充実感こそ最高の財産
今、この瞬間を生き切ればいい
アルボムッレ・スマナサーラ長老
比丘たちよ、この道は、有情が清まり、悩みと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いを滅し、
大念処経
聖なる道を得、涅槃を体験するための唯一の道である
1 幸福の扉を開いて
暗闇を照らす灯火
「仏教は嫌い」という人が結構いるようです。西洋や日本の学者たちの中には「仏教は暗い教えだ。『生きることは苦しみである』と説いて、生を否定しているのではないか。社会の発展には大きな迷惑だ」とさんざん非難する人もいます。
それは誤解です。彼らははじめから「非難しよう、何か欠点はないか」という目をもって仏典を読み、適当なところを一行か二行だけ抜きとって、それから自分の意見を成立させようとするのです。証拠に基づいて語っているわけではないのです。
お釈迦さまの教えは幸福の教えです。心の平安、心のやすらぎを得る教えです。『大念処経』の冒頭には、「この道は有情を清め、悩みと悲しみを乗り越え、憂いと苦しみを滅し、聖なる道を得、涅槃を体験するための唯一の道である」と明確に断言されています。
この言葉を見ても、お釈迦さまが幸福とやすらぎを語った人だということは明らかにわかると思います。
世界宗教
人類の歴史上、数ある宗教の中で最初に現れた世界宗教は、お釈迦さまの教えです。このことは宗教学的に考えてみればおわかりになると思います。
世の中には様々な宗教がありますね。ものすごく古いゾロアスター教、インドで生まれたバラモン教(ヒンドゥー教)、旧約聖書に基づくユダヤ教、イエス様の新約聖書に基づくキリスト教。それから中国にも老子や孔子、孟子などによる宗教的な思想がたくさんあります。
また、インドにはもうひとつ、ジャイナ教という宗教があります。ジャイナ教は仏教よりも古い宗教で、インドの国以外には出ていませんから皆さまにはあまり知られていないと思います。そしてイスラム教があります。
これら諸々の宗教を観察してみると、国際性が乏しいように思われます。たとえば、ヒンドゥー教にはカースト制度がありますね。これはインド社会のシステムのことで、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラという四つのカーストが設定されています。
そうすると、この宗教はインド人だけのものになってしまうでしょう。なぜなら日本にはカースト制度がありませんからね。バラモン人は一人もいないし、クシャトリア人とか、ほかの階級の人もいません。それから文化もまったく異なります。だから日本人にこの宗教は適用されないのです。日本人だけではなく、中国人やヨーロッパ人、アフリカ人の宗教にもなり得ません。このようにヒンドゥー教は世界宗教になりにくい特色を持っているのです。
ユダヤ教はどうでしょうか?これもユダヤ人のための宗教です。キリスト教のイエスさまも、あちこちで民族主義的なことを語られていました。それからイスラム教はものすごく民族主義的な宗教です。万人に共通するところはほとんど見られないのです。
中国の思想を見ても、老子の教えには普遍性と哲学性はありますが、それ以外の思想家たち、たとえば孔子や孟子の思想は中国的なものでしょう。では日本の古い宗教の神道はどうでしょうか?これも日本人だけの宗教ですね。外国人に教えることはできませんし、たとえ教えたとしてもその内容を理解できないと思います。
お釈迦様の教えに神々も驚く
このように世界にある諸々の宗教は、どれも民族的な傾向があって、国際性に乏しいと思われます。
それに対し、お釈迦さまは世界で初めてこうおっしゃったのです。「人類は一色である。人類を差別することはできません」と。人と人の間に何か違いがありますか?何もないでしょう。人類は一つ、一色なのです。お釈迦さまは生きている間、多くの言葉を語りました。しかし、差別的な言葉、民族的な言葉を使ったことは一度もありませんでした。分け隔てなく、すべての人類のために語られたのです。
それだけではありません。次元はもっと広いんですよ。お釈迦さまは人間だけでなく、それ以上の、人間が拝んで尊敬している神々にも、「この教えを勉強してみなさい。これが真理です」とおっしゃったのです。
神々でも、自分の心を救いたい、やすらぎを味わいたい、苦しみたくないと望むのならば、お釈迦さまの教えを実践するしかないというのです。そのぐらい大胆に語られたのです。
初めも、中も、終わりも美しい教え
あるとき、お釈迦さまは六十人の悟った弟子たちに、このようにおっしゃいました。「比丘たちよ、多くの人々の利益と幸福の為に諸国をめぐり歩いてください。そして法を説いてください。初めも美しい、中も美しい、終わりも美しい、この法を説いてください。人類と神々の幸福のために、意味のあるこの教えを伝えてください」と。
ここで、仏教は美しく素晴らしい教え(excellent,nice)だということがおわかりになると思います。決して悲観的な教えではないんですね。続けて、「大勢の人々が苦しみ、悩んでいる。幸福の道がどこにあるかわからずに、ただもがいている。だから歩きなさい。法を説きなさい」と。
お釈迦さまはなぜこのようなことをおっしゃったのでしょうか?それは、お釈迦さまの限りない慈悲の心から発しているのです。決して大きな宗教組織をつくろうとしたわけではありません。無量の慈しみの心がそうさせたのです。このようにして、何もモノを持たない比丘サンガが設立されました。
比丘サンガの唯一の目的は、多くの人々に仏教を語って歩きまわることなのです。
褒められても非難されても揺るがない心
仏教を語る人々は、お釈迦さまが説かれた教えを正しく明確に伝えることに努めています。ですから、説法を聴く人たちから褒められても非難されても、舞い上がったり機嫌が悪くなったりしませんし、皆さんの機嫌をとるために、真理をねじ曲げて話すこともないのです。
人間の思考は根本的に間違っていますから、仏教に対して反論が出るのはごく普通のことなんですね。ですから、本当に真理を知りたくて反論する人々に対して、私はできるだけ親切に丁寧に答えようとします。
しかし、いつでもやさしく丁寧な言葉を使うとはかぎりませんよ。ときには「ドキッ」とするようなきついことを言うときもあります。その場合でも、仏教は必ず責任をもって話しています。たとえ社会を批判しても、個人に対してきついことを言っても、それには責任を持ちます。「なぜそのように言ったのか」ときちんと論理的に説明もします。人を叱ったまま逃げるような卑劣な態度はとりません。もしこちら側に何か間違いがあったならばその処理もします。それがお釈迦さまの教えの特徴の一つなんですね。
仏教を語るときは、人々が「なぜ苦しんでいるか」「なぜそんなに心が重いのか」「何に悩んでいるのか」などをよく理解して、それから問題の部分を手術したり、摘出したりしなくてはならないのです。それが聞く人にとってちょっと痛く感じられるかもしれません。皆さまが戸惑うのはそのあたりだと思います。
でもそれは一時的な痛みにすぎないのです。先ほども言いましたが、仏教は世の中で最初に現れた世界宗教です。普遍的な教えです。これは人間でも神々でも、実践すれば即座に心のやすらぎを味わうことができる「幸福の教え」なのです。
この施本のデータ
- 充実感こそ最高の財産
- 今、この瞬間を生き切ればいい
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2002年9月