No.50(『ヴィパッサナー通信』2004年2月号)
毒蛇に咬まれた修行者の話
Veḷuka jātaka(No.43)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある頑固な比丘について語られたものです。
お釈迦さまは彼に、「比丘よ、そなたは聞き分けがないということだが、本当か」とたずねられました。「本当です、尊師よ」と答えたので、「比丘よ、そなたが頑固なのは今だけのことではなく、前世でも頑固だった。頑固だったために、そなたは賢者たちの忠告を聞き入れず、蛇に咬まれて命を落とすに至った」とおっしゃって、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、カーシ国の大金持の家に生を享けました。彼は、分別ある年齢に達すると、欲望から起こるわざわいと、世俗離脱における利益とを理解し、欲望を捨ててヒマラヤ山に入りました。そして、仙人として出家生活に入ると、集中瞑想を行ない、五つの神通力と八つの禅定を得て、瞑想の喜悦を享受して過ごしました。その後、多くの弟子をもち、五百人の修行者にとりまかれ、集団の師となって暮らしていました。あるとき、一匹の幼い毒蛇がその習性に従って這いまわり、一人の修行者の庵に舞い込んで来ました。修行者は、その蛇に息子に対するような愛情を起こし、それを竹の筒の中に入れて育てました。それは、竹の筒の中に飼われていたので、「ヴェールカ(竹坊や)」と名づけられました。また修行者は、それを息子に対するような愛情をもって育てたので、「ヴェールカの父」と言われるようになりました。
そのとき菩薩は、「一人の修行者が毒蛇を育てているそうだ」ということを聞いてその修行者を呼び寄せ、「おまえは、毒蛇を育てているそうだが、本当か」とたずねると、「本当です」と答えたので、「毒蛇は飼い慣らせないものだ。そのようにして飼うのはやめなさい」と言いました。修行者は言いました。「お師匠さま、あの子はわたしの息子です。わたしは、あの子なしでは生きていけません。」「それでは、おまえはその息子のもとで命を失うだろう」と菩薩は言いました。修行者は、菩薩のことばを受け入れず、毒蛇を捨てることができませんでした。それから幾日かたって、修行者たちはみな、野生の果実を採りに出かけましたが、行った場所でいろいろな果実が容易に手に入ることが分かると、二、三日そこに滞在しました。ヴェールカの父も彼らと一緒に出かけましたが、毒蛇を竹の筒の中に入れ、覆いをして残して行きました。二、三日して、彼は彼らと一緒に帰って来て、「ヴェールカに餌をやろう」と、竹の筒を開けました。そして、「さあ、せがれや、おなかが空いただろう」と手を差しのべました。毒蛇は、二、三日のあいだ、食べものを断たれていたので腹を立て、差しのべられた手に咬みつきました。修行者はその場で死に至り、蛇は森へ逃げて行きました。修行者たちはそれを見て、菩薩に報告しました。菩薩は、彼を手厚く葬らせ、修行者の集まりの中央に坐り、修行者たちを訓戒するため、つぎのような詩句を唱えました。
他人の幸福を願う慈悲深き人の
訓戒に耳を貸さない者は
惨めになるのだ
ヴェールカの父のように
こうして、菩薩は修行者たちに訓戒し、四つの崇高な境地である「慈・悲・喜・捨」を修習して、寿命が尽きると、梵天の世界に生まれました。
お釈迦さまは、「比丘よ、そなたが頑固なのは今だけのことではなく、前世でも頑固だったために、毒蛇に咬まれて腐乱することになった」と、この説法を取りあげ、過去を現在にあてはめられました。「そのときのヴェールカの父は頑固な比丘であり、その他の修行者たちは比丘サンガであり、そして修行者たちの師は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
頑固だということだけで、悪い性格だときめつけるのは早すぎます。人が善いことに励んでいる場合に、悪いことにしか興味を示さない社会はそれを批判したり、無視したりする。また苛めたり、あらゆる手段で誘惑したりもする。それは、ままあることです。社会からの誘惑というものは、人を堕落に陥らせるのです。優柔不断な性格であるならば、それに負けてしまうのです。それでは立派な人格者にはなれません。従って、「善」に励む者は、芯の強い人でなければなりません。社会からは「相当に頑固なヤツ」と言われるかもしれません。それは自分の決めた道をやり遂げる立派な性格です。悪い意味での頑固ではありません。
仏教で「頑固 dubbaca」というのは、善き人の躾に逆らうことです。また、助言を理解しようとしないことです。人の言うことをむやみに何でも聞き入れる者が、柔軟性がある善い性格だというわけではありません。単に優柔不断で、自分で何も決めることができない無知な人かもしれません。年下の人、経験や知識などが浅い人は、目上の人のアドバイスに耳を傾けるべきです。それこそが成長の道です。
人には好き嫌い、向き不向きというものがあり、自分はこうなりたいという夢もあるものです。それは明るく生きるための動機付けなのですが、知識も経験も浅い人が考えることは、必ずしも本人のためになることばかりではないのです。
経験者、知識人、またその人のことを心配する人々は、その人の好き嫌いや、やりたいこと、夢についていろいろとアドバイスするものです。幸福になりたいなら、それに耳を貸して自分の道を軌道修正しなくてはならないのです。頑固な人は、こういう場合に大人のアドバイスに逆らうのです。こうなってしまうと人格の向上どころか、人生そのものが行き詰まってしまうのです。
頑固な性格は、ある特定な人間だけに限ったものではありません。人は誰でも本来頑固だと言った方がよいと思います。たとえば子どもは楽しいからマンガを読みたい。母は、将来楽しくなるから勉強しなさいと言う。子どもは「嫌だ。後でするから……今この本を読んでいるから……」云々と言って、母に逆らいます。そのように、人の幸せを願って目上の人がする善きアドバイスに逆らうのが、頑固という性格です。
「妥協する」という言葉もよく使われます。しかしこれも、頑固であることの別な表現なのです。妥協するということは、決して立派なことではありません。妥協する人は、立派な頑固者です。ただ仕方なく相手の意見を聞き入れただけなのです。長持ちするとは思えません。善き人が我々を躾けて言う言葉は、気分的には気に入らないでしょう。もっと別なことをやりたいかもしれません。しかし、善き人の話に耳を傾ける、理解しようとする、納得がいくまで話し合いをする、反論も出してみる、その上で目上の人のアドバイスが本当に自分の為になるものだと理解すれば、自分の生き方を善い方向に軌道修正できるのです。このような生き方が、「素直」というものでしょう。「素直・正直」というのは、弱いという意味ではありません。妥協しないで、理解する人の生き方なのです。しっかり者です。
「毒蛇は可愛い、我が子のように情が湧いてくる」と言われると、大人にもその気持ちはわかるのです。しかし、ペットは戯れながら、可愛く飼い主を噛んだりもします。それは楽しいが、毒蛇が戯れるのはいかがなものでしょうか。