No.107(2008年11月号)
マンゴーの呪文物語
Amba jātaka (No.474)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。
デーヴァダッタは「沙門ゴータマは私の師ではない」と釈尊のもとを離れ、サンガを分裂させようとしました。しかし、ついに自分が犯した罪によって生きたまま大地に呑み込まれ、阿鼻(あび)地獄に墜ちてしまったのです。釈尊は、「デーヴァダッタは、過去でも、師を捨てて破滅したことがあった」とおっしゃって、皆に請われるままに過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、王に仕えるバラモンの司祭一家が怖ろしい伝染病にかかり、世間から隔離されました。家族の中でただ一人生き残った息子は、隔離の壁を破ってそこを逃げ出しました。彼はタッカシラーに行き、高名なバラモンの弟子となって学芸を学び終えると、旅に出ました。
国の国境近くに身分の低い人々の集落がありました。菩薩は当時、その集落に住む賢者でした。
菩薩は不思議な呪文を知っていました。その呪文を唱えると、季節に関係なく天の果物のようにおいしいマンゴーを実らせることができるのです。朝早く森に行ってマンゴーの樹から七歩離れて立ち、コップ一杯の水を樹にかけながら呪文を唱えると、古い葉がみるみる新しい葉に生え替わり、たくさんの花が咲いて散って実が生じ、たちまち大きくなって、熟れたマンゴーが樹から降るように落ちてくるのでした。
旅の途中で菩薩が季節はずれのとびきりおいしいマンゴーを売っているのに出会ったバラモンの若者はとても驚いて、「これはすばらしい。この人はきっと世にも稀な呪文を知っているにちがいない。なんとかしてその秘密を知りたいものだ」と思いました。若者は菩薩の跡をつけ、菩薩がマンゴーを手に入れるところを盗み見ました。しかし、菩薩が唱えている呪文の言葉まで知ることはできませんでした。
若者は菩薩の家に行き、菩薩や菩薩の妻の機嫌をとって、「先生、どうぞ私を先生の弟子にしてください。召使いの仕事でも何でもいたします」と頼み込みました。菩薩は彼をよく観察してから、「あの若者は呪文を知りたくて来たのだろうが、どうも性質が悪い。あの男にはこの呪文を身につけることはできないだろう」と妻に話しました。
若者は菩薩の家に住み込んで、薪を割ったり、米をついたり、菩薩が顔を洗う水を用意したり、菩薩の足を洗ったり、どんなことでもやりました。菩薩が「足が疲れたから寝る時に足を載せる台がほしい」と言うと、「では私の膝の上に足を載せてください」と、一晩中菩薩の足を膝の上に載せたりもしました。また、菩薩の妻の出産の時には、とても細かく気を配って懸命にお世話しました。
菩薩の妻は若者を気の毒に思い、菩薩に、「あなた、あの若者は身分の高い生まれなのに、呪文を教わりたいばかりに、身分の低い私達のためにどんなことでもしてがんばっています。呪文が彼の身につくかどうかはわかりませんが、教えてあげたらどうでしょう」と言いました。菩薩は承知して、バラモンの若者に呪文を教えました。そして、「これは、莫大な財産や名誉を生み出すことのできる力をもつ呪文だ。しかし、ひとつ気をつけなさい。この呪文を誰に教わったのかと人に訊かれたら、身分が低い師から学んだことを恥じて、私のことを隠してはいけない。そんなことをしたら、この呪文の力は失われるだろう」と忠告しました。若者は、「どうして私が先生のことを隠すようなことがあるでしょう。たとえ誰から尋ねられても、堂々と本当のことを言いますよ」と応えました。
呪文を教わった若者は菩薩に別れを告げてバーラーナシーの都へ帰り、そちらで季節はずれのおいしいマンゴーを売って大もうけしました。
ある日、お城の園芸長が若者からマンゴーを買って、王に献上しました。王は、季節はずれのとびきりおいしいマンゴーを食べて驚き、「このマンゴーはどこで手に入れたのか」と大臣に訊きました。「王様、一人の若者が、街で季節はずれのマンゴーを売っております。その者から買い求めたものでございます」「では、これからは、このマンゴーは城に納めるようにと、その若者に命じておけ」。それ以降、若者はマンゴーを城に納めました。王は若者のマンゴーをたいそう気に入って、彼を家臣に取り立てました。若者は王の近くに仕えるようになり、高い地位と多くの財産を持つようになりました。
ある時、王が、「おまえはこのすばらしいマンゴーをどうやって手に入れるのか。龍か鳳凰(ほうおう)が運んでくるのか、それとも何か魔法でもあるのか」と尋ねました。「王様、誰が運んでくるのでもありません。私は世にも稀な呪文を知っているのでございます」「その呪文の力を、一度見てみたい」「かしこまりました。では明日ご覧にいれましょう」。
翌日、彼は、王や家来たちとともにお城の御苑に出かけ、呪文の力で実のないマンゴーの樹にたくさんのマンゴーを実らせて雨のように降らせ、皆の喝采を浴びました。王は若者にたくさんの褒美を与え、「若者よ、このような珍しい世にも稀な呪文を、いったい誰から教わったのか」と尋ねました。若者は、自分が身分の低い師匠の弟子になったことを恥じ、「そんなことが皆に知れたら、どんな陰口を言われるかわからない。先生は、事実を隠せば呪文の力はなくなると脅したが、呪文の力が身についた今となっては心配することはないだろう」と高をくくって、「タッカシラーの高名なバラモンの先生に教わりました」と嘘をつきました。
ところが、そのようにして若者が真の師匠を捨てたとたん、彼の呪文の力は消えてしまったのです。
数日後、王は、「もう一度、目の前でマンゴーが実るのを見ながらマンゴーが食べたい」と、若者や家臣たちと御苑に行きました。しかし、若者がマンゴーの樹から七歩離れて呪文を唱えても、何の変化もありません。若者は、焦りながら、空しくマンゴーの樹の前で立ちつくすことになりました。王は不審に思い、「若者よ、つい先日は、あれほどたくさんの実を降らせたではないか。なぜ今回は固くなって立っているのか?」と訊きました。返事に窮した若者は、「今日は星の巡りが悪いようです」と、ごまかそうとしました。しかし王は、「今まで星の話などはひと言も言わなかったではないか。前回は、ただ呪文を唱えただけで、いとも簡単に成功したのだ。今さらできないというのはおかしい」と、納得しませんでした。
若者は、呪文の力が失われてしまった以上、ごまかし続けることはできないだろうと観念して、本当のことを話しました。「実は、私は、あの呪文を、身分の低い生まれの師に教わったのです。その時、師匠の名を隠したりしたら呪文の力は消え失せるということも教わりました。それなのに私は、高名なバラモンに教わったなどと嘘をつきました。そのために呪文の力が失われてしまったのです。」それを聞いた王は驚きあきれ、「このようなすばらしい宝のような呪文を教えてもらいながら、師を捨てるようなことをするとは、何という悪人か」と、詩句を唱えました。
エーランダの樹であれ、プチマンダの樹であれ、パーリバッダカの樹であれ、
蜜を求める者にとって、蜜を持つ樹こそは最上の樹である
クシャトリヤ、バラモン、バイシャ、シュードラ、チャンダーラ、
またはプックサ、いずれの身分であれ
法を求める者にとって、
法を教えてくれる師こそが、最上の人
杖で、鞭で、この者を打ち据えよ
この賤しいこころの男を打ちのめせ
苦労して得た宝の教えを、
見栄のために失った愚か者を
若者は罰を与えられ、「師匠のところに戻ってもう一度あの呪文を教わってくるのだ。さもなくば、こちらへ足を向けることさえするな」と都から追放されました。若者は仕方なく菩薩のところに戻って訳を話し、次の詩句を唱えました。
平地だと思い込んで、穴ぼこに、くぼみに、
あるいは大木の腐った根っこに、
足をとられることがあるように、
縄だと思って黒蛇を踏むことがあるように、
盲人が火に足を踏み入れてしまうことがあるように、
私はあなたに対してつまづき、罪を犯しました
賢者は、呪文を失った者に、再度呪文を教えたまえ
菩薩は、「盲人でさえ、あらかじめ注意しておけば、穴に足を取られることはない。呪文を失わぬように注意まで与えたのに、こうなってはどうしようもない」と、詩句を唱えました。
私は法に従って呪文を教え、君もまた法に従ってそれを学んだ
そして私は、その呪文が去らぬよう、その性質をも教えたのだ
苦労して学んだ、今の人の世にて得難きその呪文を、
生きる糧となる宝を、無知な者は、己の悪行によって、すべて失った
愚か者、迷い多き者、恩知らず、嘘をつく者、自制心のない善からぬ者に
尊い呪文が身につくことはない
どこから呪文がくるというのか、去れ、愚か者よ
師匠に弟子入りを断られた若者は、森に入ってさまよい、死んでしまいました。
お釈迦さまは「比丘らよ、デーヴァダッタは過去においても師を捨て去り、破滅に至った」と言われ、「その時の恩知らずな若者はデーヴァダッタであり、王はアーナンダであり、呪文を知る師は私であった」と、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
仏教は断言的に差別には反対です。差別と区別について教えた経典があります。陸上を歩く獣達を見ると、ライオン、トラ、牛、ヤギなどの動物は、それぞれ違います。虫たちもまた、それぞれ違います。空を飛ぶ鳥たちの間でも、水の中に棲む魚などの生き物の間でも、明確な区別が見えます。しかし人間は、肌の色はどうであっても、カーストはどうであっても、食べ方、歩き方、性交渉の仕方、出産の仕方、育て方などなどは、みな同じです。そこには何の区別も見当たりません。釈尊は人間を生物学的に見ると一種類の生物だとして、差別を批判したのです。ただし、殺生する・盗む・うそをつくなどの悪行為をする人々は他の人々より卑しいものであると、善行為をする人々は他の人々より優れた人々であると、行為による人間の区別は認めたのです。(スッタニパータ、大品、ワーセッタ経)
この物語の菩薩はチャンダーラ・カーストの家に生まれたのです。このカーストは、インドの四つのカーストの四番目にも入らないほど身分が低いと決めつけられていたのです。バラモンなど身分の高い人々は、この人々と決して一緒に行動しないのです。彼らは奴隷として働かなくてはいけないのです。
しかし菩薩は、世にも珍しい呪文を知っていて、そのおかげで生計を立てていました。身分がとても高い若いバラモンには、身寄りさえもなかったのです。彼は呪文を学びたくて、カースト制度の決まりまで破って、召使のように菩薩をお世話したのです。バラモン人たちの間では知識がある人の格が上なのです。「新しい知識を得られるならば何でもやる」というバラモン人の性格もここで見えます。
師匠を尊敬することは、学ぶ人にとっては欠かせない道徳なのです。師匠や指導者を尊敬することは大事であると、律蔵にも詳しく記してあります。教える人を軽視すると、知識は身に付かないものです。性格が悪い人には何も教えてあげてはいけないという戒めが、他のジャータカ物語にもあるのです。仕方がなく教えたとしても本人にとって悪い結果になるのだと、今月の物語に書かれているのです。現代社会は、性格を改善することを無視して、勉強だけできれば何でも教えてあげるシステムです。ですから、社会に地球にどれほど迷惑をかけても自分が儲かればよいのだ、という世界になっているのです。性格の善い人が知識を得ると、人類の役に立つのです。
この物語は、呪文には効き目がある、という意味で読まないでください。たとえ効き目があるとしても、道徳がなければすべて無になるのだと示しているところです。