No.122(2010年2月号)
肉屋物語
Maṃsa jātaka(No.315)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の都(舎衛城)の近郊にある祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。
ある時、祇園精舎で、何人かの比丘が体の調子を崩して整腸剤を飲んで寝ていました。看病の比丘たちが、病人に甘味のお粥を食べさせるため、午前中の早いうちから病人食を求めて舎衛城の菓子屋街に托鉢に出ました。ところが、どこに行っても、思うようなお布施を得ることができません。比丘たちは、仕方なくあきらめて、空の鉢を抱えて精舎に戻ることにしました。
ちょうどその頃、サーリプッタ長老が、昼近くになったため舎衛城に向かって歩いてきました。祇園精舎に戻ろうとする比丘たちに出会ったサーリプッタ長老は、「法友たちよ、どうしてそんなに早く帰ろうとしているのですか?」と声をかけました。
比丘たちが「我々は病人に食べさせる食事を求めて托鉢に出ましたが、病人食を得ることはできませんでした」と告げると、サーリプッタ長老は「では一緒に来なさい」と同じ菓子屋街に彼らを連れて入りました。サーリプッタ長老と共に托鉢すると、先ほどあれほど苦労しても得られなかった病人食を、簡単に、たくさんもらうことができました。比丘たちは、鉢に満たされた食事を持って急いで祇園精舎に帰り、無事、病人たちに食事をさせることができました。
ある時、法話堂で、比丘たちが、その出来事について話を始めました。
「友よ、法友たちが病人に食べさせる食事をいくら探しても得ることができずにあきらめて戻ろうとしていたところ、サーリプッタ長老が彼らを連れて街に戻り、望みのものを十分に手に入れてあげたのだそうだ。」
そこにお釈迦さまが来られ、彼らの話題をお訊きになって、「比丘らよ、巧みに食を得たのはサーリプッタだけではない。過去において、柔和に愛語を語る賢人も、巧みに食を得たことがあった」とおっしゃって、皆に請われるままに過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は街の長者の息子でした。
ある時、一人の猟師が肉をたくさん荷車に積んでバーラーナシーの都にやってきて、街はずれの四つ辻で商売を始めました。
ちょうどその頃、バーラーナシーの四人の長者の息子たちもその四つ辻にたむろし、辺りで目につく様々なことについて、あれこれしゃべっていました。
長者の息子の一人が猟師の荷車を見て、「俺は、あの猟師のところに行って、肉を一切れもらって来てやろう」と言って猟師に近づくと、「おい、猟師、肉を一切れおくれ」と言いました。
猟師は、「人に何かをねだる時は愛想良く言わなきゃならないよ。あんたの言葉にふさわしい肉をやることにしよう」と言って、次の詩句を唱えました。
君は粗悪語で肉を求める
その言葉は、ハラワタのように感じる
言葉に相応しい、ハラワタをあげよう
はらわたの肉を持って戻った友人に、一人の息子が「君は何と言ってそれをもらったのか?」と訊きました。
「おい、猟師、肉を一切れおくれ、と言ったのさ」と聞くと、その息子は、「では今度は僕がもらいに行こう」と言って猟師に近づきました。
彼が、「お兄さん、僕に肉を一切れ下さいよ」と言うと、猟師は、「では、あんたの言葉にふさわしい肉をあげよう」と言って、次の詩句を唱えました。
兄弟は人の手足なりと
世に言われる
君の言葉は手足のようなので
君に足のもも肉をあげよう
足のもも肉を持って戻った友人に、他の息子が「君は何と言って肉をもらったんだい?」と訊きました。
「お兄さん、僕に肉を一切れ下さいよ、と言ったんだ」と聞くと、その息子は、「では、今度は僕が行こう」と言って猟師のところに行きました。
彼が、「お父さん、僕に肉を一切れ下さい」と言うと、猟師は、「では、あんたの言葉にふさわしい肉をあげよう」と言って、次の詩句を唱えました。
子が「父よ」と呼ぶ言葉は
父の心を揺り動かす
君の言葉は心臓のようなので
君に心臓の肉をあげよう
猟師はそのように言いながら、心臓の肉と共においしい肉もつけてあげました。
心臓の肉とおいしい肉を持って来た友人に、菩薩が「君は何と言ったの?」と訊きました。
「お父さん、僕に肉を一切れ下さい、と言ったんだ」と聞くと、菩薩は、「では、僕も行くことにしよう」と言って猟師のところに行きました。
菩薩が、「朋友よ、僕に肉を一切れ下さい」と言うと、猟師は、「では、あんたの言葉にふさわしい肉をあげよう」と言って、次の詩句を唱えました。
村に朋友なき私は
森の中に独りいると同じ
朋友がいることはすべてに値する
君にすべての肉をあげよう
猟師はそのように言って、「さあ君、この肉を荷車ごと君の家に運ぼう」と言いました。
菩薩は、彼を自分の家に連れて行き、猟師に敬意を払って丁寧に遇し、彼の妻子も呼び寄せて、自分の敷地内に住まわせました。その後、菩薩と猟師は仲の良い友人同士となって、親しく共に暮らしました。
お釈迦さまは、「その時の猟師はサーリプッタであり、全部の肉をもらった長者の息子は私だった」と言われて、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
人間の社会では、言葉の役割が計り知れないほど巨大です。言葉を使わず表現できるものは、ごく限られています。「今日、電車はガラガラでした」これを言葉を使わず誰かに伝え、そのとおり理解してもらおうとしても無理だと思います(手話も言語なので、この場合は禁止です)。人間にとって、生のすべてが言葉にかかっていると言っても過言ではないのです。言葉とは、文明社会の命です。言葉は人に最大の影響を与えるものです。言葉に対する戒めを欠くことは、致命的なのです。人が使う言葉は、その人の人格を表しています。我々の心は、人の言葉に必ず反応する。同様に私たちが他人に対して使う言葉によって、その人の心が動くのです。
このジャータカ物語は、言葉づかいがどのような結果になるのかと示しています。四人が相手を呼んだ四つの言葉の違いによって、結果が四種類になったのです。日本語を見ても、「肉をいただけませんか」「肉をください」「肉をくれ」は決して同じ意味ではありません。
人間関係も面白いものです。人を「おい、猟師」と呼ぶ場合は、相手を見下しているのです。見下した結果を得られます。兄弟は手足のようなものです。別に気にしなくても付いているものです。たとえ迷惑をかけられても、兄弟からはそう簡単に逃げられません。父さんと呼ばれたら、気をつけましょう。相手の頼みを断れないのです。損をしても、嫌な気にならないのです。
この物語の主題は「友」です。仏教では、友人の価値は最大であると語られているのです。親子関係よりも友人関係が大事なのです。「善友に出会うことができれば、仏道も完成して解脱に達することができるのだ」と、お釈迦さまが説かれるのです。この物語では、友人なく独りぼっちで村に住む人にとって、その人生は険しい森の中で独りで生活することと同じだと言っています。もしその人にその村で友人ができたならば、堂々と一人前の村人として生活できるのです。善友に出会うと仏道を完成できると説かれたブッダの言葉に合わせて、この物語でも、友人は(肉の)すべてをもらうのです。