ジャータカ物語

No.52(『ヴィパッサナー通信』2004年4月号)

チュッラカ長者の話②

Cullakaseṭṭhi jātaka(No.4) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

長老マハーパンタカは、幼いチュッラパンタカに沙弥出家を授けて、十戒を堅く守らせました。沙弥のチュッラパンタカは、出家はしたけれども、愚鈍でありました。そのため、

美しく慕わしく香る紅蓮華が
暁に綻びるような
太陽が大空に輝くような
釈尊をご覧になれ

というこの一つの詩句を四ヵ月かけても習得することができませんでした。

実は彼は、昔カッサパという正覚者の時代にも出家して、賢い人でありましたが、ある一人の愚鈍な比丘がお経を習うのに苦戦しているのを見て、嘲笑しました。彼に嘲笑されたその比丘は、恥じて落ち込みました。それからお経を習得することをやめてしまいました。その業によって、彼は今出家したけれども愚鈍になったのです。一偈の前半を習って、後半に移るとき、前半を忘れてしまいます。彼がこれだけの詩句を習得しようと努力しているあいだに、四ヵ月もの日々を費やしてしまいました。

(前号から続きます)

そこで、マハーパンタカが彼に言いました。「チュッラパンタカよ、おまえはこの教えを全うすることができない。四ヵ月も費やしたのに詩句一つも習得できない。そんなおまえが出家としての修行をどうして達成することができよう。寺を出なさい」と、放逐しました。

チュッラパンタカは、ブッダの教えを敬愛していたので、在家に戻ることを欲しませんでした。

そのとき、マハーパンタカはお布施の采配の担当を一任されていました。

ジーヴァカ・コーマーラバッチャが香や花や多くの供物を持って自分のマンゴーの林へ出かけ、お釈迦さまに供養して教えを聞き、座から立って十力具者(お釈迦さま)を礼拝してから、マハーパンタカに近づいて、「尊師よ、お釈迦さまのもとには、どれくらいの比丘がおりますか」とたずねました。「五百人ばかりです。」「尊師よ、明日、お釈迦さまを初めとする五百人の比丘たちをお連れして、私たちの住居で供養をお受けください。」「ウパーサカ(男性在家信者)よ、チュッラパンタカは愚鈍で、修行を達成できない。彼を除いた、残りの者に対する招待をお受けいたします」と長老は言いました。

それを聞いてチュッラパンタカは考えました。「長老は、これだけ多くの比丘の招待を受けておりながら、私を除外して受けた。きっと私の兄には、私に対する思いやりがなくなったのだろう。今さら出家でいても、私にとって何になろう。在家に戻って、布施などの善行為を行ないながら生きることにしよう。」彼は、「翌日早朝に、私は還俗します」と決めたのです。

お釈迦さまは、明け方に世間を観察されるとき、この様子を発見され、先まわりして、チュッラパンタカの出口を遮ろうと門のところを経行しながら待っておられました。チュッラパンタカは建物から出ると、お釈迦さまに出会ったので、近づいて挨拶をしました。すると、お釈迦さまは彼に対して、「チュッラパンタカよ、そなたは今時分にどこへ行くのか」と言われました。「尊師よ、兄が私を放逐しました。私は還俗するために行くのです。」「チュッラパンタカよ、そなたは私を頼りに出家したのだ。兄に放逐されたのなら、どうして私のもとへ来なかったのだ。君が在家に戻って何になろう。私のもとにいなさい」と言われ、チュッラパンタカを連れて行き、仏殿の前に坐らせて、「チュッラパンタカよ、東の方に向かってこの布きれを『垢とり、垢とり』と言って擦りながら、この場所にいなさい」と、神通力で作り出した清潔な布きれを渡しました。そして釈尊は時間になったので、比丘サンガにとりまかれてジーヴァカの家に行き、用意の座に坐られました。

チュッラパンタカのほうは太陽を仰ぎつつ、その布きれに、「垢とり、垢とり」と言って擦りながら坐っていました。その布きれは彼が擦り続けているうちに汚れてしまいました。そこで彼は考えました。「この布きれはとても清潔でした。しかし、私の身体に触れたことで、以前の清潔さを捨ててこのように汚れてしまった。変わったのだ。実に、作られたものは無常なのだ」と。このことが、諸行の消滅を観察する、ヴィパッサナー実践となったのです。

お釈迦さまは、チュッラパンタカの心がヴィパッサナー実践に移行したということを察知されて、「チュッラパンタカよ、この布きれが汚れて垢に染まったことを気にする必要はありません。実に、君の心の内には、貪欲などの垢がある。それらを取り除きなさい」と言われて、光明を放ち、あたかも面前に坐っているかのように姿を現わして、つぎのような詩句を唱えられました。

垢とは塵に非ず貪欲こそが垢なり
垢とは貪欲の同義語である
比丘はこの垢を捨てて
無垢の教えに安住する

垢とは塵に非ず瞋恚こそが垢なり
垢とは瞋恚の同義語である
比丘はこの垢を捨てて
無垢の教えに安住する

垢とは塵に非ず無知こそが垢なり
垢とは無知の同義語である
比丘はこの垢を捨てて
無垢の教えに安住する

詩句がおわると、チュッラパンタカは、特別な能力までも具わった大阿羅漢の境地に到達しました。その特別な能力は、三蔵経の教えの理解でもあります。

実は、彼はある前生に国王であったとき、都城を廻っていた折、額から汗が出たので、清潔な布で額を拭ったところ、布が汚れてしまいました。彼は、「私の身体に触れたことで、以前の清潔さを捨ててこのように汚れてしまった。変わったのだ。実に、作られたものは無常なのだ」と、無常観を体得しました。このようなわけで、彼には「垢とり」というのが一番適合したのです。

ところで、ジーヴァカ・コーマーラバッチャは、十力具者にお食事前の手洗い水を差し出しました。お釈迦さまは、「ジーヴァカよ、精舎には比丘たちがまだいるのではないか」と、手で鉢を覆われました。マハーパンタカ長老は、「尊師よ、精舎には比丘たちはおりません」と申しあげました。お釈迦さまは、「ジーヴァカよ、いるかもしれませんよ」と言われました。ジーヴァカは、「それでは、おまえ、出かけて行きなさい。精舎に比丘たちがいるかいないかを調べてきなさい」と男を遣わしました。

その瞬間に、チュッラパンタカは、「私の兄は『精舎に比丘たちはいない』と言ったが、精舎に比丘たちのいることを彼に見せつけてやろう」と、マンゴーの林全体に神通で比丘たちをあふれさせました。ある比丘たちは、衣服の仕事を行ない、ある者たちは染色の仕事を、ある者たちは誦経をするというぐあいに、互いに異なった千人の比丘を現出させました。その男は、精舎に多くの比丘たちがいるのを見て引き返し、「だんなさま、マンゴーの林全体が比丘たちで満ちあふれております」とジーヴァカに報告しました。一方、チュッラパンタカ長老はその場で、この詩句を唱えました。

我が身を千体も化作して
心地良きマンゴー林に
パンタカが坐している
食事の時を告げられるまで

(次号に続きます)

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

指導する方法さえ間違えなければ、誰もダメな人間になりません。