No.80(2006年8月号)
マンダートゥ王物語
Mandhātu jātaka(No.258)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の首都サーワッティ(舎衛城)の郊外にある祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。
ある若い比丘(びく)がサーワッティで托鉢(たくはつ)をしていて、一人の美しい女に出会い、心を強く惹かれました。それからというもの、比丘は、気持ちが晴れず、鬱(ふさ)ぎがちになりました。心配した友人の比丘たちは、彼を法話堂におられる釈尊のもとに連れて行きました。お釈迦さまが「比丘らよ、なぜこの比丘を連れて来たのか」とたずねられたので、仲間の比丘たちは、「世尊、彼はサーワッティで見かけた女性に心を惹かれ、気持ちが鬱いでおります」と申し上げました。「比丘よ、それは本当なのか」「世尊、本当でございます」「比丘よ、君が在家に戻ったとして、雑事の多い在家生活の中では、いつ欲を滅(ほろ)ぼすことができるというのか。愛欲というものは大海のように広く、深く、限りがない。昔、ある王は、二千の島に囲まれた四つの大陸に転輪王(世界を支配するという伝説の王)として君臨し、その後、人間でありながら四大天を統治しただけでなく、三十三天において、三十六人の帝釈天(たいしゃくてん)が次々と交替する間の長きにわたって帝釈天と共に天界を治めた。しかしそれでもなお、彼は、自分の欲を満たすことができずに死んだ。出家した今をおいて、君はいつ心を清らかにしようというのか」と。そしてお釈迦さまは、過去の話をなさいました。
遥か昔のこと、最初にマハーサンマタという王が国を統一しました。その息子はロージャ王といいました。ロージャ王の息子はヴァラロージャ王で、ヴァラロージャ王の息子の名はカルヤーナ王。カルヤーナ王の息子をヴァラカルヤーナ王といい、ヴァラカルヤーナ王の息子はウポーサタ王。そのウポーサタ王のところに皇子が誕生し、マンダートゥと名づけられました。
マンダートゥ皇子は、七種の宝(輪宝、象宝、馬宝、珠宝、女宝、家主宝、主兵臣宝)と四種の神通が備わった転輪王でした。彼が左手を曲げて右手を打ち鳴らすと、まるで水晶の雨のように、金、銀、七種の宝石が、膝のあたりまで埋め尽くすほども降り注いだといわれています。
マンダートゥ王は、そのように、生まれつきすばらしい不思議な力を授かっていたのです。
立派に成長したマンダートゥ皇子は、八万四千年の間は皇太子としての生活を楽しみ、次の八万四千年の間は副王となってその生活を楽しみ、王位に即位してから八万四千年の間は転輪王として世界に君臨しました。それでもマンダートゥ王の寿命には何の傷もなく、彼の寿命の長さはまだまだ計り知れなかったのです。
ところが、そのようにありとあらゆる快楽を味わったマンダートゥ王は、次第に自分の欲を満たすことが難しくなってきました。王は沈みがちでいることが多くなりました。大臣たちが「大王様、何を鬱(ふさ)いでおられるのですか」と訊くと、王は溜息をついて「余の福力を考えた時、この王国など何だろう。余が楽しめるところはいったいどこにあるのだろう」と言いました。
大臣たちが「大王様、それは天界でございます」と答えたところ、マンダートゥ王は、すぐさま輪宝を転じ、多くの家来を従えて、四大天と呼ばれる天界に昇りました。四大天を治めていた四人の大王は、両手に天奉と天香を携えて、たくさんの神々を従え、マンダートゥ王を出迎えました。そして、転輪王であるマンダートゥ王に、四大天の王権を譲ったのです。マンダートゥ王は自分の率いてきた人々に囲まれて四大天を統治しました。そして、かなりの長い年月が過ぎ去りました。
ところがそのうちに、四大天においても、マンダートゥ王は、自分の欲を満足させることが難しくなってきました。王は、またしても憂鬱になってきたのです。四大天王が、「大王よ、なぜ鬱(ふさ)いでおられるのですか」とたずねると、王は溜息をついて、「この四大天よりも優れた快楽はどこにあるのだろう」と言いました。
四天王が「王よ、我々はより上の天界の従者のようなものです。ここより上の三十三天の世界は、さらに楽しゅうございます」と答えるのを聞くと、マンダートゥ王はまたもや輪宝を転じ、自分に従う多くの人々を連れて三十三天と呼ばれる天界に昇りました。三十三天の王である帝釈天(たいしゃくてん)は、両手に天奉と天香を携え、多くの神々を従えて、彼を出迎えました。帝釈天は、彼の手を取って、「大王よ、こちらにおいでください」と、マンダートゥ王を玉座に導きました。そして、三十三天を二つに分け、その半分を自分が統治し、あとの半分をマンダートゥ王に譲ったのです。それ以来、マンダートゥ王と帝釈天という二人の王が、三十三天を統治することになりました。
それから長い長い時が経ちました。数えきれないほどの年月が経つと、現帝釈天は崩御し、新しい帝釈天が新王となりました。その帝釈天も、数えきれないほどの長い年月の後、寿命が尽きて亡くなりました。そのようにして、マンダートゥ王が三十三天を統治している間に、三十六人の新しい帝釈天が生まれ変わったのです。それでもマンダートゥ王の寿命は尽きず、相変わらず人間の状態のままで、三十三天の半分を統治していました。
ところが、そのような果てしなく長い年月の後、マンダートゥ王の心に、また、次のような欲が生まれました。「余にとって、三十三天の半分だけを統治するのでは不満である。現帝釈天を殺し、我一人で三十三天の全体を治めることにしたらどうであろう」という考えが浮かんだのです。
しかし、マンダートゥ王には、帝釈天を殺すことはできませんでした。それどころか、この欲は、マンダートゥ王自身を破滅させるものとなったのです。この欲が王の心の傷となり、彼の寿命に衰えが生じました。人間の体は、天界にあっては、壊れることはありません。寿命に傷がついたマンダートゥ王は、天界から、人間界に墜ちることになりました。マンダートゥ王は、人間界の王の宮廷に墜ちました。
宮廷の園丁(えんてい)が、マンダートゥ王が天界から降りてきたことを宮中に知らせ、城内の人々がそこに集まりました。マンダートゥ王のために、宮廷に立派な臥所(ふしど)が設けられました。衰えたマンダートゥ王は、そちらで臨終の床に就くと、次のような遺言を述べました。
「余が亡くなった後、汝らは人々に次のことを伝えよ。『マンダートゥ大王は、二千の島に囲まれた四つの大陸で、八万四千年の長きにわたって転輪王として君臨し、その後、より長きにわたって四大天と呼ばれる天界を統治し、その後三十三天に昇り、三十六人の帝釈天が王位を交代する間の長きにわたって三十三天を統治した後、死んだ』と」。マンダートゥ王は、そのように言い遺した後、息を引き取りました。そして業に従って、生まれるべきところに生まれ変わって行きました。
お釈迦さまは、過去の物語を終えられた後、次の詩句を唱えられました。
陽(ひ)と月の
輝きわたる天(あま)の下
地上に住めるものはみな
マンダートゥ王の僕(しもべ)なり
金銀、財宝の雨、降るとても
欲は、未だ満たされぬ
欲こそ苦(にが)き苦痛だと
知りてこそ、賢き人となる
清き天の欲でさえ
快楽(けらく)を満たすことはない
欲、滅尽(めつじん)の意志ありてこそ
正覚者(しょうがくしゃ)の弟子となる
お釈迦さまは、つづいて四つの真理を説き明かされました。女性に恋いこがれていた比丘は、その法話を聞いて、預流果(第一段階の悟り)を得ました。他の多くの比丘たちも真理に目覚め、預流果や一来果や不還果などの悟りを得ました。お釈迦さまは、「その時のマンダートゥ王は私であった」と言われて話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
「欲しいものをもらえて良かったね」
「喜んでもらえて良かった」
このような言葉は日常よく使います。欲しいものをもらえれば問題は解決だと思っているのです。これは本当です。欲しいものをもらえば問題は解決です。しかし、解決するのはその問題だけです。何かを欲しいと思うことになったら、その瞬間から心の落ち着きがなくなります。欲しいものを何としてでも手に入れようとして、それが得られないと、心が悩み苦しみを感じるのです。「元気で生きている」と見栄を張って我々がやっているのは、他でもなく、ただ「欲しいものを手に入れる」行為なのです。
「欲しいものを手に入れる」ため、合法的な手段をとる。正しい方法で得ようとする。少々強引な行動もする。結構強引で無理な行動もする。違法的な手段もとる。手段を選ばず得ようともする。罪を犯してまで手に入れようとする。人は「欲しいものを手に入れる」ために必死です。ということは、「何かが欲しい」という感情こそ、耐え難い苦しみだということです。それが耐えられる程度なら、七面倒くさい手段をとることはしないのです。いい加減、忘れてしまうのです。しかし、欲しいものをいとも簡単にあきらめる人なんかは、いるでしょうか。罪を犯してでも手に入れたくなるぐらいなのだから、「欲しいという気持ち」は、人に大変な苦しみを与えるのだと理解するべきなのです。
欲しいものが手に入れば、その苦しみがなくなるのです。だから俗世間での正しい生き方は、「欲しいものを手に入れる」道になっています。欲しいものを手に入れる努力をしない人は怠け者。努力しても欲しいものが手に入らない人は失敗者。欲しいものを何でも手に入れる人は成功者。欲しいものを必要以上に大量に取得する人が大成功者で模範的な人。これが、俗世間の評価表です。
しかし、皆、「欲しいものがある=心に悩み苦しみがある」という等式は知らない。実際は、欲しいものが沢山あるなら、無量にあるなら、沢山の悩み苦しみ、無量の悩み苦しみがあるということなのです。ですから、大成功者とは羨む存在ではなく、大苦難を味わっている憐れむべき存在なのです。では失敗者は幸福ですか?違います。その人には、欲しいものがあるという要求苦と手に入らないという苦がある。苦の2乗です。その人も憐れむべきなのです。
「欲しいものが手に入ったら、その問題は解決する」と書きました。しかし要注意です。解決するのは「その問題」です。他の問題でも、これから現れる問題でも、すべての問題でもありません。人間は、欲しいものが一つ手に入ると、たちまち別なものが欲しくなる。それを満たすとまた別なもの…と限りなく続く。それで限りなく苦が続く。たとえ大成功者であっても、欲しいもの全てが手に入るわけではありません。手に入るのは欲しいものの中のほんの僅かな量です。ですから受ける苦は苦の2乗で止まりません。
「欲しいものを一つ残らず手に入れることができても、結局はダメだ」と、このジャータカ物語で教えているのです。
苦しみをなくすための仏教の解決方法は、「欲しいものを手に入れる」ことではありません。なぜなら「また別なものを欲しくなる」。ということは、「欲は満たせない」のです。これが心の法則です。心が限りなく欲を作り出すから、心自体が限りなく苦を感じているのです。苦をなくすためには、「欲しいものを手に入れる」という無駄な無意味な行為を止めて、心の中に棲(す)みついている「欲」という病原菌を取り除くのです。