ジャータカ物語

No.111(2009年3月号)

ビラーリコーシャ物語

Biḷārikosiya jātaka (No.450) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。

祇園精舎に、いつでも他の人に喜んでお布施する比丘がいました。彼は、食べ物を得たら必ず誰かに分けてから食べ、飲み物も人に分け与えてから飲みました。お釈迦さまは、「この比丘は、過去世で、心が貧しく、草の端についた油の一滴でさえ人に分け与えようとしなかった。しかし私が戒めたところ、心を入れ替えて懸命に布施行に励むようになり、その心が深く染みこんで、現世でもその善い性質が抜け去らないのだ」とおっしゃって、皆に請われるままに過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は大富豪の家の跡取り息子でした。父が亡くなり家督を継いだ菩薩は、ある時「確かにここには莫大な財産がある。しかし財産は、死後も持ち運べるわけではない。この財産を正しく役立てて善い結果を残せるようにしよう」と考えました。菩薩は、お布施のためのお堂を建て、生涯にわたって大々的に布施に励みました。そして亡くなる時には、代々布施行に励むことを遺言にし、死後天界に転生して帝釈天となりました。菩薩の子孫は代々その遺言を守って善行を積み、死後はそれぞれ天界の神々として転生しました。菩薩の息子はチャンダ(月の神)、その次の息子はスリヤ(日の神)、次の息子はマータリ(帝釈天の戦車の御者)、次の息子はパンチャシカ(ガンダッバ神)となったのです。

しかし次の六代目、ビラーリコーシャという名の長者は不信心で、「布施堂なんか壊してしまえ」と命じて貧しい人々を追い払い、草の先についた油の一滴さえも人に与えようとはしませんでした。帝釈天である菩薩は彼の悪行を憂い、神々となっている四人の息子たちを連れて天界から地上に降り、バラモンの行者に姿を変えてかつての自分の家の近くに行きました。

長者は、その日の仕事を終えて、門の近くを歩いていました。菩薩は息子たちに「私が先に行って長者と話そう。後から時間をずらして一人ずつ中に入りなさい」と言って門の中に入り、その家の主人に食を乞いました。長者は「バラモンよ、他へ行ってください」と断りました。「大長者よ、行者が食を乞うときは拒むものではありません」「私の家には料理した食事どころか、その材料さえもないのだ」「長者よ、あなたのために詩句を唱えましょう」「いえ、あなたの詩句など聞きたくはない。ここに立ち止まらず、立ち去ってくれ」。菩薩は聞こえないふりをして、詩句を唱えました。

炊事(すいじ)せぬ賢者でも 施しをする
炊事する汝は なぜ施しを拒む
施しはけちんぼと 愚者が拒むもの
福徳を望む者の 為すべきは施しなり

それを聞いた長者は渋々、「では中に入って座ってください。少しは何かあるでしょう」と言いました。次にチャンダが門の中に入り、主人に食を乞いました。「バラモンよ、あなたのための食べ物はない。他へ行ってください」「大長者よ、家の中にバラモンが入っているでしょう。行者への供養があるはずだ」「いいえ、バラモンへの供養などあるものか。よそへ行ってくれ」。チャンダは彼の追い出そうとする言葉は聞こえないふりをして、詩句を唱えました。

飢渇(きかつ)怖るる けちんぼが 施し拒む
されどそ(飢渇)が 今世来世も 彼を見舞う
ゆえに慳貪(けんどん)断ち切って 施しに挑め
福徳のみが 死後の支えなり

長者は渋々、「では中に入って座ってください。少しは何かあるでしょう」と言いました。次にスリヤが門の中に入り、同じように主人に食を乞い、追い出そうとする長者の言葉は聞こえないふりをして詩句を唱えました。

なし難き施しをする なし難き行為をなす
そは善人の教えにまつろわぬ 悪人どもの拒む道
ゆえに善人と悪人の 道は分かるる
悪人は地獄へ 善人は天界へと

長者は渋々、「では中に入ってください。少しは何かあるでしょう」と言いました。次にマータリが門の中に入り、同じように主人に食を乞い、追い出そうとする長者の言葉は聞こえないふりをして詩句を唱えました。

貧者にも布施する者あり 与えぬ大富豪もあり
貧者のわずかな施しは 千金に値す

長者は渋々、「では中に入ってください。少しは何かあるでしょう」と言いました。次にパンチャシカが中に入り、同じように主人に食を乞い、追い出そうとする長者の言葉は聞こえないふりをして詩句を唱えました。

如法に生きる 正当な活計(かっけい)で家族を養う わずかなりとも施しする
千の供犠も その人の足下に及ばず

※1註:身口意で悪行為をしないこと。罪を犯さないこと。
※2註:動物を生贄にして行うバラモン教の施しを供犠と言う。この場合は千匹の動物を生贄にする供犠のこと。

これを聞いた長者は疑問に思い、パンチャシカと次のような問答を交わしました。

《ビラーリコーシャ長者》
なぜ最大の高価な供犠が わずかな布施に劣る
なぜ千の供犠を捧げても 清貧(せいひん)の布施の足下にも及ばぬ

《パンチャシカ》
悪を土台に施しする (他の命を)殺し苛め悩ましながら
武器を持ちて 命泣かせる施しが 賢者への施しに勝るはずなし
ゆえに千の供犠を捧げても 清貧の布施の足下にも及ばぬ

長者は渋々、「では中に入ってください。少しは何かあるでしょう」と言いました。

長者は下女を呼び、「五人のバラモンに籾米を少しだけお布施しなさい」と命じました。しかし、バラモンたちは、自分たちは籾米はさわれないのだと言って断りました。長者は「では、精米を少しお布施しなさい」と命じました。しかしバラモンたちは、自分たちは料理をしていない生のものは受け取れないと言って断りました。そこで長者は「では、牛のえさを煮てお布施しなさい」と命じました。下女は牛のえさを皿に盛って食卓に運びました。

バラモンたちが出された牛のえさを丸めて口に入れたところ、のどに詰まって倒れてしまいました。下女は、彼らが死んでしまったと思って驚き、急いで主人に報告しました。長者は、「たいへんなことになった。人々は『立派なバラモンたちに悪人が牛のえさを与えた。おかげで彼らは死んでしまった』と非難するだろう」と青くなり、「バラモンの食卓の皿を、いつも私が食べている食事の皿と交換しなさい」と命じました。そして道に出て、「たいへんです。私は五人のバラモンにとても上等な食事をお布施したのだが、彼らは欲張ってほおばり、のどに詰まらせて死んでしまった」と大声をあげました。

その声を聞いて多くの人々が集まって来ました。すると、倒れていた菩薩が起きあがり、「この長者は我々に牛のえさを与えました。それを食べた我々がのどに詰まらせて倒れている間に、皿を交換したのです」と言って、のどに詰まらせていた牛のえさを吐き出しました。人々は「目の見えない愚か者め、おまえはこの家の善い習慣を破り、布施堂を壊し、乞食を追い散らした。そして立派なバラモン方に、牛のえさを与えた。おまえはあの世にまで財産を首にぶら下げていくつもりなんだろう」と長者を非難しました。

菩薩は「あなた方は彼の莫大な財産は本当は誰のものかご存じか」と人々に訊きました。「いいえ、知りません」「昔、ここにはバーラーナシーの大豪商といわれた長者が住み、布施堂を作り、大々的にお布施をしたことを聞いたことはないですか」「それは聞いたことがあります」「その長者は私なのだ。私は、その布施の功徳により天界に生まれて帝釈天となった。ここにいる四人は私の子孫で、皆、家訓を守ってお布施などの善行に励み、死後は天界で神となっている。このように、善行は生前だけでなく、死後もすばらしい福をもたらすのです」と言って、その言葉を裏付けるために帝釈天の姿となり、他の神々を従えて空中に昇り、光輝いて空に立ちました。街中がその光に照らされて、明るく光りました。菩薩は空中で立ったまま、「我々は、わが家の子孫である悪息子、ビラーリコーシャを教え諭すために、天から地上に降りてきた。このバカ者は家訓をないがしろにし、布施堂を壊し、乞食を追い払った。このままでは彼は地獄に堕ちるにちがいない。我々はそれを不憫に思い、悪息子を憐れんで、やってきたのです」と言って、布施の徳について法を説きました。

ビラーリコーシャは深く反省して合掌し、「神様、私は心を入れ替えます。今日からは、口をゆすぐ水でさえ、まず人に与えてからでないと口にすることはありません」と誓いの言葉を述べました。菩薩は彼を教え戒めた後、四人の天神と共に天界に戻りました。ビラーリコーシャはその後、心が全く変わり、布施などの善行に励んで死後は天界に生まれました。

お釈迦さまは「その時の長者は今も布施に励む比丘であり、チャンダはサーリプッタ、スリヤはモッガラーナ、マータリはマハーカッサパ、パンチャシカはアーナンダ、帝釈天は私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

人に物をあげると自分の財産は減るのではないかと思うのは世間の思考です。自分が汗を流して得た収入で、自分と家族だけが楽に生活できればよいと思っているのです。自分の収入が減ることを怖がっているのです。余った財産を他人にあげたら、もし万が一のことがあった時に自分と家族がどう食べていけばよいのかと心配するのです。この物語で言っているのは、その心配が必ず他人に施しをしない人に降りかかるのだ、という教訓です。

なぜこの世で掏り(スリ)、ひったくり、強盗などがあるのでしょうか。なぜ他人の財産を盗む時は罪悪感を覚えないのでしょうか。人々は長きにわたって収入を得て蓄える。それが正しい生き方だと思って生きている。しかし、他人と分かち合う行為をしないと、他人にはその人に対しても、その人の財産に対しても、何の心配も、何の愛情も、何の共感も持てないのです。ですから盗人は、何の躊躇もなく他人の財産を奪う気になるのです。つまり、分かち合う気持ちなく蓄えることだけする人は、自分がもっとも恐れている「財産がなくなる」という危機を自分自身で作っているのです。

収入とは、他人から得るものです。他人が自分に財産を与える気にさせなくてはいけないのです。まじめに仕事をするということは、その行為です。まじめに仕事をした人に給料を与えないでいることは、常識ある人間なら不可能です。しかし人生はそれで終わらないのです。生きている間、収入は継続して必要なのです。継続して得る能力を試さなくてはならないのです。ですから、与える行為は生きるものには欠かせないのです。無知で無視するものではないのです。与える経験がたまった心は、死後も幸福をつかさどるのです。

このエピソードで問題を起こしたけちんぼの人は、おそらくバラモン教の信徒でしょう。バラモン教では、施しを、一般的には説かないのです。その代わり、皆が神にお供えをするべきだと説くのです。神に対するお供えがバラモン教の施しです。バラモン人は施しを受ける側です。彼らが施しをうたうと、自分たちも施しをしなくてはいけなくなる。ですからバラモン人は派手に供犠の素晴らしさについて語ったのです。ヴェーダ聖典の量よりは、供犠のありがたみを語っているブラーフマナ文献は、膨大な量なのです。

もしこのエピソードのキャラクターがバラモン教の信者さんであったならば、先祖代々行ってきた布施の行為は自分の信仰に反することになるのです。ですから彼が、異端の習慣をやめるために、施しを行う布施堂まで壊したのです。本人がけちんぼだったかどうかはストーリーからは読み取れない。それで、「バラモン人の供犠のなかで最大にお金がかかる千の供犠も、修行する人に差し上げる一食の足下にも及ばない」と言われたところで、たちまち興味が湧いてきたのです。それで真理を理解して、布施は福徳を目指す人間にとっては欠かせないものだと納得したのです。この人は、やることは徹底してやるのです。布施はよくないと信じていた時は、布施を一切やめることをまじめに実行したのです。布施こそが正しいと理解したところからは、他人に一部分けてあげるまでは何一つ自分で頂かない、という行為まで極めたのです。善行為は中途半端な気持ちでやってはならない、極めなさい、というのが仏教の教えた教訓なのです。