No.100(2008年4月号)
地獄の鉄釜物語
Lohakumbhi jātaka(No.314)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の首都、舎衛城(しゃえいじょう)の近郊にある祇園精舎におられた時のお話です。
ある夜更け、コーサラ王は、世にも怖ろしい音を聞きました。まるで地獄の底から振り絞ったような、「ヨォ…」「ナァ…」「オ…」「ネ…」という呻(うめ)き声が聞こえたのです。実はその声は、遙か昔にこの国の王子であった四人の者が地獄で苦しむ声だったのです。
彼ら四人は身分に驕(おご)り、人妻を我がものにするという罪を犯して地獄に堕ちたのです。欲に支配され、他人が大事に護る女性に対して邪な心のままに快楽を貪った彼らは、死後、地獄のグツグツ煮立った巨大な鉄釜の中に生まれました。その釜の中を三万年かけて沈み、底にぶつかると、また三万年半かけて上昇するという、怖ろしい苦しみを味わっていたのです。七万年近くもかけて鉄釜の口に近づき、わずかに頭を出した四人は、「いつこの苦しみから逃れられるのか?」と絶望しつつ、自分の思いを言葉にしました。しかし一瞬のうちに釜の中に沈んでしまったので、一声ずつしか外に出すことができなかったのです。地獄の鉄釜の口はお城の近くにあり、コーサラ王の部屋にその声が届いたのでした。
世にも怖ろしい声を耳にしたコーサラ王は、あまりの恐怖に動くことさえできず、朝日が昇るまでじっと坐っていました。朝になると、王に仕えるバラモンたちがご機嫌伺いにやって来ました。「王様、昨夜はよくお休みになりましたか?」「師匠方、よく休むどころではない。昨晩、死に神の叫び声のような怖ろしい音を聞いたのです。あまりの恐ろしさに一晩中起きていました。いったいあの怖ろしい音は何であろうか?」。バラモンは厄払いの身振りをしながら「大王様、それは闇の力の声です」と言いました。「怖ろしいことだ。その悪しき力から逃れることはできるのであろうか?」「それは難しいことです。しかし、大王様、ご安心ください。我々は手だてを知っています」「師よ、どういう手だてですか?」「大王様、厄よけの祭儀を行うのです。決まった範囲の生き物を「四頭組 生贄(いけにえ)」でお供えし、祈祷するのです。さっそく、象を四頭、馬を四頭、牛を四頭、人間を四人、集めましょう。他にも、動物から鳥にいたるまで、すべての生命から四匹ずつ集めなければなりません」「では師匠方、すみやかに祭儀の準備を整えていただきたい」「かしこまりました。すぐに準備に取りかかります」。
バラモンたちは、広大な祭儀場を造り、多くの柱を立てました。それぞれの柱には生贄となる動物たちを四匹ずつくくりつけました。生贄となった動物たちの肉は、祭儀の後、バラモンたちに与えられます。彼らは「久しぶりにすごいごちそうだ。しかもたくさんの褒美ももらえるのだ」と、懸命に準備に励みました。「王様、これが必要です、あれが必要です」と、さまざまな品も手に入れました。
その様子を見た王妃マッリカーはコーサラ王に、「王様、いったい何ごとでしょう。バラモンたちは何を騒いでいるのでしょう?」と尋ねました。「妃よ、そなたには用のないことだ。自分の楽しみにかまけて、余の苦しみなど知りもしないのだから」「大王様、どうぞお聞かせください」「妃よ、余は、夜更けに、世にも怖ろしい声を聞いたのだ。それは悪しき呪いの声であり、余の地位、寿命などを脅かす、不吉な力だという。余の安泰を祈るための祭儀には、多くの生贄が必要だということだ」「大王様、そのことについて、人間・天界の第一のお方にお尋ねになりましたか?」「妃よ、それは誰のことか?」「正覚者である世尊です」「妃よ、まだ正覚者である世尊にはお尋ねしていない」「王様、すぐに世尊にお尋ねになってくださいませ」。
そこで王は、食事の後で、豪華な車で祇園精舎に乗りつけ、釈尊に近づいて礼拝し、傍らに座りました。王は、四つの怖ろしい声を聞いたこと、バラモンたちが、王の安泰を祈祷するために多くの生贄を集めていることを釈尊に告げ、「尊師、どんな禍が私に起ころうとしているのでしょうか?」とお尋ねしました。「大王よ、何ごとも起こりません。その音は、地獄に堕ちた者たちの苦しみの泣き声です。過去にも、一人の王がその声を聞き、バラモンの進言によって多くの生命が命を失いかけたことがあった。しかし賢者のはたらきで事なきを得たのです」。そして釈尊は、過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はカーシー国のバラモンの家に生まれました。成人になった菩薩は出家して、禅定と神通を得、楽しく森に住んでいました。
ある夜更け、バーラーナシーの国王は、「ヨォ…」「ナァ…」「オ…」「ネ…」という、地獄に堕ちた四人の者の呻き声を聞きました。現世物語と同様、バラモンたちは、王の安泰を祈るための祭儀を王に進言し、たくさんの動物を生贄のために集めました。
その頃、慈悲観を主に修行していた菩薩は、天眼で世の中を見渡し、多くの動物たちが生贄になろうとしていることを知りました。菩薩は「今、私は行った方がよいだろう」と神通力で空間を飛び、お城の御苑に降り立ちました。菩薩は広々とした板石の上に、黄金の像のようにどっしりと坐りました。
その頃、お城では、若くして大司祭の一番弟子となっているバラモンの青年が、生贄になろうとしている多くの動物を見て不審に思い、師に尋ねました。「尊師、ヴェーダ聖典には『他のものを殺生して己が無事に終わることはない』と教えられているのではないでしょうか?」「おまえは王の財産を運べ。余計なことは言うな」。大司祭は弟子を斥けました。
バラモンの若者は、「ここは私のいるべきところではない」と考えて城を出ました。そして御苑を歩いている時に菩薩を見かけました。二人は互いに親しく挨拶を交わし、若者は菩薩の傍らに坐りました。菩薩は「青年よ、王は公正に国を治めておられますか?」と訊きました。「はい、尊者、王様は正しく国を治めておいでです。しかし王様は、先日、この世のものとは思われぬ怖ろしい声を聞かれ、たいへん怯えておられます。お城では、その声の悪しき力を鎮める祈祷のために、多くの生贄が集められています。尊者よ、そのような殺生は本当に必要なのでしょうか?」「青年よ、私はその声の意味を知っている。生贄の必要はありません」「尊者よ、どうか王様に会って、そのことをお話しください」「私は国王を存じ上げず、自分から会いに行くことはできません。王様がこちらにいらっしゃれば、音の意味についてお話しし、王様の疑を晴らしてあげることができます」「では、尊者よ、どうぞお待ちください。私が王様をこちらにお連れいたします」「よろしい、青年よ」。
若者はお城に戻って国王に事情を話し、王を菩薩のところに連れて来ました。王は菩薩を礼拝し、傍らに坐って尋ねました。「尊者よ、あなたは余が耳にした怖ろしい声の意味をご存じだと聞きました」「大王よ、そのとおりです」「尊師、ぜひ教えてください」「大王よ、あの声は、地獄に堕ちた四人の者の泣き声です。彼らは、過去で、他人が大事に護っていた女性を犯し、死後、地獄の鉄釜の中に生まれました。釜の中で煮られながら、堅くて肌を突き刺す泡に押されて三万年かけて下へ沈み、底にぶち当たると今度は三万年半かけて上に突き上げられました。そしてやっと一声釜の外へ声を発すると、また沈んでいったのです。釜の口はお城近くにあり、王様は、たまたまその声をお聞きになりました。四人は、それぞれ、次のような詩句を唱えようとしていました。
ヨォ…
邪(よこしま)なる生を営みきたれり
われ、多くの財がありながら、
善き人に布施もせず、
わがための庇護となるものを築かず
ナァ…
七万の年月
すべてあまねく満たす間
地獄の釜で煮らるるものに
いつその終わり来たらんや
オ…
終わりなし。いかで終わりあらん
終わりは見えず
友よ、われと汝の罪の果
熟してあればなり
ネ…
願わくは、ここより去りて
人間の胎に宿り
穏和で徳あるものとして
多くの善業をなさん
大王よ、彼らは、罪業の大きさのために、詩句の最初の音しか外に出すことはできませんでした。彼らは今も自分の罪の果を受けて泣き叫んでいます。しかし彼らの嘆き声が聞こえたからといって、王様に禍が起こることはありません。恐れることは何もないのです」。菩薩の話に納得した王は、生贄にされようとしていたたくさんの動物たちを解き放ち、祭儀場を取り壊させました。菩薩は数日御苑に滞在してから山の修行生活に戻り、死後は梵天界に生まれました。
お釈迦さまは、「その時のバラモンの若者はサーリプッタであり、山に住む行者は私であった」と言われ、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
自分たちの幸福を願って好き勝手に動物を生贄(いけにえ)にすることは、昔からあった習慣です。中国では、伝統的に、国の安穏を願って先祖の神に生贄を捧げることが行われてきました。『旧約聖書』では、生贄を行いなさいと神が命じたと記されています。イスラム教でも年に一度犠牲祭があり、一家で一頭づつ羊や牛やラクダなどを生贄にすることが命じられています。インドのバラモン教では、yāga という供養儀式が盛んに行われてきました。その儀式で何を願うのかによって、神に供養する品物が変わるのです。牛乳、米、乳粥、果物、野菜、穀物、金銀などが、供物になります。健康になること、死を免れること、敵を倒すことなどの願い事となると、生贄を捧げることになるのです。
国の安穏などを王が期待すると、多数の動物が生贄になってしまうのです。バラモン教(現代のヒンドゥー教)では、それらの儀式はバラモンカーストの聖職者たちが行わなくてはならないという決まりが作ってあったのです。バラモンカーストの人たちは、儀式を行うことで楽に高収入を得たのです。そのため、供養儀式を大々的に讃嘆した聖典を書いたのです。ですから基本聖典であるヴェーダより、供養儀式を説明しているブラーフマナ聖典の方がはるかに量が膨大なのです。
動物を殺すことは、気持ちがいい作業ではないのです。神の決まりだ、神を讃えるために行っているのだという言い訳をつければ、嫌悪感で悩むことなく、残酷に動物を殺せるのです。殺しを行う人々にとっては、額に汗せずに得られる高収入なのです。日常生活というものは、決して楽なものではない。病気になったり、子供が死んだり、敵の攻撃を受けたり、収入がなくなったり、天災に遭遇したり、ありとあらゆる苦難にさらされます。問題なく生きられるというのはあり得ない話です。夢のまた夢に過ぎないのです。それで人は不安に陥るのです。災難に遭わないようにと、神の怒りが下されないようにと、期待するのです。この弱みが、司祭たちのかっこうの飯のタネなのです。
お釈迦さまは一切の生命に対して憐れみを持っておられたのです。災難を免れて幸福になりたければ、他の生命に対して安心感(無畏)を与えなくてはならないと説かれたのです。長生きしたければ、病に犯されたくないと思うならば、動物を殺すのではなく、殺されかけている動物を助けてあげることだと説かれたのです。因果法則によって、自分が与えたものにふさわしい結果を受けるのです。他から奪うと、何倍にもして返すはめになるのです。生命の命を奪う人の命も奪われるのです。長生きできなくなるのです。死とは、生命にとって最大の恐怖です。最大の恐怖を与えた人は、限りなく輪廻転生し続ける中で、生まれるたびに、最大の恐怖を受けることになるのです。
どんな伝統があろうとも、たとえ神が「殺せ、殺せ」と言っても、占い師・祈祷師が何を言っても、生命に苦を与えてはならないのです。一切の迷信を捨てるべきです。すべての生命に対して慈しみを抱くことです。慈しみを抱く人は、無量の慈しみに囲まれて、守られて、最高の幸福で、希望どおりに生きていられるのです。