ジャータカ物語

No.127(2010年12月号)

金色の山ネールの物語

Neru jātaka(No.379) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。

ある比丘が、お釈迦さまのもとで冥想を習得し、雨安居を過ごすために地方の村に赴きました。かの比丘の立ち居振る舞いに感銘を受けた村人たちは、雨安居の間 比丘のお世話をすることを決めて、村の森に庵を結んで比丘に住んでもらうことにしました。村人たちは、比丘に大いなる尊敬の念をもちつつ、供養していました。

ところが、ある時、その村に、真我論を説く常住論者たちがやって来ました。村人たちは、常住論者の論説に感心して彼らを敬うようになり、それまで尊敬して供養していた比丘のことをないがしろにするようになりました。

しばらくたつと、今度はその村に、「真我や魂などはない。人は死と共に消滅する」と説く断滅論者たちがやって来ました。すると村人たちは、こちらの方がすばらしいではないかと断滅論者たちをもてはやすようになり、常住論者たちのことは顧みなくなってしまいました。

次に、裸で行ずる行者たちが村に来たところ、村人たちは裸形行者たちに感服し、裸の行者ばかりを敬い暮らすようになったのです。

比丘は、この善と不善のわからない村人たちの中で、とても居心地の悪い思いをしながら雨安居を過ごしました。そして、雨安居が終わってから、また祇園精舎に戻りました。

お釈迦さまにご挨拶に行った比丘は、釈尊と次のような会話を交わしました。
「比丘よ、君はどこで雨安居を過ごしたのか?」
「世尊、辺境の村におりました」
「君はそちらで、心地よく過ごせたのだろうか?」
「世尊、善と不善がわからない人々のもとで、ひどく居心地悪く過ごしておりました」

お釈迦さまは、「比丘よ、昔の賢者は、畜生界に生まれたときでさえ、そのような、善と不善をわきまえない者たちと共に過ごすことは、一日たりともなかったのだ。君は、どうして、善と不善のわからないような連中のところにとどまったのか?」とおっしゃって、比丘に請われるままに過去の話をされました。

 

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は美しい金色の雁(かり)として生まれました。菩薩には一羽の弟がいました。菩薩と弟はチッタクータ山に住み、ヒマラヤに自生している稲を食べて暮らしていました。

ある時、ヒマラヤで稲を食べた菩薩と弟が、いつもと違うルートを通ってチッタクータ山に帰ろうとしたところ、黄金に輝く美しい山を発見しました。その山はネール山といいました。菩薩と弟は、ネール山に行ってみることにしました。ところが、ネール山では、どのような鳥も、動物も、山の黄金色に照らされて、金色に輝いてしまうのです。

菩薩の弟は、その道理がわからず、「これはいったいどうしたことだろう?」と兄に言いながら次の偈を唱えました。

大きなカラスたちも、小さなカラスたちも、
美しい金色の我々も
ひとたびこの山に入れば
皆、等しくひとつの色となる

ライオンやトラなど獣の王も、ジャッカルなどの卑しい獣も
獣たちは、皆、こちらでは
すべて等しく金色に輝く
これはいったいどういう山か

菩薩は、次のように答えました。

この山はネールという山
山々の中の最たる山とされる
ひとたびここに入るなら
鳥も獣もすべからく、皆、等しく金色に輝く

それを聞いた弟は、次の偈を唱えました。

尊きものが敬われることなく
不当に扱われるような場所
そのようなところには留まらず
速やかに去り、離れよう

賢者と愚者、勇者と惰夫
両者が等しく敬愛される
正しい区別なき山に
賢者は留まることはない

このネール山では
貴きもの、卑しきもの、中庸のものを区別せぬ
無差別の山ネールよ
われらは、速やかにここを捨て去ろう

そのように唱えた後、菩薩と弟は、その山を離れ、チッタクータ山に帰っていきました。

お釈迦さまは過去の話を終えられて後、辺境の地で雨安居を過ごした比丘に、四つの聖なる真理について法を説かれました。その法話を聞いた比丘は、預流果の悟りを得ました。

お釈迦さまは、「弟のガチョウはアーナンダであり、兄は私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

自分の意見というものは何も持てない人がいます。意見を持つほどの判断能力のない人、いろんな人の意見を学ぶが自分では結論は出せない人、「相手に逆らっては悪い、相手の機嫌を取ったほうが良い、とりあえず賛成したほうが安全」という気持ちの人、これらは意見を持てない人々です。ブッダの教えを理解して真理を経験する人は、人間が思考から達する意見は真理にならないこと、そもそも意見とは成り立たないことを覚っています。ですから、意見を持てないのです。最後の人は、智慧を完成している人なのです。前に説明した人々の場合は知識さえも揺らいでいるのです。

意見は持っても持たなくても構わないが、自分がどのように生きるべきか、ということさえもはっきりしない人々は多いのです。流されて生きるのです。酒好きの仲間に入ったら酒を呑む、麻薬を使用する人と会ったところで自分も麻薬を使う、知り合いが賭け事をやっているならば自分も賭けに参加する、周りが髪の毛を伸ばしているならば自分も髪の毛を伸ばす。このような性格の人々もいるのです。

何かをやる前に、左を見てその人はどのようにやっているのかと、右を見てその人はどのようにやっているのかと、それから後ろまで見てどのようにやっているのかと調べて、その真似をするのです。①意見を持てない人。②生き方を定めていない人。この二種類の人間に対して、仏教は冷たい態度を取るのです。仏教側が厳しく真理を教える場合は、よくわかりました、納得しました、と言うかもしれませんけど、また別な人が別な話をすると、その意見に飛びつくのです。生き方についても、このようにやってみなさいと言われたらその時だけ真面目に真似するが、その場から離れると別な人の真似をするのです。

人は他人から学ぶ存在なのです。できないことがある場合は、できる人の真似をしなくてはいけないのです。しかし人間は本来、ロボットではないのです。人間には判断する能力があります。自分自身で判断能力に鍵をかけて、意図的にロボットになることは、人間であることを放棄するような行為です。私たちは他人に「なぜあなたはこのような意見を持っているのか? なぜあなたはこのような生き方をしているのか?」と訊かれたら、答えなくてはいけないのです。それも納得いける答えでなければならないのです。

相手が批判したり異論を立てたりしたならば、弁解してみる能力が必要です。弁解してみたところで、自分の意見がつぶれて負けるかもしれません。それは相手がよりまともな意見を持っているからです。負けるのは怖いと思って逃げるのは情けない。負けても勝っても、自分の生き方に対して納得行ける理由を持つこと、自分の見解に対して論理的な弁解ができることが、必要なのです。いまダメであっても、やがて立派な人間になります。

このジャータカ物語は、明らかに創作のように見えます。ネール山に住む生命はみな同じく均等に見える、という錯覚が起きます。みな平等な社会は理想的でいい社会です。現実的には成り立たないだけです。自分を区別して見られない環境、自分の良いところ悪いところを発見出来ない環境、他人の良いところ悪いところを見られない環境は、人格向上を目指す人がただちに避ける環境なのです。区別してみることで、比較してみることで、人は勉強するのです。人格向上するためにも、自分の生き方を、優れた人々の生き方と比較してみなくてはいけないのです。