No.264(2017年2月号)
願望の代価は苦しみ
智慧で願望を乗り越えるべき Savants run away from desire
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Āsā yassa na vijjanti
Asmiṃ loke paramhi ca
Nirāsāsaṃ visaṃyuttaṃ Tamahaṃ
brūmi brāhmaṇaṃ
- この世かの世のもろもろの
すべての希求 のなきものは
依止なく縛 を離れたり - 訳:江原通子
- (Dhammapada 410)
こころが反応する単語
渇愛(taṇhā)にはいくつかの同義語があります。同義語のニュアンスはそれぞれ微妙に違いますが、人々が仏教用語を正しく理解するために役立ちます。我々のこころは、どんな単語にも反応するわけではないのです。例えば、「危ない」「危険」という単語があります。その言葉を聞いたら、我々は警戒反応をしなくてはいけないのに、ほとんど気にもしないのです。ひとに気づいて欲しいと思うならば、その人のこころが反応する単語を選ばなくてはいけません。しかし、これは簡単なことではないのです。語る人は、自分のこころが反応する単語を選ぶのですが、相手も必ず同じ反応をする保証はありません。
もう一つ例を出します。日本人は「ありがとうございます」という言葉を使います。
時々、「サンキュー」という単語も使います。意味は同一ですが、こころの反応は同じではないのです。あるお寺の住職が、いつでも「感謝、感謝」という言葉を使っていました。それは、「ありがとうございます」の代わりですが、その住職は他の意味も加えたくて、「感謝、感謝」という言葉にしたのです。一般常識に限られた思考能力の人にとって、仏教の真理を理解するのは難しいのです。ですから、お釈迦様が仏教用語を使う場合は、できる限り、同義語を並べたのです。
仏教用語の二つの意味
仏教用語は、いつでも二つの意味を持っています。一つは日常使う意味です。もう一つは真理を表す意味です。
Taṇhāの場合は、一般的な意味は「(喉が)渇いた状態」です。
英語なら thirsty, thirst と訳されます。誰でも知っている意味です。仏教で用いる、真理を表す意味は「存在をし続けさせるエネルギー」のことです。いくら生きていても満足できず、さらに生き続けたいという気持ちから、「渇き状態」をイメージしたのでしょう。
Taṇhā の同義語として、乾 かんせん 癬や疥 かいせん 癬の意味を持つ単語( kuṭṭho )を使う場合もたまにあ ります。その場合、病気に罹った人は安らぎを求めて、症状のある部位を搔きむしるのです。瞬間の安らぎはあるが、症状は悪化します。渇愛をなくすための俗世間のやり方は、掻きむしることです。仏教では、「掻くことをやめて治療しなさい」と言うのです。他の同義語もありますが、ここでは省略させていただきます。
渇愛=願望
今月、紹介したい単語はāsāです。
Āsāの一般的な意味は、願望・希望・欲しがること。英語で言えば、expect, desire です。希望がある場合、人はその目的に向って活動します。生命は、「生きていきたい」という目的を持っているので、生き続けるために頑張るのです。死は強敵なので、なんとしてでも避けたいと願っているのです。Āsāもまた、渇愛(taṇhā)の同義語です。英語で言えば、taṇhāはcravingで、āsāはdesireになります。単語が変わっても、自分に無いものを期待する、欲しがる、という意味は変わりません。
Āsāには、執着、束縛というニュアンスも入っています。ひとに沢山の希望があるとしましょう。欲しいものが沢山あるとしましょう。その人には、道が二つあります。「欲しい、欲しい」と悩んで落ちこむか、欲しいものを手に入れるために努力をして苦労を味わうか、です。努力して苦労を味わって、欲しいものが手に入ればよいのですが、人生はほとんど希望どおりに進まないものです。努力する人は、苦労に加えて、失望・失敗なども味わうはめになるのだと覚悟しなくてはいけないのです。
苦しみの回し車
人生のカラクリが見えますか? 無数に希望はあるが、叶えるために適切な努力をしないと、悩み苦しみに陥って不幸になります。生きている価値も消えます。では、適切な努力をする。その努力自体は楽なものではありません。楽に、タダで手に入るものに対しては、誰も希望を抱かないのです。適切な努力をして希望を叶えたとしても、希望を叶えたことで得る楽しみから、努力の苦しみを差し引いてみなくてはいけないのです。差し引いてみたらマイナスの結果になるはずですが、誰もこの計算をしません。
努力しても、期待した結果にならない確率のほうが高いのです。すべての希望が叶った人は存在しません。ほとんどの希望が叶っている、という人もいません。一万ある希望のうち一つ二つくらいは叶えられた、というならば、我々一般人のことになります。ということは、日々、失望感の苦しみを味わっているのです。それに、失敗した苦しみも加えてみましょう。これが人生です。
苦しみをごまかす偏見
それでも人間は諦めません。ものごとはポジティブに見るべきだ、と強弁するのです。要するに、苦しみを見て見ぬふりしなさい、という意味です。偏見でものごとを見て、判断して生きるようにと力説しているのです。これは、偏見を持たなければ生きていられない、という主張ではないでしょうか? しかし、素直に「偏見を持て」とも言わないのです。偏見を批判して、「くれぐれも調べてから判断するように」とも謳うのです。世間はこのように矛盾ばかりを謳っているので、落ち着いて穏やかに生きられる人は、一人もいなくなっているのです。
偏見を持っているからこそ、現実にある生きる苦しみに対して無関心でいられるのです。いくら「苦しみがない」と勘違いしても、現実に、苦しみはあるのです。病人が「病気ではない」と言い張ったら、治療を拒否します。しかし、これは正しい態度ではないのです。「この化粧品を使えば十歳は若く見えますよ」と宣伝したら、その化粧品は売れます。商品がコマーシャルどおりに本物だったとしましょう。化粧品を使えば、見違えるほど若く見えるのです。では、その女性は若くなったのでしょうか?「私は若い」という妄想の世界に生きているだけです。
要治療
乾癬や疥癬に罹った人が「掻きむしることこそ幸福だ」と思っていても、それは偏見であって、解決策ではありません。むしろ、病が悪化する道を歩んでいるのです。仏教は、正道を示します。皆やりたがらない、ということは気にもしません。乾癬や疥癬に罹った人は、専門家の治療を受けなくてはいけないのです。治療自体は楽ではないかもしれません。しかし、仕方がないのです。治療を受ければ、病は完治するからです。お釈迦さまはご自身のことを「この上のない医者である(sallakkhatto anuttaro)」(Sn.560)と説かれています。生きることは苦しみであり、如来はその苦しみをなくす方法・完治させる方法を説かれているのです。
病を育む似非 治療
ひとはāsā・願望という病に罹っている。であるならば、願望実現を目指すことは、乾癬や疥癬を掻きむしって治そうとする努力と同じです。絶対、うまくいかないのです。かえって、願望の数が増え続けていくだけです。同時に、苦しみも増していくのです。論理的に言えば、治療はいたって簡単です。ないものねだりを止めることです。願望を抱かないことです。しかし、願望・希望などを一切持たない人間になれますか? なれませんね。病気があるならば、病気をなくすことです。といっても、病気はなくなりません。適切な治療をしなくてはいけないのです。身体が健康な状態に戻れば、病気は消えているはずです。
ホリスティックなブッダの治療
この治療方法は、西洋的な治療と少々違います。ガンに罹ったら、患部の摘出手術をする。治ったように見えますが、身体の一部がなくなったので、人生は元に戻りません。また、転移する恐れもあります。では、別な治療方法を考えましょう。すべての細胞たちの弱みをなくす。遺伝子を改良する。患部を放っておいて、全身に治療する。健康になった細胞たちは、異物であるガン細胞を養うことを止めるのです。ガン細胞は自然死するので、身体は健康状態に戻ります。遺伝子を改良したので、再びガンに罹る恐れもなくなります。現代の知識では、これは妄想の話です。しかし、生きる苦しみをなくすブッダの治療方法は、これと似ているのです。
無知の流れを変える
こころの判断によって、願望があらわれます。この願望が叶えば幸福になると、こころが判断するのです。しかし、一つ二つの願望が叶っても幸福にはなりません。それでも心は、誤った判断を直そうとしません。いつでも、間違った判断をし続けるのです。それなら、データに基づいて客観的に判断する方法を、こころに教えなくてはいけない。正しい判断をできるようにと、未熟なこころを育ててみるのです。理解しやすくするために、仏教では間違った判断をし続けるプロセスを「無知に支配されている流れ」と呼びます。
そして、正しい判断能力を育てるために、智慧の開発プログラムが示されるのです。無知が消えて、智慧があらわれるような実践を行なうことが、すなわち仏道です。
智慧で発見する真理の世界
ひとが仏道を実践して、智慧があらわれたとしましょう。そのこころは何を発見するのでしょうか?
一切の現象は無常だと発見します。苦だと発見します。実体のない一時的なものであると発見します。一切の現象は、因縁によって現れては消えていく、無常の流れであると発見します。願望は成り立たない、願望は持てない、という結論に達します。こころが間違った判断をするならば無数に願望を作れますが、客観的に正しく判断するならば、願望は持てないのです。
願望・希望を持つのは間違いである、一切の現象は無常であると智慧で発見すると、こころは揺るぎない安穏に達するのです。その人は、新たな願望が生まれないだけではなく、こころの安穏も揺るぎないものになるのです。
無願という超越
世間は、数知れない願望で悩んでいます。一部の願望のために努力することは可能です。しかし、ほとんどの願望は、努力することすら不可能です。願望ばかりあって努力しない・努力できない場合は、こころが激しい悩み苦しみに陥るのです。数少ない願望のために努力するにしても、決して容易い道ではありません。苦労を経験しなくてはいけないのです。また、努力するすべての願望が叶うわけでもありません。叶えることができるのは、わずかな願望だけです。ですから、失敗と失望という苦しみを味わわなくてはいけません。苦しみから逃げることも、決してできません。
この苦しみの循環が生まれるのは、こころにものごとを正しくありのままに観て判断する能力がないからです。客観的にありのままにものごとを観られるように、こころを育てれば、苦しみの悪循環が消えるのです。成功に達した聖者は、この世のいかなる現象に対しても、願望を持たないのです。あの世・死後に関するいかなる現象に対しても、願望を持たないのです。こころがnirasā・無願に達するのです。無執着に達するのです。その状態に達した人こそ真のバラモンである、と釈尊が説くのです。
今回のポイント
- こころに響く単語がある
- 願望は乾癬や疥癬と同じ
- こころの判断は間違っている
- ありのままに観察できる能力を育てるべき
- 解脱者は無願に達する