ジャータカ物語

No.106(2008年10月号)

アキッティ行者の物語

Akitti jātaka (No.480) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダが祇園精舎におられた時に語られたお話です。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は大富豪のバラモンの家で生まれ、アキッティと名づけられました。菩薩が学業を終えて家に戻ると菩薩の両親が亡くなりました。世俗の欲のない菩薩は莫大な財産を捨て、出家しました。すると、町や村のたくさんの人々も菩薩の後を追って出家し、菩薩が住む庵の周囲に暮らすようになりました。菩薩たちは在家の人々から尊敬され、たくさんの供養を受けました。しかし菩薩はそのような暮らしを喜ばず、誰にも知らせずにこっそりとそこを抜け出して、港の近くの園で独り修行に励み、禅定と神通を得ました。するとまた、多くの人々が菩薩を慕って集まるようになりました。菩薩は再びそこを捨て、空中を飛んでアヒ島と呼ばれる島へ行き、カーラ樹の大木の近くに庵を結びました。菩薩は、カーラ樹の実がある時は実を食べ、実のない時は葉を食べながら、満ち足りて住んでいました。

ある時、菩薩の戒を保つ力によって、帝釈天の玉座が熱くなりました。地上を眺めた帝釈天は菩薩を見つけ、「あの行者は何のために苦労しながら戒を保って熱心に修行しているのだろう」と思い、バラモンに姿を変えて菩薩のところに現れました。ちょうど昼時だったので、菩薩はカーラ樹の葉を蒸して、冷めてから食べようと庵の入り口で坐っていました。バラモンの姿をした帝釈天が托鉢のために近くに立つと、菩薩はとても喜んで、バラモンの鉢に用意した食事をすべて入れました。菩薩は、その日は何も食べずに、自分が布施をした喜びと心の安らぎに満ちて日を過ごしました。帝釈天が翌日の食事時にも菩薩を訪れると、菩薩は食事をすべてお布施し、また何も食べずに喜びと安らかさに満ちて日を過ごしました。三日目も同じくバラモンに食事をお布施した菩薩は、体が弱っていたにもかかわらず、「カーラの樹からすばらしい幸福を生み出せた」と自分が食事を施したことを喜びながら、一日を過ごしました。

帝釈天は、「このバラモンは、三日も何も食べず、あれほど体が弱っているのに、自分の布施行を喜び、心は安らかに落ち着いている。いったい彼は何を望んでこのような善行為をするのだろう?」と、昼が過ぎるのを待って帝釈天の姿に返り、若い太陽神のように美しく輝きながら菩薩の前に現れました。そして、「修行者よ、熱風が吹きすさび、塩辛い海の水に取り囲まれたこのような場所で、いったい何を求めているのか?」と尋ねました。菩薩は、「私は栄光を求めているのではありません。ただ悟りの智慧を得たいと願っているだけなのです」と、次の詩句を唱えました。

帝釈天よ、再生は苦である 体が壊れるのも苦である
迷妄も、死も、苦である ゆえに私はここに住む、ヴァーサヴァよ

それを聞いた帝釈天の心は喜び、「この男は一切のことがらに厭離の気持ちを起こし、出家して修行しているのだ。この男の願いごとを叶えてやることにしよう」と思い、菩薩と詩句で会話を交わしました。

《帝釈天》
汝は実に善い言葉を語る 
望みがあるならばカッサパよ 汝に恩典(おんてん)を与えよう

《アキッティ行者》
有情の主、帝釈天よ、 
妻や子や金銀財宝、愛しき者たちを得たとしても 心が満たされることはない 
望みを叶えてくれるなら その欲が私に起こらないことを

《帝釈天》
汝は実に善い言葉を語る 
望みがあるならばカッサパよ 汝に恩典を与えよう

《アキッティ行者》
有情の主、帝釈天よ、 
畑や財産や黄金、牛や奴隷を得たとしても 生じるものは、老い、また滅する 
望みを叶えてくれるなら その時に怒りが私に起こらないことを

《帝釈天》
汝は実に善い言葉を語る 
望みがあるならばカッサパよ 汝に恩典を与えよう

《アキッティ行者》
有情の主、帝釈天よ、恩典を賜れるなら
愚者を見聞きせぬことを 愚者と共にいることのないことを 
愚者と言葉を交わすこともなく、愚者との会話を楽しむこともないことを

《帝釈天》
愚者は汝に何をしたのか わけを語れ、アキッティよ
愚者に会わぬことを 汝が願うのはなぜなのか

《アキッティ行者》
愚か者は為すことはすべて外れ かけるべきでないところに心をかける
道徳を知らず、外れたことを善しとなし 正しい言葉に憤る
ゆえに、愚者に会わないことこそが恩典である

《帝釈天》
汝は実に善い言葉を語る 
望みがあるならばカッサパよ 汝に恩典を与えよう

《アキッティ行者》
有情の主、帝釈天よ、恩典を賜れるなら
賢者を見聞きすることを 賢者と共にいることを 
賢者と言葉を交わし 賢者との会話を楽しむことを

《帝釈天》
賢者は汝に何をしたのか わけを語れ、アキッティよ
賢者に会うことを 汝が願うのはなぜなのか

《アキッティ行者》
賢者は為すことはすべて的を得 かけるべきでないところに心をかけず
道徳を知り、善い行いを善しとなし 正しい言葉に怒ることはない
ゆえに、賢者と共にあることこそ恩典である

《帝釈天》
汝は実に善い言葉を語る 
望みがあるならばカッサパよ 汝に恩典を与えよう

《アキッティ行者》
有情の主、帝釈天よ、恩典を賜れるなら
夜が過ぎて朝日が昇る時 天の食事が現れるように
また、施しを受けるため 戒を守る托鉢行者が来るように
布施をして飽きることなく 布施をして悔いぬこと
布施により心が清らかになること
帝釈天よ、それこそは私が求める恩典である

《帝釈天》
汝は実に善い言葉を語る 
望みがあるならばカッサパよ 汝に恩典を与えよう

《アキッティ行者》
有情の主、帝釈天よ、恩典を賜れるなら
あなたは二度とこちらに来ぬことを 
帝釈天よ、それこそは、私が求める恩典である

《帝釈天》
修行に励む男女の多くは われに会うことを望む
私に逢うことに 何の不都合があろうか

《アキッティ行者》
あなたは天の美しさに溢れ すべての愛しい楽を顕している 
それゆえ会うと修行の妨げとなる それがあなたに会うことの不都合である

このように何度も願いが叶う機会を得ながら、菩薩は、世俗からの出離のためになるものだけを選びました。菩薩は、帝釈天といえども他人の心の欲や怒りをなくしたり身口意の行いを清らかにしてあげたりすることなどできないと知っていましたが、真の法を説くためにそれらの願いを選んだのです。帝釈天は、「尊者よ、了解しました。二度とあなたの邪魔はしません」と菩薩に礼をして天界に戻りました。菩薩は寿命が尽きるまでそこで住み、死後は梵天界に生まれました。

お釈迦さまは「その時の帝釈天はアヌルッダであり、アキッティ行者は私であった」と言われ、過去の話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

子供の頃から人は、自分の希望が叶ってほしいと妄想します。現実的にはあり得ないので、希望が叶う物語を作るのです。日本でも、花咲爺さん、こぶとり爺さん、舌切雀などなど沢山の昔話があります。これらの昔話には、決して「希望を叶えてくれる何か力があるのだ」と信じ込ませる目的はないのです。子供たちに、学ぶべき大事なことがあるのだと言うために、物語を伝え続けているのです。

ジャータカ物語でも、この手法をよく使っています。決まって登場する人物は、帝釈天です。帝釈天が、自分には何でもできるぞという自信満々の気持ちで、汝に恩典を与えよう、と菩薩に言うのです。菩薩は、仏教が人に教えようとする戒めを表す役柄です。菩薩は、最初に欲が起こらないことを希望しました。しかし、これだけは、たとえ神の王であってもできないことです。帝釈天はそれに何も言わず、もう一つ恩典を与えようとします。そこで菩薩は、怒らないことを希望しました。それも無理。しかし神は、何も言わずに別の恩典を与えようとする。次に菩薩は、愚者と関わりを持たないことを希望しました。結局それも、神様には無理なことでした。

神様を信仰する方々は「神よ、悪魔に誘惑されぬように私を導いてください。罪を犯せぬようにしてください」などなどの祈りを習慣的にすると聞いたことがあります。確かに、神に無理を頼んでいるのです。罪を犯せないようにすることは、その個人が自分の意志でしなくてはいけないのです。

このジャータカ物語は、心清らかにすることは自分自身の努力であって、他人がしてあげることはできないものだと言うために語られたと思います。最後のオチとして、菩薩は神に向って、「あなたは二度と来るなよ」という恩典を希望しました。それならおそらく神にもできることだろうと思います。仏教はどれほど、自分を信じて、自分を頼りにして、自分自身で励んで、最高な幸福に達する道であるかと、教えてくれる物語です。