No.272(2017年10月号)
快不快を捨てる
依存を消すと解脱 Beyond pleasure and displeasure
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Hitvā ratiñca aratiñca
Sītibhūtaṃ nirūpadhiṃ
Sabbalokābhibhuṃ vīraṃ
Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
- 楽と不楽を共に棄て いとすずやかに依著なし
すべての世界に勝てる雄者 そをバラモンと我は説く - 訳:江原通子
- (Dhammapada 418)
私は死にたくない
束縛があるからこそ、生命は輪廻転生しているのです。死後の世界があると信じても、無いと信じても、何の関係もありません。束縛がある生命は、死後、別な生命として続きます。現実を観察してみましょう。ひとは死にたくはない、生き続けたいと願っています。「生まれたものは必ず死ぬ」ということも頭のどこかで知っているが、自分の死は嫌がるものです。怖がって、不安になるのです。「ひとが死ぬのは当たり前のことですが、自分は死にたくない」という気持ちが、こころの中に潜んでいる。この矛盾した感情は、束縛のせいで起きるものなのです。
感情の流れは停止しない
個人の知識と感情は、宇宙の法則にも生命の法則にも関係ありません。死にたくないと思う人が死なないわけでも、いま死にたいと思ったから死ぬわけでもありません。同じく、「人が死んだら身体が灰になって終わるのだ」と思ったからと言って、転生しないわけでもありません。「死後、全知全能の神様がつくった楽園で永遠の命をいただくのだ」と信じても、生命の法則には関係ない迷信に過ぎません。ものごとは瞬間たりとも止まることなく、変化して流れます。こころという精神のエネルギーも、瞬間たりとも止まることなく流れます。こころにできるのは、その流れを少々変えることだけです。感情が汚れているならば不幸の方向へ流れるし、対象的に清らかな感情ならば善い方向へ流れる。この流れの変更も一時的なものです。なぜならば、生命の感情は一定してないからです。
流れを変えてみる
物質の変化の流れは、太刀打ちできないものです。それでも私たちは工夫して、ある程度まで自然の流れを変えつつ生活しています。しかし、自然に打ち勝つことはできません。こころの流れは、生命が「私・個人」という言葉で認識しているものです。それは自分で変えられます。自由に変えられるが、感情のせいでこころの流れは管理できないほど暴れているのです。ひとは感情の奴隷になって生きています。こころがこのような状況であるならば、転生が不安になります。
輪廻とは苦の転生です
生きることは苦であります。生まれては死ぬ、生まれては死ぬ、という生死の流れは、苦の流れでもあります。ですから、輪廻転生とは生命の法則かも知れませんが、ありがたいことではないのです。ウランなどの核物質が放射線を発するのは、物質の法則です。しかし、ありがたくはないでしょう。輪廻のことも同じく考えたほうがよいと思います。こころが持つ放射線を発する力は、執着・束縛・渇愛などの名前で説かれているものです。
束縛の発見(rati欲)
束縛について、ブッダはさまざまな方法で説かれています。説明に合わせて、用語も変えます。先月号では四種類の束縛を説明しましたが、その際の用語はyoga(軛)でした。今月は、別なアプローチで束縛を観察します。一つ目の束縛は、ratiです。好む、喜ぶ、気に入る、欲、という意味です。混乱しないように、ratiを「欲」という訳語で使います。
欲は束縛になります。何かを見たとしましょう。それを気に入ってしまう。Ratiの感情が生まれるのです。それで、その見たものを欲しくなったり、自分で所有したくなったりします。所有するところまで行かなくても、気に入ったので、こころにはインパクトが入ります。そのインパクトの影響で、考えたり、妄想したり、感情の流れを変えたりするのです。思考・妄想の流れを自分自身で起こしているのに、自己管理はできなくなっている。その対象が頭から離れないのです。要するに、「見たものが自分のこころの流れを変えてしまった」ということです。これは一般人の感想で、事実ではありません。見たものが自分のこころに入って、自分を管理するわけでは無いのです。たとえば日没の時、富士山を見たとしましょう。その美しい風景に、こころが乱れます。写真やビデオを撮ったり、撮った写真をフレームに入れて家で飾ったり、展覧会に出展したりします。富士山に憑りつかれて、富士山の写真ばかり撮る人間になったりもします。しかし、肝心な富士山は何もやっていないし、なんの影響も与えていないのです。私たちは「富士山に圧倒された」と勘違いしているだけです。富士山を拝む人までいる始末です。
見たものの何かを気に入ったら、このように強烈に束縛されてしまうのです。問題はこころにあるのに、それには気づかない。犯人は対象であると思って、対象を管理しようとする。余計なことだと思います。映画の場合は、PG12・R15+・R18+などの表示があります。それはその映画を観る子供たちのこころが影響を受けているからです。R18+の映画は、18歳以下の子供たちは観てはならないことになっている。この場合、映画が犯人にされています。映画とは、人の感情をかき回して収入を得る目的でつくるものなので、犯人にされても仕方がありません。しかし、法則は変えられません。見えるもの(対象)に、人のこころに影響を与える気持ちはないのです。
見るもの(色)を例に出して説明しました。ひとは、聴くもの(声)・嗅ぐもの(香)・味わうもの(味)・身体に触れるもの(触)によってもこころが揺らぎます。「色声香味触に管理されている」と勘違いして、こころが色声香味触から離れなくなってしまう。離れることはできない、とまで思ってしまうのです。これが「rati欲」という束縛です。死んでしまったら、色声香味触から刺激を受けられなくなるのだと思うので、「死にたくない」という感情がさらに強化されるのです。
束縛されて自由を失ったこころは、弱くなります。色声香味触への依存状態になっているのです。その人は死後、色声香味触がある次元に再生しますが、より優れた色声香味触の次元には行けません。楽しみを与えてくれない色声香味触の次元に堕ちるのです。これはごく当たり前の法則です。お金を例に出せば、簡単に理解できます。服を買いたいという気持ちの何人かがいるとしましょう。一人が二千円、一人が五千円、もう一人が一万円をもっています。もう一人が十万円、また二十万円を持っている人もいるとしましょう。購買力の強弱が現れます。購買力に合わせて、買う服の美しさ、品質などが変わります。こころが強くなったり弱くなったりする時も、同じ結果になります。
Rati欲を束縛として説明すると、色声香味触だけではなく、意の流れに触れる概念(法)も入れなくてはいけないのです。憑りつかれた対象によって、意の流れが変わります。変わった思考・妄想の流れが起きます。好みの知識・哲学・信仰などがあれば、それらによってもこころの自由が失われます。それらも束縛になります。Ratiとは色声香味触法に対して、喜びを感じることです。色声香味触法を好むことです。色声香味触法によって、こころが揺らぐことです。自己管理できなくなることです。色声香味触法に支配・管理されているような状況です。この束縛がある限り、生命は輪廻転生するのです。
束縛の発見(arati不快)
色声香味触法は、必ずしも楽しいものに限りません。Arati不快感をおぼえるものも無数にあります。何かを見たとしましょう。不快感をおぼえる。それなら、その見た対象にたいして執着が起こるはずはないと思われるかもしれません。それは違います。Arati不快感が起きたとは、執着です。ひとは、快感を求めて眼耳鼻舌身意に頼っているのです。しかし、世は生命の好み・希望で回転するものではありません。色声香味触は外の世界で、そちらの法則によって流れているものです。ピンクのバラの花に喜びを感じる人が、バラの花を見ます。しかし、見たバラはピンクではなく白い色でした。期待が外れます。そこで、僅かかもしれませんが不快感が生じます。この場合は、ご飯の例がよいと思います。美味しく食べたいのです。正しく言えば、食べるものが美味しくあって欲しいのです。それで、食べてみます。自分の好みの味と正反対なのです。必ず不快感が生じます。焼き肉が美味しいと思っている人に、焼きコウモリの皿を差し上げましょう。気持ちが悪くて仕方ありませんね。しかし、焼きコウモリを好んで食べる人もいます。
プログラムはこのようです。色声香味触法から快感を得たいと期待します。色声香味触法は外の世界ということになるので、何に触れるかと自分では分からない。触れた対象が期待外れのものであるならば、不快感をおぼえてしまいます。それに合わせて、「嫌」という感情が起きて、思考・妄想が流れます。こころが弱くなります。ですから、arati不快感も束縛なのです。
別な例で考えましょう。自分の気にいらない人がいると、ライバルがいると、自分の足を引っ張る人がいると、不快感をおぼえます。その人々のことが頭にこびりついて、なかなか消えません。家に戻っても、寝ている時にも脳裏に浮かぶので、それに応じた妄想が流れます。ですから、頭にこびりつくのは好みのものだけではありません。嫌な対象もこびりつきます。この束縛が、こころを弱くするのです。
不快感の別バージョンもあります。私たちは、条件によって個人的には好まない環境に生活するはめにもなります。自分が、会社からソマリア出張を命じられたとしましょう。好みの国ではないことは確かです。自分の財産を盗まれるかもしれませんし、誰かに殺される可能性もあります。それでも、大事な仕事を頼まれているならば、仕方なくその苦しい環境を選ばなくてはいけない。「国境なき医師団」は、いつでも危険な環境でボランティア活動をしているでしょう。たとえば受験生がいるとしましょう。若い子だから、ゲームをやったり、友達と遊んだりしたい。朝寝坊していたい。でも、受験勉強があります。好ましくない、苦しい環境を選ばなくてはいけないのです。そこで、ゲームも、友達と遊ぶことも止めます。朝寝坊どころではなく、徹夜して勉強する。決して楽ではありません。そこで、こころが「嫌」という感情に襲われます。寝たくて、遊びたくて、たまらなくなって、勉強がおろそかになってしまう。この場合は、不快感が束縛として働いて、こころを弱くしているのです。反対に、「国境なき医師団」は自分が紛争地帯に派遣されているとよく知っています。それは覚悟のうえです。ですから、自分の仕事を見事にこなしてみせます。その場合、状況は苦しいとしても、arati不快感に陥っていないのです。
仏道を実践する出家者も、「国境なき医師団」のような環境にいるのです。好きなものを好きな時、好きな量、食べることはできません。眠くなったからといって、寝ることはできません。社会から離れた環境にいるので、揃っているのは不便だけです。そこで、不快感という束縛が起きてきたら、修行中止になります。還俗してしまうこともあり得ます。好みの対象を欲して暴走しているこころを、制御して止めなくてはいけないのです。戒律を守らなくてはいけないので、自由に生きることもできません。蚊に刺されても、蚊を殺すことはできません。明らかに、好みと言える環境ではないのです。そこで不快感をおぼえたら、煩悩が現れた、ということです。束縛が現れた、ということです。束縛を絶つ目的でおこなった修行の結果、束縛が新たに現れたとは話にならない矛盾でしょう。修行者は、環境が不便で苦しくても、不快感をつくらず、あえて精進するのです。
このような状況が、俗世間でもあります。俗世間で成功したいと思うならば、好みの刺激を与える環境から離れなくてはならないのです。商売を成功させたいと思うならば、欲に溺れることを止めて、努力しなくてはいけない。単身赴任であっても仕事をしなくてはいけません。残業したり、徹夜したりしなくてはいけないことになります。好ましくない、苦しい環境に置かれてarati不快感をおぼえる人々は皆、競争に負けます。敗者になるのです。
聖者のこころ
聖者のこころには、rati欲という束縛も、arati不快という束縛もありません。聖者は、眼耳鼻舌身意も、色声香味触法も、無常の流れであると発見した方々です。無常に執着することは成り立たないと、発見している方々です。ですから、こころは束縛を脱して自由になっているのです。こころは対象によって揺らぎません。静寂に達しているsītibhūtaṃのです。こころとは、対象に依存して「知る」という機能の流れです。対象が無ければ、知ることも認識も起きません。一般人のこころは、対象に依存しているだけではなく、対象から離れることもできません。何にも依存しないこころを作ることに成功したnirūpadhiṃ聖者は、そのゆえに全世界(輪廻転生)を超越したsabbalokābhibhuṃ真の英雄vīraṃなのです。このような人こそ真の聖者・真のバラモンであると、お釈迦さまは説かれるのです。(Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ)
今回のポイント
- 自然法則とこころの法則は人の好みで変えられません
- 無常の流れに停止はないので、生命は輪廻転生します
- 束縛はこころを弱くします
- 束縛を絶つこころが輪廻を終了させます
- 苦しい環境に置かれても不快感を起こさないこと
- 依存の消えたこころが解脱に達します