No.269(2017年7月号)
束縛を断ち切る生き方
出家は再出家しなくてはいけない Dual renunciation
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Yodha kāme pahatvāna
Anāgāro paribbaje
Kāmabhavaparikkhīṇaṃ
Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
- 世の
欲楽 をば捨て去りて 家なく遊行を志し
欲楽の生起尽滅す そをバラモンと我は説く - 訳:江原通子
- (Dhammapada 415)
出家
阿羅漢に達した聖者はどのような人格者であるのかと、毎月説明してきました。今月も、少々言葉を変えて説明いたします。今月のキーワードは「出家」です。これは誰でも知っている単語でしょう。出家とは、仏道に入ることだと一般的に理解されています。出家して仏道に入った人々は、それから僧侶として活動します。仏教を学んで、基本的な修行をおさめて、それから一般仏教徒が必要とする宗教的な儀式儀礼を執り行うのです。テーラワーダ仏教の出家だけでなく、日本の僧侶たちもよく行っている大事な義務とは「寺を守って維持管理すること」です。悪く言えば、サラリーマンになることをやめて聖職者になった、という程度の話なのです。というわけで、「出家」と「解脱」は別々な話になってしまうのです。
出家の心構え
釈尊時代の出家に話を戻しましょう。経典には、agārasmā anagāriyaṃ pabbajati というフレーズが頻繁に出てきます。「在家から出て、出家した」という意味ですが、詳しく解説します。Agāraṃとは、家を持っている、家で生活している、在家である、という意味です。在家とは、「社会人」なのです。社会人は、仕事して収入を得て、結婚して、子孫をもうけます。それから、自分の家系のしきたり・習慣などを守って生きるのです。昔は、王様から課せられた仕事も奉仕でしなくてはいけませんでした。家族や財産に執着しなくては、在家生活を営むことはできないのです。そのうえ、家族、財産、使用人などなどを守らなくてはいけない。限りのない束縛が成り立つ生き方です。自分のために何かをする暇は、ほとんど現れないのです。自分が主人なのに、他人のために召使のように働き続ける運命になります。
出家生活の特色は、anagāriyaṃ という言葉で表されています。「家無き」という意味です。これは決して、マイホームという建物が無くなった、という意味ではありません。社会の生活システムから完全に離れてしまった、という意味なのです。財産を持つどころか、経済活動さえも止めるのです。自分を守ってくれる人も無いし、自分が守ってあげなくてはいけない人も無い。社会システムから完全に脱出しなくてはいけないのです。Pabbajatiは、出ていく、旅に出る、遊行する、という意味になります。現代的な単語は「ホームレス」です。すべてを捨ててホームレスになることが出家なのです。
決断
精神が弱い人には出家できないと、理解できると思います。出家すると決めることは、大胆な決断です。その人は、いままで自分の命を支えてくれたすべてのものを捨てるのです。医者・商人などの優れた専門知識があった人かもしれない。みんなに仰ぎ見られる芸術家であったかもしれない。普通のお百姓さんでいたかもしれない。そのすべてを捨てるのです。これからどう生きればよいのか、という当てもないのです。要するに、自分の命がかわいい、守らなくてはいけない、という気持ちには立場が無くなるのです。わかりやすい言葉に入れ替えれば、「死を覚悟した」ということになります。ですから、仏道に出家するとは、人間に成し得る大胆な決断なのです。王に仕える軍人たちは、命を捨てる覚悟で戦う場合があります。しかしそれは、国のために、家族のために、財産のために、名誉・権力を得るためにやっていることです。戦場で自分が死んでも、家族が王様からご褒美をもらえます。出家の決断は、それよりもっと厳しいのです。
束縛を断ち切る
出家するとき、社会生活に関わるすべての義務・束縛などを断ち切るのです。仕事をして収入を得る在家の人々には、自分が得た収入を使って贅沢に生きる権利があります。収入に適した生き方をして、毎日楽しく過ごす権利があります。御馳走を食べたり、豪華な衣服を身にまとったり、豪華な乗り物を使ったり、使用人にお世話をしてもらったり、芸術を鑑賞したり、旅を楽しんだりする権利があります。経済活動を一切やめた人には、当然、その権利はありません。在家の人々は、在家生活が楽しいから営んでいるのです。快楽を求めているのです。出家する人々は、このような束縛すべてを切り捨てなくてはいけません。俗世間の見方からすると、大変厳しい道に入ったのだと思われるでしょう。
戒律
最初に戒律が定められたのは、お釈迦さまの成道から十二年後という話があります。初期時代の出家に、形式的な戒律規範が無かったことだけは確かです。しかし、その時の出家は、なんの間違いも犯さなかったのです。戒律が無かったからといって、誰一人も自由奔放に生きてみようとしなかった。これは、決して不思議な話ではありません。出家した方々は皆、「社会との束縛をすべて断ち切る生き方」という、出家本来の意味をよく理解していました。出家とは人間に不可能なほど大胆な決断なのだから、御馳走を探し求める、御馳走を作る、高価な衣服を身にまとう、芸術を鑑賞する権利などは一切無いと、わかっていたのです。
出家の数が増えて、仏教徒たちが出家を支えるようになると、出家の本来の意味を忘れてしまう人々も現れました。それで後には、形式的な戒律規範を設けなくてはいけなくなったのです。定めた戒律があろうとなかろうと関係なく、出家は当然、精密に道徳・戒律を守る人間にならなくてはいけないのです。
四具
四具とは仏教用語です。命を維持するために欠かせない衣食住薬のことです。出家しても、衣食住薬は必要になってしまうのです。ここで矛盾が生じます。出家した人は、収入を得ることは何一つしません。ジャイナ教の出家は裸形でしたが、高度な文化人としての生活が求められた仏教の出家は、布で身体を覆ったのです。ジャイナ教の出家は断食を好んでいたが、仏教の出家は身体を維持するために必要な食事をとっていました。屋根を葺いたところや洞窟に住み、病に罹れば適切な薬も使っていたのです。
ジャイナ教の出家は、仏教の出家を批判の目で見ていました。「出家だと言いながら、贅沢に暮らしているではないか」と非難したのです。ジャイナの出家の立場から見ると、仏教の出家は矛盾しています。これは他宗教がしたような根拠のない批判ではなかったのです。お釈迦さまは、この問題をじゅうぶん理解していました。
釈尊は、解脱に達する修行は、苦行では成り立たないと最初から発見していました。仏道を歩む人は、常識範囲で身体を維持管理しながら、修行に励まなくてはいけません。このポイントは『転法輪経』で最初に説かれました。しかし、出家したら収入がゼロなので、常識範囲での生活さえも難しくなります。そこで、命を維持できる最小限のリミットを説いて、皆に暗記させたのです。服の場合は、在家の人々が捨ててしまったものを拾って縫い合わせて身にまとったほうがよいのです。その場合は、社会に一切負担はありません。食事はいただいたもので間に合わせます。インド文化では、宗教と関係なく修行者に食べ物を差し上げる習慣があったので、仏教の出家も托鉢に出たのです。托鉢で受け取るのは、在家が食べて余ったものです。または、修行者に差し上げる目的でつくったものになります。ですから、仏教の出家が食事をしても、在家の負担にはならないのです。住むところは樹の下、洞窟、空き家などになります。身体の調子が悪くなったら、牛の尿を飲むことを推薦しています。そのような形で、ジャイナ教のように苦行に陥らず、在家のように経済的に負担になる生き方もせず、中道的な出家の生き方が成り立ったのです。
四具の決まりを厳密にそのまま守るべきだというと、ジャイナ教と同じく苦行の生き方になってしまう。だから、仏教徒たちが僧房を作ってお布施したり、御馳走を作って差し上げたり、衣に必要な生地と、病気に罹った時に必要な薬などをお布施するならば、いただいて使うのです。そういった布施行為によって、在家者もまた仏道の世界で重要な役割を果たすことになります。仏教は出家だけの世界でなくなるのです。
修行
文字通りに出家の意義を考えると、それだけでも厳しい修行ではないかと思われるでしょう。しかし、ここまで説明したのは、結局は形式的な出家の世界です。中身ではないのです。ここまでの出家は、勇気があれば誰にでもできます。仏教の出家は、度胸試しではありません。輪廻転生の苦しみを乗り越えるために、解脱に達しなくてはいけないのです。ですから仏教の出家は、束縛の多いややこしい生き方をやめて安楽な生き方にした、という言葉で表現されています。Sambādho gharāvāso 在家は障害が多い、abbhokāso pabbajjaṃ出家は空のように自由な生き方である、と言われるので、出家は度胸試しではないのです。
楽な生き方を選んだ出家は、こころを清らかにして煩悩を滅尽することに専念しなくてはいけないのです。要するに、ホームレスになったのですが、重大な仕事を抱えているのです。出家は釈尊の説かれた教えを学んで、先輩の出家の指導の下で修行するのです。身体を維持するためには、わずかな時間しか使いません。寝る時間も控えるのです。目的に達するまで、励み努めなくてはいけないのです。
発病の危機
生命には存在欲があります。生きていきたいのです。死にたくはないのです。それはこころが根本的に「無明」によって活動しているからです。「なぜ生きていきたいのか?」と訊いてもよくわからない。「死にたくないから」と答えるのです。「なぜ死にたくないのか?」と訊いたら、よくわからない。「生きていきたいから」と答えるのです。これが無明です。命は、一切現象は、無常だから成り立っているのです。ただの生滅の流れです。目的に沿って、辿り着くべき終着点を目指して、進むものではありません。因縁によって変化して流れるだけです。その真理を発見することが、無明を破ることになります。
お釈迦さまの初期時代に出家した方々であるならば、大胆な決断をして社会との束縛を全て切って出家したのです。しかし、一切の現象は因縁によって生滅して流れる現象に過ぎないのだと、自分自身の経験でまだ発見してないのです。「ブッダの話によるとすべてのものは無常である」と、知識的に理解して納得しているが、自分のこころは無常を真理として認識してないのです。ということは、真剣まじめに出家生活をしているのに、こころが「私がいる」「モノがある」という先入観で活動しているのです。何かのきっかけで、再び束縛が現れてしまう恐れがあります。ひとが巧みに誘惑したならば、誘惑に負けてしまう可能性もあるでしょう。形式的には、煩悩の無い自由な生き方をしているが、こころの中には問題を惹き起こす無明の種がまだ残ったままです。要するに出家は、まだ発病してないもののウィルスを抱えている「キャリア」なのです。
再生族
「再生族」とは面白い単語です。インドのバラモン・カーストの人々は、自分たちが生まれつき聖職者であると思っていたのです。バラモン系の男たちは、必要なヴェーダ聖典と儀式作法を学んでから十六~十八歳頃になると通過儀礼を行います。印としてたすき掛けに糸を授けるのです。以後、死ぬまでその糸を身につけておきます。それで、一人前の聖職者として、二番目の生まれであると誇示するのです。この習慣は、洗礼と懺悔という形でキリスト教文化にもあります。人間は、イエスの受難において再び生まれ変わらなくては天国には行けないのです。
ここで仏教の出家についても、「再出家」というフレーズを紹介したいのです。形式的な出家は、仏教の立場から見ればそれほど難しいことではありません。難しいのは、再出家です。こころには無明のウィルスが潜在しているので、なにかのきっかけで発病して、煩悩に足を取られて堕落する恐れがあります。お釈迦さまはkāmabhavaという単語を使っています。この場合のkāmaとは、煩悩のことです。Bhavaとは、あり得る、起こり得る、可能性がある、という意味で理解しなくてはいけないのです。
出家したからといって、安心することはできません。まだ凡夫なのです。在家凡夫から、出家凡夫になっただけです。出家凡夫は、凡夫という状態から再び出家して、聖者・覚者にならなくてはいけないのです。修行の結果、こころに潜んでいる無明を根絶したならば、すべての問題は解決です。その人こそが本物の出家で、本物の聖者なのです。決して堕落することはあり得ません。
ダンマパダ四一五の偈では、出家と再出家の両方が説かれています。Yodha kāme pahatvāna,anāgāro paribbajeとは出家のことです。俗世間的な欲を捨てて、家の無い生き方である出家をする。次に、kāmabhavaparikkhīṇaṃと説かれます。煩悩が再び現れる可能性を滅尽した、という意味です。要するに、再出家のことです。その人こそが本物の聖者であり、本物のバラモンなのです。
今回のポイント
- 出家は社会との束縛を断ち切る
- 出家するとは大胆な決断の結果です
- 出家生活は自然に戒律道徳を守る生き方です
- 出家は社会の負担になってはならない
- 出家が再出家することで修行は完成します