ジャータカ物語

No.69(2005年9月号)

「天の法」物語

Devadhamma jātaka(No.6) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

シャカムニブッダがコーサラ国の舎衛城近郊の祇園精舎におられた時のことです。舎衛城のある資産家が、妻に死なれて出家しました。彼は、出家する前に、台所つきの小屋と食材を満たした貯蔵庫を造り、出家してからはそこに住んで家の使用人に料理を作らせて食べていました。ある時、地方から来た比丘たちが多くの家財道具や衣服を見て、かの比丘にたずねました。「これは誰のものですか」「私のものです」「すべてあなたのものなのですか」「そうです」。比丘たちは、「友よ、君は小欲の教えのもとで出家しながら、教えに従っていない。師にお話を聞きなさい」とその比丘を釈尊の所に連れて行きました。

釈尊が「比丘らよ、なぜこの修行僧を無理に連れてきたのか」とたずねられたので、比丘たちがわけをお話ししました。「君が物を多く所有しているというのは本当なのか」「尊師、本当です」。「なぜ多くの物を持つのか。私は小欲で満足することを賞賛しているでしょう?」と釈尊が言われると、かの比丘は腹を立て、「では、こうすればいいでしょう」と上衣を脱ぎ捨てて、皆の前で下衣一枚だけになりました。釈尊は彼をなだめられ、「比丘よ、君は、前世では、池に住む羅刹(鬼神)であった時でさえ、慚愧(ざんぎ = 人としての恥を知り、識者の目を怖れる)の心をもって十二年間を過ごしたではないか。それなのに今、このような尊ぶべき教えのもとで出家しながら、慚愧の心を捨てて立つのか」と諭されました。それを聞いた比丘は慚愧の思いを起こし、衣をつけてお釈迦さまに礼拝し、おとなしく傍らに坐りました。釈尊は皆に請われるままに、過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は王子として生まれ、マヒンサーサ王子と名づけられました。その何年後かに弟のチャンダ王子が生まれ、チャンダ王子が走り回るようになると、二人の母であるお后は亡くなりました。そこで新しい王妃が位につきました。しばらく経つと、その王妃に息子が生まれ、スリヤ王子と名づけられました。王はスリヤ王子の誕生を喜び、新しいお后に、「何でもおまえの好きなものを与えよう」と言いました。

お后は贈り物を受ける権利を保留し、スリヤ王子がだいぶん大きくなったところで、「あの贈り物のお約束を、今、お願いいたします。スリヤ王子に王位を授けてください」と王に願い出ました。王は「何を言うのだ。上の二人の王子は、すばらしい輝きを放って成長している。三番目の王子に王位を譲ることはできない」と断りました。しかしお后はあきらめず、何度も頼みました。

その様子を見た王は心配になりました。王は上の二人の王子を呼んで、「お前たち、私はスリヤ王子が生まれた時、后に望みのものをやると約束した。スリヤの母は、わが子の王位を求めている。私はそのような頼みを聞くつもりはない。しかし、女は思い詰めると何をするかわからない。お前たちに悪事をたくらむかもしれない。お前たちは森林に隠れ住み、私の死後に出てきて王位を継いでおくれ」と、涙を浮かべて命じました。王子たちは父王に礼をして、すぐに城を出ることにしました。ちょうど庭で遊んでいたスリヤ王子はその話を聞きつけ、「僕も兄さんたちと一緒に行く」と、二人の兄と共にお城を出ました。

三人はヒマラヤ山に入りました。菩薩であるマヒンサーサ王子は、下の方にある湖を見て、弟に「スリヤ王子、あの湖で遊んでから皆に水を汲んできておくれ」と言いました。スリヤ王子は湖に降りていきました。

実は、その湖は、ある羅刹(鬼神)の領分でした。羅刹は毘沙門天から「水に入った者は、天の法を知る者以外、自由に食べてもかまわない」という許可を与えられていました。羅刹は水に入った者に天の法を問い、答えられないことを確かめてから、食べていました。スリヤ王子が何も気をつけることがなく湖に入ると、羅刹が出てきて「お前は天の法を知っているか」と訊きました。スリヤ王子が「知っているよ。天の法とは、月と太陽だ」と答えると、羅刹は「お前は天の法を知らない」と言って王子を捕まえ、自分の住処に連れて行きました。

スリヤ王子の帰りが遅いので、菩薩はチャンダ王子を見に行かせました。チャンダ王子も、あまりよく調べずに湖に入ってしまいました。羅刹が出てきて、チャンダ王子に、「お前は天の法を知っているのか」とたずねました。チャンダ王子が「知っている。天の法とは、東西南北という四方のことだ」と答えると、羅刹は「お前は天の法を知らない」と、チャンダ王子も捕らえて、とりこにしました。

菩薩はチャンダ王子もなかなか帰ってこないので、自ら様子を見に来ました。湖の岸に着くと、湖に向かう二人の足跡が一方通行で残っていました。菩薩は、「ここは鬼神が住む場所に違いない」と知り、剣と弓を手に持って湖の側に立ちました。菩薩が水に入らないのを見た羅刹は、木こりに化け、菩薩に「あなたは旅で疲れている。なぜ湖に入り、沐浴し、水を飲んで、レンコンを食べ、蓮華を飾って身体を楽しませないのか」と話しかけました。

菩薩はすぐに、これは湖の鬼神だと気づき、「私の弟たちを捕らえたのはあなたでしょう」と言いました。羅刹は「そうだ。俺だ」と答えました。「なぜ捕らえたのですか」「俺には湖に入ってくる者を捕らえる権利があるのだ」「あなたはすべての者を捕らえるのですか」「そうではない。天の法を知っている者は捕らえない」「あなたは天の法を知りたいのですか」「そうだ」「私はそれを知っています。私が天の法を教えましょう」「教えてくれ。俺はそれが聞きたいのだ」。

そのような会話を交わしてから、菩薩は、「では天の法を説きましょう。しかし、このままでは落ち着いて話ができません」と言いました。羅刹は菩薩に沐浴をさせ、飲み水や食事を差し上げ、蓮華で飾ったり油を塗ったりしてもてなし、美しく飾った座を設けました。菩薩は準備された座に坐り、羅刹を傍らに坐らせて、「では耳を傾けて、天の法を聞きなさい」と、次の詩を唱えました。

慚愧(ざんぎ)の心をそなえ
清らかな法に励み
寂静(じゃくじょう)に住む善き人こそ
天の法を知る者といわれる

羅刹はこれを聞いて清らかな喜びの心を起こし、菩薩に、「賢者よ、私はあなたのお力で、清らかな喜びの心を起こしました。あなたこそ天の法をご存じの方です。お礼に、弟方お二人のうち、どちらか一人をお返しすることにしましょう。どちらを連れてきましょうか」と訊きました。菩薩は「では、年下の弟を連れてきてください」と答えました。

「賢者よ、あなたは天の法をご存じだが、それを実行しておられぬ」「なぜですか」「あなたは、年上の者を尊重するという善行を実行してないからです」「鬼神よ、私は天の法を知り、それを実行しています。実は、我らが森に入ってきたのは、下の弟のためなのです。あの子の母は、私の父である王に、あの子の王位を要求しました。父はそれを断りましたが、私たちの身を案じ、私たちを護るために、森に住むように命じたのです。下の王子はそれを知り、自分から私たちについてきました。それなのに森で鬼神に食べられたなどと、どうして言えることでしょう。誰も信じてくれず、必ず問題が起こります。だから私は、下の弟を取り戻そうとしたのです」「よくわかりました。賢者よ、あなたは天の法を知り、それを実行する方です」。

羅刹は信頼感を取り戻し、菩薩を賛嘆しました。羅刹は菩薩の弟たちを二人とも連れてきて、菩薩に返しました。菩薩は羅刹に、「友よ、あなたは自分の過去の悪業によって、他人の血肉を喰らう鬼神となったのです。ここで、こういう生活を続けていれば、悪業があなたを地獄から抜け出せないようにするばかりだ。これからは、悪事をやめ、善を行いなさい」と説き、彼を改心させました。

羅刹は菩薩に仕えることにし、彼らと共に森で暮らしました。ある夜、星の動きを見て父王の死を知った菩薩は、弟たちと羅刹を連れてバーラーナシーにもどりました。菩薩は王位を継ぎ、チャンダ王子を副王に、スリヤ王子を大将軍にし、羅刹には景色の良い場所に住居を与えました。羅刹の住居は最上の花で飾られ、毎日最上の食事が与えられました。王となった菩薩は正義に則った政治を行い、業に従って生まれ変わっていきました。

その話の後で釈尊が四聖諦について説かれると、かの比丘は預流果の悟りを得ました。釈尊は「その時の羅刹は物持ちの比丘であり、スリヤ王子はアーナンダ、チャンダ王子はサーリプッタ、マヒンサーサ王子は私であった」と、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

ジャータカ物語だけではなく、インドの昔話によく出てくる場面があります。
王様の第二の妃が息子を生む。喜んで舞い上がった国王は、「ご褒美として、何でも君の希望を一つ叶えてあげる」と約束する。妃はそのときは何も言わずに約束を保留してもらう。息子が成年になると、「約束です。息子を次の王として認定しなさい」とねだる。法律的には第一の妃の子供達が王位を継ぐのだから、王様は困り果てる。しかし、王として約束も果たさなくてはならない。

人間は欲に絡むとなんでも約束する。正直な人は、約束を果たそうと無理をして不幸になる。いい加減な人は平気で約束を破るので、信頼できない。ポイントは、約束は守らなくてはならない。であるならば、感情に目が眩んで、果たせない約束、非論理的な約束はしないことです。非現実的な約束はしないことです。どんな約束でも、法律の範囲の中で、道徳の範囲の中でしなくてはいけないのです。「あなたに暴力を振るうあいつを殺してあげる」などの約束はダメなのです。強引に約束を迫られたときでも、法律、道徳、常識違反のものは、きっぱり断ることです。また、無理な約束の場合も注意して判断することです。

この物語では「天の法」(deva dhamma)がキーワードになっています。「天」というと、「人間より優れている、人間は尊く思う必要がある」という意味になります。また「太陽、日夜、日々」という意味もあるのです。要するに「人間は絶対守らなくてはならない道徳、規則」ということです。人食い鬼神は、天の法を知っている人は食わないのです。その権利はないのです。これは、「天の法を守る人には、この世で何の危機もない」ということです。

生きている上で、人はあらゆる災難、あらゆる不幸に遭遇するのです。また無知の上で、やってはいけないことを気づかずやってしまって、不幸になるのです。
そこで、人を守ってくれるのが、「天の法」です。

第一は「慚(ざん)」です。パーリ語で hiri(恥)です。良い意味のプライドを持って、悪を犯すのを恥じるのです。
第二は「愧(ぎ)」です。パーリ語で ottappa (怖れ)です。悪いことをすると悪い結果になるので、それを脅えるのです。社会の自分の立場がなくなることや、裁かれること、逮捕されること、不名誉になること、非難されることを脅えて、悪をやめるのです。
「この二つは車の車軸のようなもので、この法を守れば世界は安全だ」と、釈尊は説かれているのです。
第三の天の法は「善行為をすること」です。人は常に善いと思われる行為をするようにと、努めなくてはならないのです。自分の役に立つ、他人の役に立つ行為をするべきです。
第四の天の法は「落ち着いていること」です。いくら善い人であっても、突然興奮したり混乱したりすると、自己管理できなくなるのです。無知なこと、無法なことをしてしまうのです。ですから、常に落ち着いていることが大事です。幸福で平和な社会を築くためには、この四つの項目で充分ではないでしょうか。この天の法を守る人は、この世だけではなく、あの世でも幸福なのです。

インドでは、神も神霊も鬼神も樹神も、何でもかんでも信仰するのです。お供えをして日々の幸福を願うのです。災難を妨げることを期待するのです。民間信仰というのは根が深く、理屈をいっても、科学文明が発達しても、消えてしまうものではありません。非論理的だ、迷信だとわかっていながらも、祈りをするのです。しかし、迷信に反対の仏教は、民間信仰に攻撃しないのです。代わりに、より道徳的で理性的なやり方で祈りや供儀をやるようにと、信仰を改良するのです。生け贄などに絶対反対するのです。「生け贄の代わりに、農作物で供養して、自分たちが信仰している神々や神霊に、感謝しなさい。喜んだ神々も、あなたがたを守るでしょう」と説くのです。

そういう教えによって、仏教徒にならなかったとしても、罪を犯さない、他人に迷惑を掛けない人間になるのです。罪を犯さないで感謝の気持ちで生きているのだから、その業によって不幸を免れることもできるのです。