No.117(2009年9月号)
ナーラダと父の物語
Cullanārada jātaka(No.477)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。
舎衛城に、一六歳になる、年ごろの娘がいました。彼女はとても美しく、家柄も良かったのです。娘の母親は、「私の娘は年ごろなのに、良い結婚話がない。なんとか出家した若い仏弟子を還俗させて娘と結婚させることはできないかしら」と思い、朝早くさまざまなおいしい食事をつくって門の外に立っていました。
その頃、祇園精舎にお釈迦さまの教えを聞いて出家した良家の息子がいました。彼は、出家したにもかかわらず、仏法を勉強する気持ちはあまりなく、おしゃれ好きで、眉をきれいに描き、髪を伸ばしぎみにして整え、美しく柔らかい衣を形良くまとっていました。その日も彼は、マニ石色に輝く鉢をかかえ、上等な日傘を持って、托鉢に出かけました。若くて美しい比丘を見た娘の母親は、一目で彼を気に入り、丁寧に礼をして鉢を受け取って、「どうぞ私どもの家にお入りください」と家に招き入れ、数々のご馳走でもてなしました。母親はその若い比丘に、毎日来るように勧めました。その日から彼は、毎日のようにその家に立ち寄るようになりました。
ある日、母親はかの比丘に、「この家は居心地が良いですよ。実は、私どもの一人娘は、まだ結婚相手が決まってないのです」と告げました。若い比丘は、「なぜそんなことをおっしゃるのですか?」と言いながら、少し胸がドキドキしました。その時以来、若い娘は、美しく着飾って若い比丘の近くに座りました。若い比丘はだんだん美しい娘に心を奪われ、煩悩のとりことなっていきました。
若い比丘はついに還俗を決め、鉢と衣を返そうと、彼を指導する長老に会いに行きました。心配した長老と友人の比丘たちが、彼をお釈迦さまのところに連れて行きました。お釈迦さまは、「比丘よ、君は、過去に森に住んでいた時も、あの女に修行を妨害されたことがあったのだよ」と言われ、過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はカーシー国の富裕なバラモンの家に生まれました。タッカシラーで必要な勉強を学び終えた菩薩は、結婚して家督を継ぎました。ところが菩薩の妻は、まだ幼い息子を残して若くして死んでしまったのです。菩薩は、「愛しい妻は突然死んでしまった。そのように、いつ私にも死が襲いかかるかわからない。こうしてはいられない。私は出家することにしよう」と決心し、すべての財産を捨て、息子を連れてヒマラヤに入りました。熱心に修行した菩薩は禅定と神通力を得、木の実や草の根を食べながら、息子と共に山の中で満足して修行生活を送っていました。
菩薩たちが出家してから十数年が経ったある日、国の辺境に住む盗賊たちがある村を襲いました。彼らは村人たちを捕らえ、荷物を担がせて、自分たちの住処に戻ることにしました。捕らえられた村人たちの中に、一人の美しい娘がいました。逃げる機会をうかがっていた娘は、トイレに行くふりをして逃げ出しました。彼女は、一人で山の中をさまよい歩くうちに、菩薩と息子が住む庵を見つけました。
ちょうどその時、菩薩は留守でした。彼女は息子を誘惑してそれまで守っていた戒を破らせ、「どうしてこんな山の中に住んでいるの? 村里に下りれば、美しいものやおもしろいものがたくさんあって、いろんな欲を満足させられるのよ」と息子を誘いました。息子は、「父が帰ってきたら訳を話して、一緒に村に行くことにしよう」と言いました。彼女は、「彼の父親は私の思い通りにはならないだろう。それどころか息子を誘惑したことを怒って、私は殴られるかもしれない。早くここを逃げ出そう」と考えて、「では私は先に行くから、必ず後から来てね」と、道しるべを残すことを約束して、庵を発ちました。息子は彼女がいなくなるととても悲しくなり、仕事も以前のように手につかず、寝込んでしまいました。
庵に帰ってきた菩薩は、女性の足跡を見つけ、「この女は息子の梵行を破らせて逃げたにちがいない」と思いながら庵に入り、寝込んでいる息子を見て、詩句で息子と会話を交わしました。
《父》
薪も割らず、水も運ばず、
祭壇の火を守ることも忘れ
呆けた者のごとく
いったい何を思い悩んでいるのか
《息子》
カッサパよ、告げます
山に住む意欲は消えた
山に住まうは苦しいこと
国の生活に未練を感じる
ここを下り、人里に住む
在家のバラモンが学ぶべきものを
教えてくれたまえ
「よくわかった。おまえに、人里に住む場合は気をつけるべきものを教えてあげよう」と言って、菩薩は、
《父》
もしおまえが山を下り
木の実、草の根を捨て去って
人里で楽に住むつもりなら
その正しい方法を聞くがよい
毒に絡まず避けること
険しい崖を避けること
泥沼には沈まないこと
蛇を避けて歩むこと
省略したその話の意味を解らなかった息子は、父に訊ねる。
《息子》
行者が説く、毒とは何ですか
崖とは何ですか、
泥沼とは何ですか、蛇とは何ですか
それを尋ねる私に答えてください
《父》
わが子よ、世に異様な液体がある
「酒」というのだ
香しく、甘美な蜜の味にて
修行を破壊する液体ゆえに
ナーラダよ、聖者はそれに毒という
わが子よ、世に女というものが
放逸の者をさらに陥れる
風が綿毛を運ぶように
若者のこころを奪い去るゆえに
ナーラダよ、行者はそれに崖というのだ
また利得、賞賛、尊敬、人から供養されることあり
ナーラダよ、行者はそれを泥沼というのだ、
わが子よ、軍を率いる王がいる
大いなる威力をもち 人々の間で彼は偉大なり
権力を持つ、支配者たる彼の傍を歩むなかれ
ナーラダよ、行者は王を蛇というのだ
食を求めて托鉢し、どこかの家に近づくとき
善を保てる家ならば、そこで食を求めるがよい
食を求めて家に入っても
適度を越えず食事をし
美麗なものには目を向けず
居酒屋、売春宿
賭博場、そのような悪所を遠ざけよ
これらは悪路という
息子は、父の言葉を聞いているうちに理性を回復し、「お父さん、僕は人里はもうたくさんです」と、元の息子に戻りました。菩薩は息子に慈悲を育てることを教えました。彼は父から教えを受け、間もなく神通力と禅定を得て、死後は二人とも梵天界に行きました。
お釈迦さまは「その時の娘は舎衛城の美しい娘であり、息子は還俗しようとした若い比丘であり、父である行者は私であった」と言われて、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
俗世間の生活は、貪瞋痴の感情に支えられて営むものです。欲があると、商売に身が入るのです。怒りがあると、ライバルを倒すために頑張れるのです。無知があるから、どんな苦労があっても「いつか幸福になるだろう」という蜃気楼に惹かれて、生きられるのです。
出家生活は、貪瞋痴を無くす目的で営むのです。ですから生き方は、在家と反対になるのは当たり前のことです。そこで、修行する人には覚悟が必要なのです。在家生活も楽しいなぁと、少々でも未練があったら、頭の中で葛藤が生まれるのです。修行に身が入らないのです。必ず負けるのです。
我々も、何かよいことをしようと決めた場合は、覚悟・決意が必要であることを忘れてはならないのです。そうしないと、世間の誘惑に負けるのです。優柔不断はとても危険なのです。
在家生活は、表面だけ見ると誰でも楽しいものだと勘違いするのです。この物語の菩薩が、毒を飲むな、崖に落ちるな、泥沼にはまるな、蛇に触るな、と言っているなぞなぞの言葉が、在家生活の本当の姿を示しているのです。在家生活は、火の遊びなのです。
我が子が、年頃になって、自分の人生の道を決めるのです。その時は親の話には耳を貸さないのです。
しかし、経験ある親から見れば、子供が選んだ道の先が見えるのです。ふつうの親なら、子供の選んだ進路に頑として反対するのです。親が言っていることは本当かもしれませんが、子供の耳にはそれが入らないのです。自分が決めた進路をやってみたいのです。
このエピソードの菩薩という父親は、子供に反対していないのです。いままで様々なアドバイスをして育て上げた子供が一人立ちしようとすると、そのためのアドバイスも何のことなくするのです。親が賛成しているから、子供はいままでより真剣にそのアドバイスを聞くのです。この父親は、ものの見事に、自分が選んだ道に起ころうとする危険性を教えてあげたのです。私たちも、我々の子供たちが決める進路に反対するのではなく、「あなたが歩もうとする道には、このような危険性もある。自由になったら決して人生は甘くないのだから、これこれの事に注意しなさい」と言えばよいのです。