No.120(2009年12月号)
白象物語
Dummedha jātaka(No.122)
これは、シャカムニブッダがマガダ国の竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)におられた時に語られたお話です。
竹林精舎の法話堂で、比丘たちが、「友よ、デーヴァダッタは、満月のように輝く世尊のお顔を拝しても、心を清められて信を起こすことはない。世尊が、仏陀と天輪王の相として昔から言い伝えられている八十の特徴と三十二の相のすべてを満たしておられ、光に包まれたお姿であることを見ても、清らかな信の心を起こすことがない。それどころか世尊に嫉妬し、『諸々の仏はこのような、戒、定、慧、解脱の智慧を備えておられるのだ』と人々が世尊を賞賛するのを聞くと、腹立たしく思うのだ」と話していました。
そこにお釈迦さまが来られ、皆の話題についておたずねになったので、話の内容をお話しすると、「比丘らよ、デーヴァダッタが、私が賞賛されるのを聞いて嫉妬の炎を燃やすのは今だけではない。過去でも同じことがあった」とおっしゃって、皆に請われるままに過去の話を語られました。
昔々、マガダ国の都が王舎城であったころ、菩薩は真っ白な美しい象としてマガダ国で生まれました。成長して、すばらしく立派な美しい象になった菩薩を見たマガダ王は、「この象は偉大な相に満たされており、余の象にふさわしい」と、菩薩を王象にしました。
あるお祭りの日のことです。王は、天の都のように飾りたてられた都を、見事な装飾を施された王象にまたがって、ゆっくりと街中を練り歩いていました。街中にあふれた人々は、豪勢な行列の中でもひときわ目立つ菩薩の真っ白で偉大な姿を見て感動し、「ああ、なんと美しく立派な象だろう、なんと優美な身のこなしだろう、なんと堂々として立派な歩き方だろう、これほどすぐれた相を満たした象は天輪王にこそふさわしい」など、口々に菩薩をほめて、感嘆の声をあげました。
王は、象ばかりがほめられることにがまんができず、皆に賛嘆される象が憎くてたまらなくなりました。嫉妬に駆られた王は、「王である私をないがしろにして、象ばかりがほめそやされるとは、なんと無礼なことであろうか。今日、こいつを崖からつき落として殺してやろう」と心に決めました。
王は、象の調教師を呼びました。
「この象はよく仕込まれているか」
「はい、王様。とてもよく仕込まれています」
「そうであろうか。それほどでもないであろう」
「いいえ、王様。この象は、本当によく仕込まれています」
「もし本当によく仕込まれているのであれば、ヴェープッラ山の崖を登らせることはできるか」
「はい。できます。王様」
「それでは、この象にあの崖を登らせよ」
王は象から降り、調教師が象に乗って菩薩をヴェープッラ山の険しい崖を登らせ、崖の上に立ちました。王も家臣たちに担がせて山を登り、崖の上に立ちました。王は、調教師に命じて象を崖に向かって立たせ、次のように命じました。
「汝は、この象を立派に仕込んだと言った。もしそれが本当であるならば、象を崖淵で三本足で立たせてみよ」
象の調教師は、象の背中に乗ったまま、「友よ、三本足で立ちなさい」と象に合図を送りました。象は、三本足で立ちました。
次に王は、「では、二本の前足で立たせてみよ」と命じました。
調教師は象から降りて、「友よ、二本の前足で立ちなさい」と象に合図を送りました。象は二本の前足で立ちました。
次に王は、「では、二本の後ろ足で立たせてみよ」と命じました。
調教師が、「友よ、二本の後ろ足で立ちなさい」と象に合図を送ると、象は二本の後ろ足で立ちました。
次に王は、「では、一本の足で立たせてみよ」とさらに無理なことを言いました。
象の力を知っている調教師は慌てることなく、「友よ、一本の足で立ちなさい」と象に合図を送りました。象は三本の足を高く蹴り上げて、一本足で立ちました。
どうしても象を崖から落とすことができないことを知った王はイライラして、「では、できるなら、空中に立たせてみよ」と命じました。
それを聞いた調教師は驚きました。「これほどの技ができる象は、どこを探してもいないはずだ。そのことはもう十分に証明できたことだろう。それなのに王は、とどまることなく無理難題を言い続ける。きっとこの王は、象が崖から落ちて死んでしまうことを望んでいるのだろう。このままでは何をしても、いずれは象が殺されるに違いない」と状況を理解した調教師は、象に乗って耳元でささやきました。
「友よ、王様は、おまえが崖から落ちて死ぬことを望んでいるようだ。この王は、おまえの主(あるじ)としてふさわしい王ではない。もしおまえに空を飛ぶ力があるならば、空中に昇り、そのまま空を飛んでバーラーナシーに行け」
福徳にあふれ、神通力を備えた象は、直ちに空中に昇りました。調教師は、「王様、このような福徳にあふれた神通力のある象は、不徳で愚かな王にはふさわしくありません。福徳にあふれた賢い王こそ、福徳にあふれた象の主としてふさわしいのです。
不徳な愚か者がこのような象を得ても、その値打ちがわからず、象の名声も引き下げて、自分の名声と同じように、名声を地に落とし、台無しにしてしまうのです。私たちは、ふさわしい主の元にまいります」と、次の詩句を唱えました。
愚か者が名声を得たならば
自己破壊の道を歩む
自分と他人との
傷害のみを遂行する
このように詩句を唱えた調教師は象に合図を送り、白象は調教師を乗せたままバーラーナシーへと飛びました。
バーラーナシーに飛んだ白象は、王城の庭園の上空で止まり、そのまま空中で立っていました。人々は驚いて、「たいへんだ!虚空から龍象が現れた。我々の王城の上に真っ白な象が浮かんでいるぞ」と騒ぎ出し、城のところに集まって来ました。
バーラーナシーの王も多くの家臣と共に城から出て上を見上げ、「汝が余を喜ばせるために来たのであれば、こちらに降りよ」と声をかけました。
白象は、ゆっくりと地上に降りました。調教師は象から降り、王に丁寧に敬礼しました。どこから来たのかと王に尋ねられた調教師は、マガダ国の王舎城から来たことを告げ、突然空から現れた事情を詳しく話しました。
それを聞いたバーラーナシーの王はたいへん喜んで、「それはよく来られた。ようこそ我が国へ。こころから歓迎しますぞ」と言うと、すぐに立派な象舎を用意させ、白象をそちらで休ませました。
その後、バーラーナシーの王は国を三等分し、そのうちの一つを菩薩である白象に捧げ、後の一つを調教師に贈り、残りを自分が統治することにしました。
菩薩が来てからインド中の領地は次々にバーラーナシーのものとなり、王は広大な国を治めることになりました。王は布施などの福徳を積み、その生涯を終えました。死後は、それぞれの業に従って、自分にふさわしいところに生まれ変わっていきました。
お釈迦さまは、「そのときの、白象を殺そうとしたマガダ王はデーヴァダッタであった。バーラーナシーの王はサーリプッタであり、象の調教師はアーナンダであった。白い王象は私であった」とおっしゃって、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
今月の教訓
象が空を飛ぶ話は、現代人にとっては信憑性に欠けた物語になるでしょう。昔の人々にとっては、どんなものにも超能力を付けくわえて考えることは珍しいことではなかったのです。しかしジャータカ物語は、人間に必要な正しい生き方を示すものなのです。正しい生き方は、普遍的であって、昔の人間だけに通じるものではないのです。ですから、元のストーリーを変えられないので、現代的にアレンジしてみましょう。
マガダ国王は、象に無理なことを頼む。しかし、優れた象は自分の能力を示す。当たり前のことですが、普通なら王は大いに喜んで象を自慢するはずです。調教師に莫大な恩賞を与えるはずなのです。しかし、王は全然喜ばないのです。不機嫌な顔をしているのです。そこで調教師は考えました。この王は世にひとりしかないこの象王の価値が分からない。殺すつもりでいる。そのうち、家来に命じて象王の暗殺をくわだてるでしょう。このように思った調教師は、象王を沐浴させるために外へ連れて行って、そのまま宮殿に戻ることなく遠く離れたバーラーナシー国まで行ったのです。突然、自分の国に現れた世に珍しい白象を見た国民が驚きました……。この物語をこのように書き換えた方が、説得力のある話になるでしょう。
この物語の教訓は、そのまま偈に記してあります。能力、権力、富などが人に備わることは、良いことだと一概には言えないのです。怒り、嫉妬、憎しみ、恨みなどの病気で、心が病んでいる人は、その苦しみを他人に当てつけるのです。精神的に病気になった人は、どんな問題も他人のせいにするのです。現代世界でも、無差別殺人などはこの精神的な病の結果なのです。
もしそのような人に財産があれば、その財産で他人に害を与えることをたくらむのです。知識能力があるならば、銀行強盗でも、大量破壊兵器を作ることでも考えるのです。権力があったら、皆の不幸のために使用するのです。富豪になることを目指す前に、誰にでも必要な第一の条件は、よい性格であることです。性格がよければ、富でも知識でも権力でも、何でも問題にはならないのです。よい性格の人は、その能力を自分と他人の幸福のために使うのです。