6.心の働き 7
すべては心次第
先月は、他人と自分を比較するマーナ(慢)という悪いエネルギーについてお話をしていました。他人と比べてみて「人々が自分より良い状態になっている」と思ったら自分がみじめな存在になってしまい、怒りや嫉妬などの毒が生れてくる。また「自分が他人よりうまくいっているんだ」と思い、自信過剰になり、そこでまた大失敗する。人は誰も「人生の中にはいろいろ困っている問題が多い」というのですが、それはほとんど計る(比較する)ことから生れる
のです。
比べるとはどんなことか
テレビでも、経済的な評論、政治的な評論、日本の社会状態、健康のこと、いろいろな番組をやっていますから私も見ますが、全部片っ端から他人と比べるものなのです。アメリカではこれくらいで、日本ではこれくらい。たとえば平均寿命など。「そんなことはどうでもいいことでしょう」と私は思いますが。自分のことを見ればいいだけなのです。そういうふうに比較することで、いろいろ苦労するんです。経済のことも、他人と比べて比べて、苦しみを持つ。
簡単に言えば「自分が幸せなら、それで十分ではないか」ということなんです。
たとえば日本の人々が、適当な給料をもらって幸せに生きているとします。それに対して誰かが「ヨーロッパのこの国ではこれくらいだ」と数字を出してくれる。比べてみたら日本人の給料のほうが少ない。それで悩みを持つとすれば余計な悩みでしょう。それでもし、「日本の給料も上げなくては」と思って給料を上げたとしても、本当に生きている状態を上げるわけではありません。たくさん給料をもらうと、物価ももっと上がってしまう。そういうシステムなのですから。
それでも私たちは、どこでも比べるのです。
人間の心には「比べなくては落ち着かない」というところがあるのです。だからすべての世界は混乱ばかりなのです。政治も経済も社会も。
仏教では混乱せず、ちゃんと考えられます。
なぜならば、すべてを「人間」と考えているからです。「人間」はいるが、「社会」というものが存在するわけではない。「人間」はいるが「政府」というものが存在するわけではない。
「政府」というものが何かをやるわけではなく「人間」がいろいろなことをやるのです。ですから「計らなければ、比べなければ落ち着かない」という人が政治をやるならば、みんな落ち着かなくなってしまうのです。会社が自社の対策として他社と比べるならば、みんな同じ病気になってしまうのです。
個人の問題でいうと、自分と他人を比較して自分より偉い人が見つかると、自分がすごくみじめな存在になって、暗いエネルギーを作ってしまいます。すると別の新しいエネルギーである、ドーサ(怒り)、イッサー(嫉妬)、クックッチヤ(後悔)、マッチャリア(物惜しみ)まで作ってしまって、怒るか、嫉妬するか、後悔するか、いずれにせよものすごい膨大な毒がついてくる。あるいは「自分の方が偉い、自分の方が成功している」と余分な、過剰な自信をつけてしまったら「怠け」という毒がまたついてくるのです。
私たちのいろいろな問題はこのように比べることに端を発している場合が多いのです。ある女性が「なかなか結婚できない」という。「なぜ結婚できないと思うんですか。これからゆっくり考えればいいでしょう」といっても「最近私の友人が結婚しました」とその人と比べてしまうんです。「彼女は26で結婚した。私はもう27です」と、どうでもいいことを余計に比べて並々ならぬ精神的な苦しみを感じ、暗いエネルギーを作って、自分の人生そのものまで不幸にしてしまうのです。他人が20才で結婚しようと自分が27になっても別のことをやって生きているなら「私もそのうち結婚するかもね」と言っていればそれでいいんです。30代でも構いませんよね。「相手が見つかれば、結婚します」と決めてしまえば物事は簡単なのです。
そういうふうに自分の人生を見てみてください。観察してください。そうすると、自分が得た苦しみ、つまり比べることによってどれほど暗いエネルギーが生まれてきたか、見いだせるはずです。
客観的に比べるということ
しかしここに少し問題もあります。主観的に比べるのではなくて、客観的に比べる必要はたまにあるのです。皆様もこう思うかも知れません。「全く他人と比べないでどうやって経済成長するのですか。どうやって社会を安定させますか。どうやって自分が成長するのですか。
何も比べなければ、井の中の蛙で自分だけの自己満足の世界になるのではないか」…
何も見ないのではなくて、客観的に物事を見ればいいのです。
たとえば、自分が医学を勉強したいならば、客観的に「どんな大学がいいか。日本で認められているか」と見て、それから自分の能力を見て、「自分はどんな大学に入りやすいか」と見たりしてそれに入る。ちょっと自信がないというなら「どのくらいの能力があれば、その大学の試験に合格するのか。そのくらいなら、自分もそのくらい努力しよう」と見る。それは、主観的に比べることではなくて客観的なのです。
先ほど経済のことなどで批判的に話したことの中で、いろいろな国と比べることも客観的な勉強になる場合は問題ないのです。客観的に自分の次のステップヘ進むためのバネとして使うというならばいい。主観的に見ることが「慢」であって、暗いエネルギーなのです。少し理解しにくいのですが。
たとえば子供には「みんなやっているでしょう」と言わなければならないことがあります。
その場合、他人と比べて「みんなやっているんだからあなたもやらなくてはならない」と言うと、主観的になる可能性が高い。
そうではなくてこういうことなんです。「みんなやっているんだから、あれはできますよ。簡単です。ちょろいもんだ。やりなさい」…そうするとみんながやっていることを見て、「自分にもできること」という自信をつけることができる。ほんのわずかな差なんですね。
ですから我々が成長するためには、知識と智慧を持って客観的に物事を判断する。物事をよく見、よく理解する。主観的には見ないという姿勢が必要です。それはマーナと戦う方法なんです。主観的な見方を客観的な見方に変える。
たとえば自分の子供を叱る場合も、主観的に叱るから結果がないのです。客観的に叱ってみてください。すぐ聞いてくれるんです。ただ自分が怒って、自分の好みで怒っていろいろと言ってもあまり聞いてくれない。そうではなくて「あなたはこういうことをしたら、こうなりますよ。そういうふうにしたら、こんなふうになります。だから自分で選びなさい」と言うなら、聞いている側も物事を客観的に見られるようになりますね。自分のことを考え、「こういう行動をするとこういう結果になる。だからそうすべきではない」と考え、話すのです。
ですから子供を叱る場合は、主観的に叱らず客観的に叱る。会社の部下を叱るときでも、主観的に叱るのではなく客観的に叱る。むしろ叱るというよりは、状況を理解する手助けをしてあげることだけです。本人が自分で考えられるように。そうするととてもうまく行きます。
人生に万能薬はない
私たちは幸福になりたいけれどもなかなかなれなません。邪魔するビールスのような「慢」のエネルギーが心にしがみついているのです。
それに反対の抗体をずっとあげながら、我々は生きていかなければなりません。生きている間はその闘いをずっと続けなければなりません。
止むことはないのです。
「これさえやれば、もう成功です」というものはないのです。「このお祈りをすれば万事解決します」とか「この薬を飲めばすべての病気は治ります」とかそういうものはありません。
それは私たちの夢の世界だけなのです。
ですから常に励む。努力する。自分の心のビールスを退治するために、反対の明るいエネルギーを入れて努力しなくてはならないのです。
それには終わりがありません。
また、その努力は自分でコントロールできる部分だけにしか届きません。ですが、それがうまくいくようになると、自分でコントロールできない部分も治っていくのです。コントロールできない部分とは、たとえば心臓は動きますが自分ではコントロールできません。「心臓を速く動かそう」とか「ちょっと遅くしよう」とか思ってもできません。「呼吸の回数を減らしてみよう」と思っても、それはできない。
いわゆる自分の意志で簡単にはコントロールできないところ。
同じく我々の感情の世界でも、意識的にコントロールできない部分があります。
それらは瞑想をもって、コントロールすることができます。ヴィパッサナー瞑想ではすごく早く、この無意識の世界、自分本来が生かされている心のエネルギーに出会えるのです。出会って、それを治してしまうのです。社会でいう幸福とは、これまで申し上げてきたとおりに行動すれば、瞑想しなくてもできるものです。でも本当の心の幸福、本当の精神的な安らぎは、瞑想実践することで無意識の心の部分の問題を解決してはじめて得られるものです。
たとえば、すぐ怒る怒りっぽい人がいる。怒るのは悪いと「わかってはいるけれど」やめられず怒ってしまう。それは、コントロールできない性格の部分を表わしています。「舞い上がりすぎてはいけない」と思っても、いいことがあるとすぐ舞い上がってしまう。すべての感情というのをコントロールできるのは、瞑想を通してしかありません。
コントロールできない人は「楽しくなりたいなあ」と思えば映画を観たりディスコに行ったり旅行に行ったり、いろいろなことをしなくてはなりません。それでも汚いものを見ると「気持ち悪い」と感じ、環境に左右されるのです。
自分の感情をコントロールできる人は、「今日は思う存分楽しくやります」と思えば、環境などどうでもいいのです。ものすごく楽しくなれるのです。まわりがみんな、狂ったように楽しんでいるときも、「私は落ち着いています」と思ったら、誘惑されず落ち着いていることができます。感情をコントロールしていると「美味しく食べます」と思えば、どんなものも美味しく食べられるのです。塩味の薄い食べものは「塩味もして美味しい」と、塩の全く入っていない食べものは「素材の味が感じられて美味しい」と、その人にとってはどちらにしても美味しいんです。それができるのは、瞑想を通して感情を見極めた人。そうなると人間は完壁な幸福の状態を得られるのです。
最終的に言いたいのは「すべては心次第」だということです。「清らかな心があればすべては幸福であって、汚れた心は一切の不幸のもとである」法句経の一番目と二番目で言っていることなんです。(この項目終わり)