係につまづいてしまったら大問題です。病院で死ぬ間際にあるときも、他人との関係だけはつきまとうのです。
たくさん仲間がいたからといって、人間関係が上手とは言い切れません。逆に、ひとりでいるからといって、人間関係が下手だとは限りません。私たちはたくさん仲間を作ることで、人付き合いが上手だと自画自賛しますが、これはとても危険なことです。現代人はいとも簡単にこのポイントを見過ごし、不幸に陥っているのです。このジャータカが、幸福に生きるために必要不可欠なこのポイントを物語っています。
味方に言われたからといって無批判で何でもやる生き方は、正しくないのです。智恵のない味方は、失敗したところでそこに仲間も引きずろうとするのです。たとえば日本国の味方がどこかで戦争を引き起こしたからといって、日本国民に何の関係もない国まで出かけて、戦争に参加して殺し合いをする必要はありません。良い味方だと思うならば、戦争を引き起こすような愚かな行為をしないように相手を諭すべきです。