No.88(2007年4月号)
呪文物語
Vedabbha jātaka(No.48)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。
祇園精舎に、性格が頑固で目上の人の言葉を素直に聞き入れない比丘がいました。釈尊は彼を諭され、「比丘よ、君が頑固なのは今だけではない。過去においても君は頑固であり、賢者の忠告を素直に聞こうとしなかった。そのために君は鋭い刀で斬り殺され、その上に、千人もの人を破滅させる原因をつくってしまったのだ」と、過去の話を語られました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はバラモンとして生まれました。ある村に、ヴェーダッバ(智慧の雲)と呼ばれる呪文を知るバラモンがいました。ヴェーダッバの呪文というのはたいへん価値のある技で、ある星と満月がピッタリと重なっている時に空を仰いで繰り返し唱えると、七種の宝石が空から雨のように降り注ぐというものでした。まだ若い菩薩は、ヴェーダッバの呪文を知るバラモンのもとで技芸を学んでいました。
ある時、ヴェーダッバを知るバラモンは、所用のためにチューティヤ国に行かねばならず、弟子の菩薩を連れて村を出ました。二人は、道中の森の中で五百人の盗賊団に襲われて、捕らえられました。
その盗賊団は、人々から「派遣盗賊」と呼ばれていました。なぜかというと、彼らは、二人の旅人を捕らえると、一人を人質にしてもう一人に身代金を取りに遣(や)らせたからです。たとえば父と息子を捕らえると、息子を人質に取り、「子供の命が惜しければ、金銀財宝を持って息子を受け取りに来い」と、父親に財産を取りに遣らせます。母と娘を捕らえると母親に財産を取りに遣らせ、兄弟を捕らえると兄に財産を取りに遣らせ、師と弟子を捕らえると弟子に財産を取りに遣らせました。
そういうわけで、バラモンと菩薩を捕らえた派遣泥棒は、師であるバラモンを人質にして、菩薩に財産を取りに遣らせることにしました。菩薩は師に敬礼し、「先生、二、三日で必ず財産を持って戻ります。決して心配しないで待っていてください。たまたま今日は、例の星と満月がピッタリと重なる日です。あの呪文を唱えれば、宝石の雨を降らすことができます。でもどうか私の忠告を聞いてください。苦しさに耐えかねて呪文を唱え、財宝を降らせてはいけません。もしたくさんの宝石を空から降らせたりしたら、先生は殺されることになるでしょう。それだけでなく、五百人の盗賊たちも破滅してしまうでしょう」と忠告してから、財産を取りに行きました。
夕方になると、盗賊たちはバラモンを縄で縛り上げました。ちょうどその時、東の空にぽっかりと満月が昇りました。バラモンは空を眺め、「例の星と満月がピッタリ重なっている。なぜ私は財産が届くのを待って、こんなに苦しい状態でいなければならないのか。呪文を唱えて宝石を降らせ、この盗賊どもに与えてやろう。そしてすぐに解放してもらおう」と考えて、盗賊たちに話しかけました。
「盗賊よ、なぜ私を捕らえるのか?」「財産を得るためだ」「もし財産が欲しいなら、すぐに私の縄を解き、頭を洗って新しい衣を着せ、体に香を塗り、服を花で飾りなさい」。盗賊たちは、バラモンの言う通りにしました。バラモンは星と満月がピッタリと重なるのを見て、空を仰いでヴェーダッバの呪文を繰り返し唱えました。すぐに空からたくさんの宝石が降ってきました。盗賊たちは宝物を集めて上着に包み、それを持って歩き出しました。ヴェーダッバを知るバラモンも、彼らの後から歩き出しました。
しばらく行くと、別の五百人の盗賊団が現れ、この一行を襲って捕まえました。捕らえられた盗賊たちは、「なぜ俺たちを捕らえるのか?」とたずねました。「財産を得るためだ」「財産が欲しいなら、あのバラモンを捕らえろ。あいつは空を眺めて呪文を唱え、財宝の雨を降らせるのだ。このたくさんの宝石も全部、彼が降らせてくれたのだ」。それを聞いた盗賊たちは、自分たちが捕らえた盗賊たちを釈放してバラモンを捕らえ、「俺たちにも宝の雨を降らせろ」と脅しました。バラモンは、「できるなら私もそうしたいのだ。しかし、宝石を降らせるためには、ある星と満月がピッタリと重ならねばならない。今はその時を過ぎてしまった。一年後にまたその時が来る。それまで待ちなさい。その時に財宝を降らせてあげよう」と言いました。
盗賊たちは、「意地の悪いバラモンめ。他の奴らには貴い宝石の雨を降らしてやったくせに、我々には一年も待てと言うのか」と怒り、鋭い剣でバラモンを真っ二つに斬り殺して道ばたに捨てました。そして大急ぎで先程解放した盗賊たちの後を追い、彼らを皆殺しにして財宝を奪い取りました。
しかし、争いはそれで終わりませんでした。彼らは手に入れた財宝を取り合って、二百五十人ずつに分かれて戦ったのです。一方が勝ち、負けた相手を皆殺しにしました。残った二百五十人は、さらに二派に分かれて戦い、残りの半分を殺しました。そのような殺戮を繰り返し、盗賊たちは、とうとう二人だけが残るまで、お互いに殺し合ったのです。残った二人は財宝を運び、ある村の近くまで来ました。二人はとてもお腹がすいたので、一人が剣を持って宝石の番をしている間に、もう一人が村で米を炊かせてご飯を持ち帰ることにしました。
財宝の番をしている盗賊は、宝石のために死んだ者たちを思い、「貪欲はまさに滅亡の根だ」と考えながら待っていました。しかしそのうちに「このお宝を二つに分けるのはおもしろくない。村へ行った男が帰って来たら、斬り殺そう」と考え出したのです。彼は、もう一人の盗賊が戻ってくる気配をうかがいながら、坐っていました。
村に行った盗賊も、「戻ったら、あの財宝を二つに分けることになる。ご飯に毒を入れてあいつに食べさせ、宝石を独り占めにしてやろう」と企んでいました。彼は、手に入れたご飯を先に食べ、残りに毒を入れて持ち帰りました。待っていた盗賊は、ご飯を持ってきた盗賊がそれを置くと同時に彼を剣で突き殺し、道ばたに投げ捨てました。そして、もとのところに戻って毒入りのご飯を食べ、死んでしまったのです。
そのようにして、ヴェーダッバの財宝のために、千人もの人々が、すべて、破滅してしまいました。
二、三日後、菩薩が財産を持って戻って来ました。もとの場所に誰もいなくなっているのを見た菩薩は事情を察し、「先生は私の忠告を聞かずにヴェーダッバの宝の雨を降らしたのだろう。盗賊たちがあの財宝を見て争わないわけがない。たくさんの死者が出たに違いない」と考えて、道を進みました。すると、師であるバラモンが、真っ二つに斬り捨てられて死んでいるのを見つけました。菩薩は薪を集めて師の遺体を丁寧に荼毘(だび)に付し、森の花を供えました。そのまま進むと五百人の死体が見つかりました。さらに行くと二百五十人の死体、さらに行くと百二十五人の死体と、順次、半分ずつの人数が殺されており、とうとう最後に一人の盗賊の死体が転がっているのを見つけました。
菩薩は、「千人の盗賊が殺し合い、結局、最後に二人だけが生き残ったのだろう。しかし彼らもまた、戦うことを自制することはできなかった。最後に残った盗賊はどこへ行ってしまったのか」と考えながら進みました。すると財宝の大きな包みを見つけ、その側に一人の盗賊が毒入りご飯の鉢をひっくり返して死んでいるのを見つけました。菩薩は一切の事情を理解し、「師は私の忠告を頑固に聞かず、自滅した。それだけでなく、彼のために千人もの命が失われた。誤った不正な手段で自分の利益をはかる者は、これほどの悲惨な状態を招くのだ」と考えて、次の詩を作りました。
過った手段で利を求む者
彼ら、すべて滅ぶ
チューティヤ国の賊は呪師を殺し
自らも残らず破滅に至れり
菩薩は、「私の師は間違いを犯し、正しくないところで力を尽くして宝の雨を降らせた。そのために、自分が破滅しただけでなく、他の人々を破滅させる原因もつくった。そのように、不正な方法で自分の利益のために励む人は、自らの破滅はもちろんのこと、他人をも滅ぼしてしまう」と、森中に響けとばかりに高らかに先程の詩を唱え、森の神々がそれを賞賛する中で、詩にしたがって説法しました。そして、菩薩はそこに残された財宝を持ち帰り、数多くの布施を行いました。その後、菩薩は寿命をまっとうし、死後、自分の善行為によって天界に生まれ変わりました。
お釈迦さまは、「比丘よ、君は今世で頑固であるだけではなく、前世においても頑固な性格だった。そしてその心の頑固さのために、悲惨な破滅を引き起こしたのだ」と言われ、「その時の、ヴェーダッバの呪文を知るバラモンはこの頑固な比丘であり、バラモンの弟子は私であった」とおっしゃって、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
師匠というのは偉い存在です。師匠に対して敬意がないと、学ぶことができないのです。師匠に対する敬意とは、何でもかんでも「はい、はい」と言って奴隷のように従うことではありません。時と場合を無視して、どこであっても師匠に土下座して礼することでもありません。形の敬意よりも、こころの敬意が大事です。インド文化の師弟関係も、日本の文化の師弟関係も、それほどかわりません。どちらかというと、親子関係なのです。親は、全面的に子供のことを心配して育ててあげるものです。子供も親のことを全面的に愛し、尊敬し、育ててもらわなくてはならない。生活において協力してあげなくてはならない。親が衰えていったら、支えてあげて、恩返ししなくてはならない。師弟関係もほとんど同じなのです。家族の中で、異論も成り立つ。親の意見に反対することもある。親の間違いを何の躊躇もなく言うこともある。インド文化では、師匠を神のごとく尊敬しつつ、異論を言うことも師匠の間違いを示すことも、可能なのです。すばらしい弟子に恵まれた師匠なら、弟子との争論でかなり悩まされるはめにもなることは、覚悟の上です。このエピソードに出てくる菩薩は、弟子でありながら、師匠に正しいアドバイスをするのです。師匠の性格的な弱みをよく知って、それを守ろうとしていたのです。
このエピソードは、財産と人間性の関係を語っています。お金さえあれば何でもかたづくと思うのは、勘違いもいいところです。親は、子供に苦労させずに贅沢をさせてあげれば、言うことを何でも聞いてあげれば、良い親子関係が築けるだろうと勘違いしているのです。それで子供が良い人間に成長するだろうと勘違いしているのです。あまりにも贅沢させてわがままを聞いてあげると、結局は人格的にだらしない、一人前になれない、独立できない、責任感のない、社会の荷物のような人間になってしまう可能性はおおいにあるのです。財産的に余裕があるならば、贅沢に育ててしまうのは避けられないことですが、大事なのは、物ではなく、人間そのものであると厳しく諭さなくてはなりません。人間として互いに心配しあって、慈しみの感情で生きることこそが、幸福なのです。経済的に豊かでない家族では、必然的に互いに心配したり、協力したりしなくてはいけないのです。その場合は、自分の苦しみだけではなく、親の痛みも子は感じるのです。その子は立派な人間として成長するのです。
この物語で、「金さえあればいいでしょう」とバラモンが思っていても、それは勘違いでした。財産は我々は生身の人間であることを忘れさせるのです。人間の命より、物質が良いと思ってしまうのです。金がある人は、他人に自慢したくなるのです。物で、見せかけで、「他人よりすぐれている」と、中身が空の人間が思うのです。七宝には何の価値もないのです。人間がいるからこそ、財産に価値が成り立つのです。犯罪者が豪邸に住んでいても、豪邸は犯罪を無罪にしてくれません。立派な人がボロ家に住んでいても、その家は人間の宝物です。その人がなくなられたところで、人類の文化遺産として保存しておく可能性もあるのです。
欲に狂ったこの世では、人間に価値がないのです。財産のためなら、人間としての自由も、尊厳も、何でも犠牲にするのです。会社のために尽くす人は、時々家族を犠牲にする。利益を上げたいと必死になる会社は、法律まで犯して社員に過剰労働させる。そこで事故を起こしたりして、何人かの命まで奪われてしまう。利益を上げるための努力は、会社の閉鎖という結果で終わるのです。財産のために、国同士が対立する。戦争も起こる。暗殺も起こる。裏切りも詐欺も起こる。「生きるためだ」と思っているでしょう。しかし、事実は「生きるために死ぬはめになる」ではないでしょうか。