No.66(2005年6月号)
「豚に真珠」物語
Avāriya jātaka(No.376)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。アチラヴァティーという川に、三宝の功徳を知らず、世俗の徳も知らない乱暴者の渡し守がいました。
ある時、田舎に住む比丘が、お釈迦さまにお仕えしようと田舎から訪ねて来ました。
夕暮れ時にアチラヴァティー川に着いた比丘が舟を出すように頼みました。「船頭さん、私を向こう岸まで渡してください」
「今はとても遅い。今日はどこかへ泊まってください。明日、船を出します。」
「私に泊まるところはありません。どうか今日船を出してください。」
そう頼まれると、渡し守は激怒しました。「こら、比丘! それなら、乗れ!」
彼は比丘を舟に乗せてムチャクチャに船をこいで、比丘の衣をびしょぬれにした上に、わざとまっすぐ川を渡らずに、かなり川下に降ろしました。夜遅く精舎に着いた比丘がその日はもう時間がなく、次の日にお釈迦さまのところに行くと、釈尊は「いつ着いたのか」と訊かれました。
「昨日です」「ではなぜ挨拶に今日来たのか」。そこで比丘が昨日の出来事をお話しすると、釈尊は「あの渡し守は過去においても乱暴者であり、賢者に乱暴をはたらいたことがあった」とおっしゃって、比丘に請われるままに過去の話を語られました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はバラモンに生まれました。成長してタッカシラーで学問を修めた菩薩は出家して、ヒマラヤの行者になりました。ある時、日用品を得るためにバーラーナシーの街に下りてきた菩薩を王が見かけました。菩薩のすばらしい立ち居振る舞いに感心した王は、菩薩にお城に住んでもらうようにと頼み、菩薩はお城の御苑に滞在することになりました。王は毎日のように菩薩を訪れ、菩薩から法を聞きました。菩薩は、「大王よ、王は四つの不正(好み・怒り・畏怖・無知によって公平に審判を行わないこと)を捨て、忍耐を育て、慈悲を完成し、優しさに満たして正しく国を治めるべきです」と、次の詩を唱えました。
怒りなきよう、大地の主よ
怒りなきよう、君子よ
怒りに怒りを返さぬ王は、国中の尊敬を得る
村、森、低地、高地、いづこでも、
怒りなきよう、君子よ
菩薩の法話を聞いて心を清められた王はたいへん喜び、豊かな村をお布施したいと申し出ました。しかし菩薩は断りました。
そうするうちに十二年が経ちました。菩薩は「私は長居しすぎた。そろそろ旅に出よう」と思い立ち、庭師に「私は同じ所に長くいすぎた。しばらく国を旅して来ようと思う。王様によろしくお伝えください」と言い残し、お城を立ち去りました。
菩薩はガンジス河の渡し場に来ました。渡し場にはアヴァーリヤ親爺という名の渡し守がいました。彼は愚か者であり、賢者の徳を理解せず、自らの利益を得る方法も知りませんでした。アヴァーリヤ親爺はいつも、川を渡ろうとする人をまず向こう岸に渡してから賃料を要求していました。自分の要求する船賃を払わない人がいると罵って暴力をふるう渡し守は、自分もしょっちゅう殴られて、ケガが絶えませんでした。たくさん儲けるつもりの行いで、かえって彼の儲けは、いつもわずかでした。
ここでお釈迦さまは、この状況を次の詩句で唱えられました。
アヴァーリヤ親爺、ガンジス河の渡し守
人を先に渡し、船賃を後に請う
喧嘩は増えるが、財は増えず
菩薩は渡し守に、向こう岸に舟を出すように頼みました。アヴァーリヤ親爺は、「お坊さんは船賃を払ってくれるのかい」と訊きました。菩薩は「財産を殖やし、道理を知り、真理を得る方法を教えよう」と答えました。渡し守は「きっと何かいいものをくれるに違いない」と思い、菩薩を舟に乗せて向こう岸に連れて行きました。「では、船賃を払ってください」と渡し守が言うと、菩薩は「よかろう」と、財産を殖やす方法を次の詩句で唱えました。
船頭よ、船賃は、
岸に着く前に求むもの
船に乗る時、降りし時
人の気持ちは違うゆえ
渡し守は思いました。「これはただの忠告にすぎない。もっと何かくれるに違いない」と思いました。菩薩は「それが財産を殖やすための忠告だよ。
次に、道理を知り、真理を得る教えを説くから、よく聞きなさい」と、次の詩を唱えました。
村、森、低地、高地、いづこでも、
怒りなきよう、船頭よ
菩薩は「これは道理を知り、真理を得る教えだよ」と、告げました。愚かで鈍い渡し守は、その説法について考えることは何もせず、「お坊さん、まさかこれが船賃じゃないだろうな」と怒って言いました。そして菩薩が「そうだ。これが船賃だ。船頭よ」と答えると、「ふざけるな! こんなものが何の役に立つんだ! 俺がほしいのはこんなものではない」と怒鳴りつけ、腹を立てて菩薩を押し倒し、顔や胸を殴りつけました。
さて、お釈迦さまはここで、「比丘らよ、行者は王に法を説き、豊かな村を差し出された。同じ法を愚か者の船頭に説くと、殴られたのだ。教えは心ある人に説くべきものだ。ふさわしくない愚か者に説くべきではないのだよ」とおっしゃって、次の詩を唱えられました。
王に説き、村を差し出されしその教え、
同じ教えを船頭は、聞きて我を殴りたり
渡し守が菩薩を殴っていると、渡し守の妻が昼のお弁当を運んできました。妻は二人を見て、「お前さん、この修行者は王様が帰依しておられるお方ですよ。殴ったりしてはダメですよ」と驚いて止めました。渡し守はますます怒り、「お前は俺に指図するのか」と、妻まで殴り倒しました。お弁当は地面に落ちて散乱し、妊娠していた妻は流産してしまいました。人々は渡し守を取り囲み、「人殺しの悪党め」と非難しながら縛り上げ、王のもとに連れて行きました。王は渡し守に刑罰を与えました。
ブッダは過去の話を終え、最後にもう一つ詩を唱えられました。
食事は散らばり、妻は打たれ、
胎児は死んで地面に流れた
勝れた教えも、愚か者には、
豚に真珠のようなもの
お釈迦さまはつづけて法を説かれ、それを聞いた比丘は預流果の悟りを得ました。
釈尊は「その時の渡し守はアチラヴァティー川の渡し守、王はアーナンダ、行者は私であった」と、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
人生の成功とは、どういうことでしょうか。成功は、三つの事柄で成り立つものです。
1.富を得ること 2.人格 3.道徳 です。
1.の、富を得ることだけは、誰でも知っています。富を得ただけで、成功者だと噂されるのです。
しかし、金があっても、我が儘で乱暴者で人格者でないならば、社会はその人をほめません。性格が悪く傲慢な人は、金持ちであっても尊敬されないのです。世界はほとんど金の信仰者なのだから金持ちがほめられるのは当たり前なのに、不正を働いて行いが悪い金持ちは批判される。その財産はほめる対象から外れます。世界は無意識的に、金よりも性格が大事だと感じているのです。この無意識的な感情は、真理なのです。人はそれを無視して、人生の成功は金を儲けることだと妄信している。子供たちに、若者に、金儲けだけを押し付けている。その結果として、社会の混乱、犯罪などが絶えないのです。
成功の3番目は、道徳です。道徳を守らないと、この世で裁かれる。それだけで事は済みません。死後も苦境に陥るのです。百年に満たずに生きて、死後、地獄に落ちるならば、それまた成功の生き方とは言えません。
本当の成功者は、今生で幸福に生きて、死後も天界に生まれるのです。死後の天界の話には宗教や信仰が絡んでくるのでややこしいのですが、仏教は宗教や信仰に関係なく、人は死後天界に生まれると説いているのです。商売をして財産を儲けると同時に、人格者でいれば充分なのです。怒らず、奢らず、不正を働かず、皆と仲良く、謙虚で生活するならば、それが人格なのです。その人はこの世でも皆に尊敬される。死後は天界に生まれてますます幸福になる。人生の成功は、財産、人格、道徳の三脚で成り立つのです。
◆ ◆ ◆
このエピソードで出てくる船頭は、金持ちになりたいと思ってはいたが、その方法を知らなかったのです。
今の世でも、ただ店を開いただけで客が殺到するわけではありません。品物を作っただけで皆揃って買いに来るわけではないのです。資格があるだけで会社は人を雇いません。
金が入る、何か別の秘密があるみたいです。それは人の心なのです。
デパートでも、子供たちに気持ちよく遊べる場を作ってあげれば、またそちらに子供たちを楽しませることのできる人を雇っているならば、お母さんたちはそのデパートで買い物をするのです。デパートのおもちゃ売り場に子供の遊び場を設けても、子供をダシにして親に要らないおもちゃを買わせるという欲がからんだカラクリが見え見えなので、商売繁盛にはなりません。子持ちの親は、そのデパートを避けるのです。人の心の働きは微妙です。「儲かりたい」という感情をむき出しにすると、客に逃げられる結果になるのです。
船に乗る客の気持ちは、無事に川を渡ることです。その時は、船頭も船も有り難い存在です。その時に、船賃のことを話し合った方が良いのです。船頭が心優しく、明るい人なら、客はお礼をはずむことを惜しみません。
しかし、向こうの岸に渡ってしまえば、客は、いかに早く目的地に行くかという気持ちになるのです。もう船なんかはどうでも良くなるのです。私たちが飛行機に乗る時と飛行機から降りる時の気持ちを考えれば、よく分かるのです。
さすがに電車も飛行機も、乗る前に料金を頂くのです。飛行機会社が、外国の空港に客を降ろしてから航空運賃を要求するならば、大変なことになると思います。支払いを断ったら法廷で闘うことになります。客も、あれが悪かった、これが悪かったと文句を言うでしょう。
商売をする場合は、客の心理状態を微妙に計算しなくてはならないのです。
それは、客は泥棒だという意味ではありません。航空券を予約するときは、客は自分好みの航空会社を選ぶ。値段も交渉する。外国旅行したい、楽しみたいと思っているから、大変喜んでお金を払うのです。
仏教は昔から「船に乗る前に運賃の交渉」の論理なのです。