No.274(2017年12月)
時間という束縛
無常の現象に執着しないことが解脱です Time friezes the freedom of mind
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Yassa pure ca pacchā ca
Majjhe ca natthi kiñcanaṃ
Akiñcanaṃ anādānaṃ
Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
- 過去世も 来世にも はた現世も
無一物にて無執著 そをバラモンと我は説く - 訳:江原通子
無執着と「空」
阿羅漢に達した聖者のこころの状況について、さらに勉強してみましょう。悟りの境地である涅槃は、言葉・概念・知識を使える範囲を超えています。ですからお釈迦さまは、それについて語りません。しかし、阿羅漢に達した聖者も人間として生きていて、こころはふつうに機能しているのです。聖者のこころの機能と、一般人のこころの機能を比較することはできます。比較をして、聖者がどれほど一般人と違うのかと理解することもできます。これまで三十七回にわたって、覚りの境地について説明してきました。実際、それは覚りの境地ではなく、覚られている聖者たちと私たちのこころの違いを語ってきたのです。
今月も、聖者のこころの働きと一般人のこころの働きの違いについて説明してみます。まず、過去について聖者のアプローチを見てみましょう。過去について、聖者のこころになんの捉われ・拘り・執着もありません。無執着です。Natthi kiñcanaṃとは、何もない・空という意味です。テーラワーダ仏教は、それほど空suñña, śūnyaという言葉に拘らないので、注釈書は「空」という意味ではなく、「執着が一切ない」という解説をするのです。過去に対してこころが空であると解説する場合、その解説にさらに解説が必要になります。解説のプロは、さらに解説が必要になるような解説はしません。ですから、「聖者のこころには執着がない」と理解しなくてはいけないのです。
過去とは何か?
時間としての過去の定義は簡単です。今という時点から前は過去になります。しかし、時間とは実在するものではなく、頭の中で推測して現れる概念です。時間を示す場合、その時間は何かの現象に依存しなくてはいけないのです。たとえば「江戸時代」と言えば、それは時計の示す時間ではありません。ある時間のあいだに起きた人間の生き方をすべてまとめて参考にして、その生き方全体に対して「江戸時代」というのです。その時代を理解するために、参考にしているのは現代人の生き方なのです。ですから、人間がいなかったならば、「江戸時代」は存在しません。
というわけで、「過去とは何か?」という問いに答えるためには、何かを参考にしなくてはいけないのです。たとえば、世界の過去、宇宙の過去、生命の過去などなどです。過去に捉われない・執着のない聖者が思う過去とは、世界の過去でも、宇宙の過去でも、生命の過去でもありません。五蘊の過去なのです。現代的に言い換えれば、自分自身の過去なのです。自分自身の過去に対して、執着が現れます。他人の過去、物事の過去に対して、それほど執着は現れません。たとえば、「地球はどのように現れたのか?」という過去を学ぶ学生は、四十六億年前に徐々に現れた塵やガスが固まった高温の丸い物体に対して、恐怖も愛着もつくりません。「ああ、そうだったのか」とびっくりするだけです。しかし、「あなたは過去生で中国の皇帝であった」と言われたら、それなりの感情が沸いてくるでしょう。
ですから、過去といえば自分自身の過去になるのです。我々一般人は過去生をまったく知りませんが、いまの生の過去を大事にしているのです。それを思い出して、喜ぶ人も、傲慢になる人も、落ち込む人も、悩む人も、忘れてしまいたいと葛藤している人もいます。生まれ育った田舎に、勉強した学校に、生まれた実家に、幼なじみに、情緒的な思い入れを抱いているのです。それが感情であり、煩悩です。それによって、こころが揺らぐのです。こころの安穏と安定が壊れてしまうのです。過去に対して喜びをおぼえても、嫌な気持ちをおぼえても、結果は同じことです。よい思い出であるならば執着して抱き続けたいし、悪い思い出であるならばそれを無くして忘れたいのです。忘れたいと思ったからといって、忘れられるものでもありません。どちらにせよ、結果は「こころが安穏に達しない」ということです。
聖者にとって、「今」とは瞬間・瞬間変化して流れる色受想行識という五つの組織です。そのなかで一つの現象さえ、とどまることも、変化しないことも、あり得ないのです。だから、今の瞬間でも、聖者に「私」はいません。存在しません。こころは「空」なのです。過去の色受想行識の流れについても、同じ気持ちです。過去の色受想行識の流れに対しても、こころは「空」なのです。過去にも「私」はいませんでした。
これは勿論、「聖者は過去をきれいさっぱり忘れてしまった。認識障害に陥った」という意味ではありません。過去に起きた出来事は、いまさら変えることは不可能な史実なのです。過去のことは、史実として憶えています。お釈迦さまの説法を勉強すると、一般人にとっては気が狂うほど遠い過去の出来事まで、目の前で起きている出来事のごとく明確に説明することができたのです。しかし、瞬間・瞬間、因縁法則によって変化してゆく現象の流れに対して、一切執着は起きないのです。
比較することで理解してみましょう。我々にも過去があります。史実として一部は憶えていますが、それもいい加減で明確に正しくは憶えていないのです。それだけではなく、自分の過去の史実に対して、愛着を持ったり、怒り憎しみを抱いたり、恥を感じたりするのです。一般人は「私の過去」として過去を思い出すのです。聖者には「私」がいません。あるのは、ものごとの流れのみです。
未来とは何か?
未来という語も、時間に関わる概念です。ですから理解するために、何かを参考にしなくてはいけないのです。たとえば「私の将来は?」「この国の将来は?」という場合、将来という時間概念に何かしらの意味が入ります。時計には、将来がありません。時計は現在の時刻のみを表示しています。現象の変化は、時計という機械に関係ありません。
人間は皆、将来のことを気にします。将来を知りたいのです。予知能力があると謳っている人々・占い師・予言者などなどを探しまわります。将来を言い当てると称する、自分の将来すら知らない詐欺師に簡単に騙されるのです。そのうえ、皆将来のことがどうなるかと分からないので、不安に脅かされるのです。これらはすべて、将来という妄想概念にひっかかっているから起こる、余計な悩み苦しみに過ぎません。要するに一般人は、将来に対して執着を持っているのです。さらに分かりやすくすると、「《私の将来》はどうなるのか?」という不安なのです。
将来を知ることは不可能です。ものごとの法則を知っているならば、ある程度まで将来を予測できます。そのためには、因果法則を理解しなくてはいけないのです。たとえば科学者たちは、地球温暖化について警告を発しています。彼らは将来を知り尽くした予言者ではなく、気象学者としてその分野に関わる因果法則を知っているからです。その警告が、必ずその通りになるという意味でもないのです。「もし現実になったら大変なので、いまのうちに何とかして、その結果を回避してください」と言っているだけです。我々は、来年も冬が訪れることを確実に知っています。しかし来年、いつからいつまで雪が降るのか、全く知りません。将来を知るとは、そんな程度のことなのです。
「私の将来」に対しても、確かなことは何も知りえないのです。七十歳の人は、あと五年生きていられれば七十五歳になるのだとはっきり知り得ます。しかし、あと五年生きられるかどうかは分かりません。七十五になったら体調はどうなるかと予測できません。いまよりも体力が衰えることは確かです。知り得るのはこの程度のことです。
将来を予測する
将来を予測して、人間は計画を立てます。その計画を実行もします。しかし、予測通りにものごとは進まない、ということだけは確かです。皆、一つの大事なポイントを誤っているのです。将来を認識することは不可能です。ゆえに、私たちは過去の出来事を並べ替えて、未来像をつくるのです。われわれが抱く未来像とは結局、未来のことではなく、過去の産物から組み立てた妄想概念の一つなのです。過去の経験を組み立てる場合は、それなりに因果法則を参考にするならば、未来像にいくらか可能性くらいは成り立ちます。しかし、確実ではないのです。「確実な未来」とはあり得ない話です。しかし、一般の人間は皆、将来に対して激しい執着を持っています。計画を立てたり、金儲けをしたり、家を建てたり、スポーツをやったり、食べ物を気にしたりする場合は、将来のことを妄想しているのです。いま現在の楽しみのため、いまの瞬間に充実感を得て安穏に生きるため、それらの仕事をやっているわけではないのです。これが、将来に執着して激しく悩み、怯え、不安になる一般人のこころなのです。
聖者の将来
聖者にとって、未来とはまだ現れていない現象です。だから、気にする必要はまったくないのです。現れていない現象について、計画を立てることも、準備をして待ち構えることも不可能です。ゆえに、聖者にとって「将来は管轄外」です。なんの執着もありません。
将来の予知
聖者に達するためには、因果法則を正しく発見しなくてはいけないのです。だから、命の流れ、物事の流れを因果法則的に知っています。科学者のように、将来について予測することが可能です。しかし、それは可能性を示すだけで、決して確実ではないのです。お釈迦さまの場合は、将来を予言したケースがいくつかあります。ここでは詳しく説明することができないので、省略して書きます。たとえば悪人がいる。死後、不幸に陥ることがあり得る。そこでお釈迦さまが予言する場合は、「この人が自分の生き方を変えずに、善行為をする道を歩まずに、そのままに生きるならば、死後、不幸に陥るのだ」と予言するのです。それは、「死後、確実に不幸に陥る」という予言ではない、あくまで警告なのです。科学者と同じく、「なんとしてでもこの悪い結果を回避しなさい」という慈しみの言葉でもあります。
サンガ破壊などの重罪を犯した提婆達多(devadatta)が、後に病気になって倒れた時、お釈迦さまに謝りたいと願ったのです。しかし、お釈迦さまは「提婆達多は重罪を犯したので、如来に出会うチャンスを失ったのだ」と予言されました。その予言は提婆達多がお釈迦さまに会うため担架で運ばれて来る途中、語られたのです。一般的に考えれば、二三時間のうちに提婆達多は到着するのです。この予言は、因果法則にのっとって確実であると語られたものです。重罪を犯したことで、提婆達多の寿命は縮まったのです。さらに末期的な病気にも罹っていたのです。如来に会ってこころを穏やかにしてもらうためには、それなりの徳が必要です。提婆達多は自分の徳を自分で潰したのです。だから、会えないということは確実です。たとえで説明します。2リットルくらいの容器に水を入れて、下部に小さな穴をあけます。その容器から十分あたり50ミリリットルの水がこぼれるとしましょう。その容器を運ぶ場合は、どれぐらいの時間で空になるのかと単純計算で言えます。六時間四十分で空になります。お釈迦さまは提婆達多の業を計算なさったのです。
将来「私」はいない
聖者にとって、「私」はいないのです。あるのは瞬間的に変化し続ける色受想行識の流れなのです。一般人であれ聖者であれ、生まれたものは死にます。聖者の今現在の色受想行識の流れは、死で分解するまで生滅変化して流れます。聖者にとって、過去に「私」がいなかっただけではなく、将来にも「私」はいません。こころは安穏に達していて、揺らがないのです。将来のイメージという妄想概念はないので、怯えも不安も喜びも期待も一切ありません。
Majjhe 真ん中
過去・将来に比較する真ん中なので、「現在」という意味になります。消えた過去に対して執着がないことも、現れていない将来に対して執着がないことも理解できたとしましょう。それでも、「いま、現実に生きているではないか? だったら、今の命に執着する必要があるのではないか?」という疑問を抱くことはあり得るのです。
残念なことに、一般人には執着がないと何もできない、という弱点があります。いま空腹を感じたらご飯を食べればよいのに、その食べるご飯に執着してしまう。執着がなければ、何を食べて何を避けるべきかと判断することすらできない。金に執着がなければ、仕事に執着がなければ、仕事をすることができなくなる。子供に執着しなければ、子育てができなくなるのです。なぜ残念かというと、この執着のせいで悩み苦しみが現われてくるからです。成功・失敗という概念に悩まされて、期待通り・期待外れ・期待以上・想定外などの相対的な概念に嵌められて、精神的に悩むのです。一般人は、現在にも執著しているのです。
聖者の今(現在)
聖者には過去と将来が存在しない、と書きました。実は、聖者にはいま現在も存在しない、と理解したほうがよいのです。現在すら存在しないとは、一般常識的には理解に苦しむ話かもしれません。一切の現象は、絶えず生滅変化して流れています。いかなる現象の命も、瞬間に限られるのです。ガラスの寿命は何年も続くだろうと思うかもしれませんが、ガラスは地水火風でできているのです。地水火風の命は瞬間です。聖者の色受想行識は、瞬間瞬間、変化していく流れです。だから、いまの瞬間であっても、「私」はいない。「空」なのです。執着は起きないのです。一般人には到底、理解不可能なこころの働きかたです。聖者といえども、涅槃に入るまで普通の人間として生きています。食事を摂ったり、人々に真理を語ったり、悩んでいる人を助けてあげたり、他の修行者に指導したり、病気にもなったり、体が疲れたり、休んだりするのです。しかしこれらは全て、「私」がいない「空」の精神でなされる純粋な行為のみなのです。過去現在未来の無常の現象を、感情というボンドで一束につなげようとは決してしないのです。
聖者とは
過去(の現象)に対して、将来(の現象)に対して、また今(の現象)に対して、なんの執着もない。こころは空になっている人こそが、聖者であり真のバラモンなのです。
今回のポイント
- 時間とは概念です
- 無常の現象がなければ時間は成り立たない
- 現象は無常なので執着することは苦です
- 聖者は時間という妄想概念から解放されている