No.118(2009年10月号)
ハンサ鳥王物語
Javanahaṃsa jātaka(No.476)
ある時、シャカムニブッダは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)で次のように語られました。
「比丘らよ、四人の弓の達人が背中合わせに四方を向いて立ち、同時に力一杯弓を放つとする。ある男が、「放たれた弓が地面に落ちる前に、四本とも捕らえてみせましょう」と言って、目にもとまらぬ速さで全部の弓を集めたとする。その男こそは、世にも稀な、おそろしく敏捷で迅速な、速さの達人と言えるのではないだろうか?」「世尊、まさにその通りです」「しかし、比丘らよ、太陽と月は、その男より遙かに速いのだ。そして、太陽や月を追い越して天を駆け抜ける神々は、日月よりさらに速い。しかし、さらに速いものがある。命というものは、それらすべてよりもずっと速く、言葉では言い表せないほどの速度で消え去り逝く。ゆえに比丘らよ、このことを肝に銘じなさい、『不放逸であってはならない』と」。そして釈尊は、過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はハンサ鳥として生まれ、九万羽の鳥たちのリーダーとなって、チッタクータ山に住んでいました。ある日、群れを率いた菩薩は、ジャンブディーバ平原の湖に降り立ち、辺りに生えている野生の米を食べ、再び大空に飛び立って、バーラーナシーの都の上空をゆっくりと戯れながら飛翔しました。ブラフマダッタ王は菩薩を見て、「あの鳥は、鳥の王にちがいない」と親しみを感じ、空を飛ぶ菩薩に向かってさまざまな優れた香りのお香を焚かせたり、あらゆる楽器を奏でさせたりしました。それに気づいた菩薩は、「あの王は私に敬意を表そうとしてさまざまなことをしている。いったい私に何を求めているのだろう?」とつぶやきました。近くにいた鳥が「あなたとの友好関係でしょう」と応えると、菩薩は、「では王と親交を結ぶことにしよう」と、王がわかるように親愛の情を示してから都を去りました。
それからしばらく経って、ブラフマダッタ王が御苑で遊んでいると、鳥の群れを率いた菩薩がアノーダッタ湖の水と栴檀の粉を持って御苑に飛来し、水と栴檀の粉を王の身体に振りかけて王を浄めてから、皆の見守る中を飛び去って行きました。そのことがあって以来、王は鳥の王に会いたくてたまらず、毎日のように「今日はわが友は来るであろうか?」と、菩薩の住む山の方向を眺めていました。
ある時、菩薩の群れの二羽の元気な若鳥が「太陽と駆け比べをしよう」と計画し、菩薩に許可を求めました。菩薩は「若者よ、太陽は怖ろしく速いのだ。大変な目に遭うから、やめなさい」と、彼らをとめました。しかし若鳥たちはあきらめず、再度菩薩にお願いしました。菩薩は三度まで彼らの願いを断りました。若鳥たちは菩薩に無断で決行することを決め、ある朝早く、陽がまだ昇らないうちに旅立ち、ユガンダラ山の頂上に降り立ちました。それに気づいた菩薩は、「あの子たちは途中で力尽きて倒れるだろう」と心配し、自分もユガンダラ山の頂上に行きました。
朝陽の光が見えるやいなや、若鳥たちと菩薩は飛び立ち、太陽と共に駆け出しました。一羽の鳥は、まだ朝の間に、翼の付け根が燃えるようになって力尽き、「僕はもうダメです」と悲鳴をあげました。菩薩は「安心しなさい」と若鳥を抱きかかえてチッタクータ山に連れ帰り、再びもとのところに戻りました。もう一羽の若鳥も、お昼近くになると翼の付け根が燃えるように熱くなり、「僕はもうダメです」と悲鳴をあげました。菩薩は「安心しなさい」と、再び自分の翼を籠のようにして若鳥をチッタクータ山に連れ帰りました。ちょうどその時、太陽は大空の真ん中に来ました。菩薩は、自分の力を試してみようと、素速く元に戻り、太陽に追いつきました。太陽と先になったり後になったりしながらしばらく飛び続けた菩薩は、「こんなことをして、いったい何になるのか?まったく意味のないことだ。こんなことで時間を潰すより、友人のブラフマダッタ王に、役に立つ、法に適った話をしよう」と思い、引き返しました。
菩薩は、太陽が中空を過ぎる前にチャッカヴァーラ山脈の端から端まで飛んでから速度を落とし、ジャンブディーバをも端から端まで飛んで、バーラーナシーに着きました。菩薩が王の部屋の窓に降り立つと、王は「余の友人が現れた」と大変喜んで、黄金の座に座らせ、百金にも千金にも値する香油を菩薩の翼に塗らせ、黄金の皿でごちそうを振る舞って、親しく歓待しました。
王が菩薩に、「友よ、今日はひとりのようだが、どうされたのですか?」と訊いたので、菩薩はその日にあった出来事を王に話しました。王は、「太陽と共に駆けるという、その速さを余にも見せてもらいたい」と菩薩に頼みました。「王様、それは速すぎて、とてもご覧にいれることはできません」「ではそれほど速くなくてもいいから、鳥王の飛翔を見せてほしい」「わかりました。それでは弓の名手たちを集めてください」。
弓の名手が集められると、菩薩はその中から特に優れた四人の名人を選び、王宮から外に出ました。そして自分の首に小さな鈴を結び、広場に一本の石柱を立てさせて、その上に立ちました。菩薩は、弓の名人たちを、石柱を背に四方を向けて立たせ、「王様、この四人に、同時に矢を力一杯放つように命じてください。私はそれらの矢が地面に着かないうちに四本とも捕らえ、彼らの足元に落としてみせましょう。私の姿は速すぎて見えないでしょうから、鈴の音で動きを察してください」と言って、人々が見ている前で、四人の弓の名人が放った矢を、目にも留まらぬ速さで捕らえ、彼らの足元に落とし終えてから、再び柱の上にとまりました。
菩薩は、「王様、これは私の最上の速さではなく、中くらいでさえもありません。これは最も速度が遅い方です」と言いました。感嘆した王は、「あなたの最上の速さよりもさらに速いものが、この世にあるのだろうか」と言いました。菩薩は、「あります。王様、有情の命は、私の最上の速さよりも、百倍も千倍も、万倍も、十万倍も速く過ぎ去っていきます。命は、それほど速くなくなっていくのです。それほど速く壊れていくのです」と、一瞬のうちに形あるものが壊れいくさまを説き示しました。
王はその話を聞いて死の恐怖に打たれ、意識を失ってその場で倒れてしまいました。人々は驚いて、王の顔に水をかけ、意識を回復させました。菩薩は、「王様、怖れてはなりません。死を知り、法に適った行いをし、布施などの福徳を積むのです。怠る時間はありません」と説きました。王は、「友よ、あなたのように智慧ある師をもたずに生きていくことはできない。なにとぞこちらに住んで、師として、法を説いてください」と、詩句で菩薩と会話を交わしました。
《王》
声を聞いて愛しさを覚え、
姿見て愛しさの消えることもあり、
姿見てなお愛しさの増すこともある
汝、われを見て愛しさを覚えざるか
鳥よ、われは、汝の声を聞くも愛し
姿見てさらに愛しさを覚える
かくも愛しき汝は、わがもとに暮らせよ
《鳥王》
あなたが、変わらずに私を重んじつづけるならば
あなたのもとにとどまろう
しかし、あなたはいつの日か、
酒に酔って言うだろう
「この鳥を調理せよ」と
《王》
汝に勝るものは世にない
汝に比べれば、酒など、ただいとわしいのみ
汝がわがもとにいる限り
われは、酔わすものを、決して摂ることはせぬ
《鳥王》
ジャッカル、ハゲタカの叫びは理解できても
王よ、人の言葉は、わかり難い
先に、「血縁の友」「わが友」と言えども
後には敵となり、終わる
こころ通じた者は、遠く住んでも、
真に離れることはない
近くにいても、こころに隔たりがあれば、
真に離れている
こころが清ければ、大海の彼方にあっても清い
こころが汚れてあれば、
大海の彼方にあっても汚れている
王よ、敵は、共に住んでも、こころは遠い
国を富ます者よ、遠く離れていても、
友はこころの近くにいる
長く共に住めば、愛しき者も、
愛しからざる者となる
されば私は別れを告げ、ここを発とう
あなたの愛しからざる者とならぬように
《王》
われ請い願い、嘆願するも、汝聞き入れず
たとえわが言葉に耳を傾けることがなくても、
われ、さらに請わん
いつかまたここに飛来することあれと
《鳥王》
大王よ、あなたも、私も、われらの命の
遮られることなければ
いく昼夜か過ぎたのち、互いに相見るだろう
このように詩句を交わした後、菩薩はチッタクータ山に飛び去りました。
お釈迦さまは「その時の王はアーナンダであり、二羽の若鳥はサーリプッタとモッガラーナであり、ハンサ鳥の群れは仏弟子たちであり、ハンサ鳥王は私であった」と言われて、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
仏教は、科学が発展していなかった時代に語られたものです。しかし、仏教には、当時の人々が信じていた世界観はないのです。仏教の世界観は、現代科学に発見された世界像に似ているのです。天文学に、光速という言葉があります。光速は現代人に考えられる最高の速度です。その速度が、四つの弓師の例えで、当時の人々に理解できる範囲で語られています。ある経典では、これぐらいの速さで宇宙を調べても、宇宙の果てに届かず、そこそこのところで寿命が終わるのだと説かれています。それも一万年ぐらいの寿命の場合だ、と。現代の光速で考えれば簡単に理解できる話です。
この物語で、宇宙の探検などは何の役にも立ちません、と諭しているのです。人の命は光速よりも速く縮むものだと理解しなくてはいけないのです。生きているということは、こころが回転していることです。こころは光速より速く回転するので、「瞬間瞬間、生滅変化するものだ」と言うのです。ですから、我々は気づかないだけで、命は恐ろしい速さで縮んでゆくのです。今のうちに、こころを清らかにするしかないのです。
この物語の偈の意味は、物語と違います。人間の気持ちはすぐ変わること、信頼できないことを言っているのです。これも大事なポイントです。
我々は人間を信頼したいのです。しかし、犬猫には裏切られませんが、人間には裏切られます。それは人間の特質です。その上、信頼についてよく語るのです。他人に変わらない信頼を要求するのです。あり得ないことです。我々は、その都度その都度、何かの目的に合わせて一時的な信頼しか持たない生き物なのです。他人に信頼を要求するが、自分自身も信頼できる生き物ではないのです。一時的な信頼だけで成り立っている人間の生き方は、悲しいものです。