ジャータカ物語

No.73(2006年1月号)

賢い鹿と愚かな鹿

Lakkhaṇa[miga] jātaka(No.11) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがマガダ国の竹林精舎におられたときのお話です。

デーヴァダッタという王家出身の比丘は、言葉を操るのが上手く、阿闍世王子を信奉者にして毎日贅沢なお布施を受けていました。しかし高慢な性格で自分を高く評価し、釈尊に叱られると逆恨みして、釈尊に狂った象をけしかけたり、崖の上から岩を転がして釈尊にケガをさせたり、ひどい狼藉をはたらきました。そのような大罪を犯して人望をなくしたデーヴァダッタは、名誉を回復しようとして、五つの規則を提案しました。五つの規則とは、一、比丘は生涯森に常住し村に入らない。二、比丘は生涯乞食で食を得、食事のお布施の招待を受けない。三、比丘は生涯捨てられたボロ布をまとうのみとし、衣のお布施を受け取らない。四、比丘は生涯樹下に住んで屋根のある家には入らない。五、比丘は生涯肉や魚を食べない、というものでした。

釈尊は、その提案を退けられました。デーヴァダッタは、出家者の中で未だ法と律に熟達していない五百人の修行者たちを得意の話術で説き伏せて、彼らを引き連れてサンガを離れ、ガヤーシーサ(象頭山)に移り住んで新たな僧団をつくりました。

時が経ち、デーヴァダッタと共にサンガを出た修行者たちの智慧が熟してきたことをご覧になった釈尊は、サーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者を呼ばれ、ガヤーシーサに行って比丘たちに正しい法を説くようにと言われました。二人の高弟は、すぐに竹林精舎を後にして、ガヤーシーサに赴きました。デーヴァダッタは、ブッダの高弟が自分のところにやって来たのを見て、二人が自分の賛同者となったと勘違いして喜びました。デーヴァダッタは釈尊を真似、夜の法話の時に威厳を見せようとして、「サーリプッタ尊者よ、比丘たちはまだ疲れておらず、倦怠もしていない。私は背中が痛むので少し休もう。比丘たちと法の問答をつづけるのであれば、話をつづけてください」と、如来のような厳かな口調でサーリプッタ尊者に法話をまかせました。サーリプッタ尊者は五百人の修行者たちに因果の教えを説かれました。その話をよく理解した修行者たちは、次の日にサーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者と共に、竹林精舎へ戻りました。

たくさんの修行者たちを連れて竹林精舎に戻ったサーリプッタ尊者がブッダに礼拝して傍らに立たれると、比丘たちはサーリプッタ尊者を褒め称え、「世尊、我らの最年長の法兄であるサーリプッタ尊者が五百人の修行者たちと共に戻られました。その威光は燦然と輝いています。一方、デーヴァダッタのところには誰もいなくなりました」と申し上げました。

ブッダは「比丘たちよ、サーリプッタが親しい者たちに囲まれて戻り、威光があったのは今だけではない。過去にも親しい者たちに囲まれ、威光があった。デーヴァダッタがが自分の徒衆を失ったのも今だけのことではない。過去にもやはり自分の集団を失ったのだ」と言われました。比丘たちはその話のわけをあきらかにされるようにブッダに懇願し、ブッダは過去の話を語られました。

昔々、マガダ国の王舎城(ラージャガハ)において、菩薩は鹿に生まれました。立派な鹿に成長した菩薩は鹿の群れの頭となり、千頭の鹿たちを従えて森に住んでいました。菩薩には、ラッカナ(瑞相)とカーラ(黒闇)という名前の二人の息子たちがいました。

ある時、菩薩の鹿は、息子二人を呼びました。菩薩は「私は歳を取った。これからはお前たちが群れを率いてほしい」と息子たちに告げました。二人の息子たちは、それぞれ五百頭の鹿の群れのリーダーとなりました。

マガダ国においては、穀物の収穫期が、鹿にとって一番危険な時期でした。というのは、人間たちが、穀物を食い荒らす動物たちを殺そうとして、いろんなとところにさまざまな仕掛けをしたからです。人間たちは、方々に穴を掘って落ち葉をかぶせたり、とがった杭を立てたり、石の罠を仕掛けたりし、毎年、多くの鹿たちが殺されていました。

その年も穀物の収穫期に入ったことを知った菩薩は二人の息子を呼び、「そろそろ穀物の収穫期になった。お前たちも知っているとおり、この時期には多くの鹿たちが殺される。私たち年寄りは、あれこれ方法を講じ、なんとかこの辺りで暮らすことにしようと思う。お前たちは鹿の群れを率いて森の中に入り、穀物の収穫期が終わる頃まで森の中で暮らしなさい。適当な時期になってから帰って来たら良いだろう」と話しました。二人の息子は「お父さん、よくかわりました」と父の言葉を聞き入れて、自分の群れを率いて山に入ることにしました。

人間たちは「この季節になると鹿たちは山に入り、この時期になるとなると下りてくる」と知っていて、鹿を射殺するために物陰に隠れて鹿たちを狙っていました。愚か者のカーラ鹿は、「この時にこのように行くべきであり、この時にはこのように行くべきではない」と知ることができず、自分の鹿の群れを連れて、午前でも、午後でも、夕暮れでも、夜明けでも、時刻にかまわず、森に一番近い村の入り口を通って森に入ろうとしました。その辺りに隠れていた人間たちは、たくさんの鹿たちを射殺しました。自分の愚かさによって多くの鹿たちを失ったカーラ鹿は、数少なくなった鹿たちと共に森に入りました。

ラッカナ鹿は、賢くて機知に富み、臨機応変の才のある鹿でした。彼は、「この時にこのように行くべきであり、この時にはこのように行くべきではない」と知っていたので、動く時刻に配慮して、日中は動かず、夕暮れににも動かず、夜明けにも動かず、夜中だけに動きました。また、人間たちが潜んでいる村の門は通りませんでした。そのためラッカナ鹿は、一頭の鹿も殺されることない群れと共に、安全な森に入りました。ラッカナ鹿の群れは森に四ヶ月間住んだ後、穀物の収穫期が終わった頃に、山に入った時と同じように賢く用心しながら山から下りました。ラッカナ鹿は、五百頭の群れに囲まれて元気に戻ってきたのです。一方カーラ鹿は、帰る時にも、来る時と同じように愚鈍にウロウロと戻って来たので、残っていた仲間の鹿もすべて殺され、一人だけで戻ってきました。

菩薩である鹿は、二人の息子たちを見て、他の鹿たちと語りながら、次の詩を唱えました。

   徳があり
   慈愛ある者には繁栄あり
   見なさい、皆に囲まれて戻るラッカナを
   見なさい、皆を失ってしまったカーラを

息子の鹿たちを喜んで迎え入れた菩薩の鹿は長寿を全うし、その業によって生まれ変わっていきました。

ブッダは、「比丘たちよ、サーリプッタが親しい者の一団を従えて威光があったのは、今だけではなく、過去においても威光があった。デーヴァダッタが徒衆を失ったことは、過去にもあったのだ。その時のカーラ鹿はデーヴァダッタであり、ラッカナ鹿はサーリプッタであった。鹿の群れは仏の弟子たちであり、母はラーフラの母であり、父鹿は私であった」と話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

●良いことは生涯やるの?

「そんなことは当たり前」と、思うでしょう?短絡的です。まず良いことは何かと理解する。自分に対して良いことと、他人に対して良いことの二つがあります。自分にとって良いことが他人に迷惑なことも、他人に対しては良いが自分には迷惑になることもある。その場合は、良いことといっても真っ白ではなく、灰色になりますね。それでもう一つ考えられます。自分に対しても他人に対しても良いことです。それなら断然良いに決まっている。生涯に渡って実行するべきことになるのです。

良い行いというのは、良い結果を生み出さないと、無意味で無駄な行為になります。「見返りに良い結果を期待する行為などかっこ悪い」と単純に思ってはならない。期待してもしなくても、良い行為に何の結果もなければ無意味で無駄なことになります。

では、良い結果について考えてみましょう。自分の悪状況を改善する行為、自分があらゆる面で向上する行為であるならば、自分に対して良い行為です。他人の悪状況を改善する行為、他人が向上する行為であるならば、それは他人に対して良い行為なのです。

そこで考えてみましょう。良い結果が出てからも、さらにその行為を続けるべきでしょうか? 答えは一概にイエスではないのです。その行為によります。殺すなかれ、盗むなかれ、嘘をつくなかれなどの悪事を止める行為は、生涯やらなくてはいけないと理解できるだろうと思います。しかし、生計を立てるために良い仕事に就きたくてその資格を取るために努力する人がいるとする。その人が資格を取って良い仕事を見つけたら、さらに同じことを続ける必要はないのです。結果は出たのです。それからは、仕事を見つけるための行為を止めて、仕事をするという行為に転換しなくてはならないのです。または、エベレストを制覇したくて訓練する人がいるとしましょう。その人がエベレストの頂上に達したならば、自分の行為の結果を得たのです。二度も登りたい気持ちがない場合は、訓練し続ける必要はないのです。ということは、結果が出てからは、続ける必要のない良い行為もある。良い行為の一部は、期待する結果が出てからは続ける必要がないと理解しておきましょう。

仏教における修行は、心を清らかにするために、煩悩をなくすために、解脱するために行うものです。煩悩を抑えること、制御することに役に立つならば、山に籠っていても、人と全く話さず沈黙を守っても、ボロ布を着ていても、構いません。食べ物に目がない人は、不味いものを食べたり、時々断食したりしても構いません。しかし、心が煩悩からきれいになってからも、そういう偏った修行を続ける必要はないのです。悟った人は人里に戻って、苦しんでいる人々に真理を語ったり、悩み苦しみがなくなるようにアドバイスしたりした方が正しいのです。それが悟った人にとっての良い行為なのです。だから結果に合わせて変えなくてはならない良い行為もあるのです。また、誰もが生涯守らなくてはならない普遍的な良い行為もあるのです。

このように分析して、実用主義的に道徳を理解するべきなのです。実用主義を忘れると、道徳は道徳でなくなるのです。悪行為になりかねません。ブッダは「闇雲にとにかくやる」という行為と修行は、苦しみをもたらす煩悩の一つ(戒禁取)だと説かれているのです。今月の現世のエピソードに出たデーヴァダッタは、ブッダの道徳論を理解していなかったのです。他人がやりたがらない苦しいことの何かをやればかっこ良いと、行者として俗人に認めてもらえると思っていたので、「生涯~を守るべき」と五つの極端な戒律を考え出したのです。これは表面的には悪くみえないが、「生涯」という項目がネックになったのです。煩悩をいじめるために一時的にやってみるのも悪くないことでも、「生涯行う」ということになると、ただの自己いじめで、悪事なのです。

賢い鹿の物語でも、同じ教訓なのです。何かやれば良いということではないのです。期待する目的に達するか達しないかを真剣に観察して行為をしなくてはならないのです。簡単に言えば、臨機応変に、自分が歩む人生の道を、常に良い結果が出るようにと調整する智慧と能力が必要なのです。