ジャータカ物語

No.94(2007年10月号)

スジャーター物語

Sujātā jātaka(No.269) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダが祇園精舎におられた時のお話です。

祇園精舎をサンガにお布施したことで知られるアナータピンディカ長者の息子は、大富豪として高名なダナンジャヤ長者の末娘、スジャーターと結婚しました(彼女はヴィサーカー夫人の末妹にあたります)。名高い名家の娘スジャーターは、アナータピンディカ家を名誉で満たしながら嫁入りしてきました。しかし彼女は自分の家柄を笠に着た高飛車で高慢な女性で、すぐに声を荒げて大声で怒鳴りつけるような乱暴者でした。夫の両親や夫に仕える気持ちなど少しもありません。すぐに使用人を怒鳴ったり打ったりして、威張って暮らしていました。

アナータピンディカ家では、毎日、サンガへの豪勢な食事のお布施を用意し、比丘方を歓待しています。ある日の食事時、お釈迦さまは、五百人の比丘たちを従えてアナータピンディカ長者の家に行かれ、用意された上座に坐られました。大長者は釈尊の傍らに坐り、お話をお聞きしていました。

ところがそこに、スジャーターが大声で召使いを怒鳴る声が聞こえてきました。釈尊は法話を中断され、「これは何の物音か」とたずねられました。アナータピンディカ長者が「世尊、これは、不敬なわが家の嫁でございます。彼女は、姑にも、舅にも、夫にも仕えようとせず、布施もせず、戒も守ろうとしません。信もなく、心清らかにすることもなく、朝から晩まで皆に威張り散らしております」とお答えすると、釈尊は「では、ここに呼びなさい」とおっしゃいました。

スジャーターは、やって来て、釈尊に礼をして傍らに立ちました。師は彼女に、「スジャーターよ、妻には、七種の妻がいる。あなたは、その中のどれだろうか」とたずねられました。彼女が「世尊、そのような簡単な問いでは、意味がわかりません。意味を説明してください」と言うと、釈尊は「では、よく聞きなさい」と、次の教えを説かれました。

心は邪悪(よこしま)、思いやりなく
他の男には心寄せ、夫のことはないがしろ
さような妻は、怖ろしい、殺す妻と呼ばるなり

夫が、技芸、商売、耕作で、妻のためにと儲けた財
利己的な心でそれを見て、掠(かす)め取ろうと狙う妻
さような妻は、信置けず、盗む妻と呼ばるなり
 
働くことを好まずに、怠けて、一日貪食し
粗暴、強情、言葉激しく、下女を虐げ、日を送る
さような妻は、怠惰なる、高慢な妻と呼ばるなり

いつも相手の利を思い、母のわが子に対すごと
常に夫を守り見て、夫の財を良く守る
さような妻は、慈愛ある、母のような妻と呼ばるなり

妹が姉を見るように、夫のことを尊敬し
控えめに、かわいく夫に従う
さような妻は、謙虚なる、妹のような妻と呼ばるなり

常に夫を見るときは、心喜び、楽しみ溢れ
あたかも長く別れたる、親友と再び出会うよう
躾あり、品よく夫に従う
さような妻は、徳のある、友のような妻と呼ばるなり

罵ののしられても静かにて、加害の杖にも心汚れず、
怒ることなく夫に接す
さような妻は、優れたる、下女のような妻と呼ばるなり

スジャーターよ、これら七種の妻の中で、殺す妻と、盗む妻と、高慢な妻は、死後、地獄に生まれる。他の妻たちは、死後、化楽(けらく)天という天界に生まれるのだ。

ここに妻あり
殺す妻、盗む妻、高慢な妻、さように呼ばるる悪しき妻
戒を守らず、粗暴にて、敬意などかけらもなし
寿命尽きては、地獄に堕ちる

ここに妻あり
母のよう、あるいは、妹、友のよう
さらに、下女のようとも呼ばるる妻女
彼女たちは、よく戒守り、己を制御し、こころを護る
寿命尽きても、天に赴く

お釈迦さまのお話しを聞いたスジャーターは、たちまちにして心が変わり、ついに預流果の悟りを開きました。釈尊が「スジャーターよ、この七つのうちの、どの妻になるのか」とお訊きになると、彼女は「世尊、私は下女のような妻になろうと思います」と言って、今までの悪業の許しを乞いました。

そのように、釈尊は、アナータピンディカ家の困りものの嫁を、一度の諭しで躾られ、祇園精舎に戻られました。そして、比丘たちになすべきことを指示された後、ご自分の香室に入られました。

比丘たちが法話堂に集まって「友よ、世尊はたった一度の法話でスジャーターの心を変え、預流果の悟りを得させられた」と釈尊の徳を讃えていました。釈尊が来られて皆の話についてお訊きになり、比丘たちがお答えすると、「過去においても私は、一度の諭しで彼女の心を和らげたことがあった」とおっしゃって、請われるままに過去の話をされました。

 

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はその国の皇太子として生を受け、父王の死後に即位し、法に則って国を正しく治めました。前王の第一王妃であった菩薩の母は、わがままで怒りっぽく、強情で言葉が荒く、すぐに人々を厳しく叱ったり怒鳴ったりする性格でした。菩薩は母親を諭したいと思いましたが、「そのことを唐突に話すのは適当ではない」と思い、忠告すべき時機を待っていました。

ある日、菩薩は、母親と家来たちを連れて御苑に出かけました。御苑への道すがら、青樫鳥という鳥が、ひどい声で、うるさく鳴きわめきました。皆、「なんてひどい鳴き声だ、なんて粗野な嫌な声だ、これ以上は聞きたくない」と耳をふさいで嫌がりました。

御苑に着いて、菩薩が皆を従えて散歩していると、美しく花が咲いたサーラ樹にとまったコーキラ鳥が、すばらしく美しい声で鳴き出しました。人々はその美声を喜び、「なんて穏やかな旋律だろう、なんて親しみのある声だろう、何と柔らかい響きだろう。鳥よ、どうかもっともっと鳴いておくれ」と、首を伸ばして立ち止まり、鳥を眺めながら、その声に聞き入りました。

菩薩は「今こそ母に話をする好機だ」と思い、「母上、こちらに来る途中に聞いた青樫鳥の粗野な鳴き声には、皆、嫌がって耳をふさぎました。粗野な声を好む者はいないのです」と、次の詩句を唱えました。

身は麗しき色そなえ
声よく、見目麗しきその女も
言葉荒けば、愛しからず
この世においても、他の世でも

君よ、見ずや、
色悪く、醜い斑点ありとても
コーキラ鳥の、柔和なる
美声、人々に、いかに愛さるるかを
 
さればこそ、親しき言葉を語り、
賢き、こころ穏やかなる者は、
その語るところ美しく
意義と理法を説き明かす

それを聞いた菩薩の母は深く反省し、以後は正しい行いの人となりました。二人は、死後、それぞれ自分の業に従って転生していきました。

お釈迦さまは、「その時の母王妃はスジャーターであり、息子の王は私であった」と言われ、過去の話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

人間同士のつきあいは、ほとんど言葉なのです。動物たちも声は持っていますが、人間のようにしっかりしたコミュニケーションは成り立たないと思います。人間の世界では、すべての物事に言葉が介在しています。言葉が全智全能者の如く、われわれを支配しているのです。しかし、言葉というのはわれわれ人間が使うものです。人は言葉を持って生まれるわけではありません。言葉は、生まれてから学ぶものです。品格のよい、美しい言葉を学ぶことができれば、その人に人生を成功することができるのです。もし学んだ言葉が不完全で品格のない荒いものであるならば、その人が行うことは何一つうまくいかないのです。

仏教は、言葉に対する道徳は厳しいのです。人が正しい言葉を使うべきであるのは当たり前のことです。道徳とは、自分自身を幸せに導くものなのです。また、他人に幸福を与える行為なのです。人間の世界はほとんど言葉が介在しているので、言葉に対する道徳は重大な課題です。言葉の重大性は仏教以外の教えではそれほど気にしていないようですが、言葉には神秘的な力があるという考え方はよく見られます。ものの見事に美しい単語で詩を作って讃美歌を歌うと神が実在していることがわかると、固く信じているのです。呪文などの言葉で人の運命を左右することもできると、信じ込んでいるのです。言葉の力を客観的に理解していないから、このような迷信的な信仰に陥るのです。

まさに言葉には、力があります。われわれは言葉を聞いて反応するのです。聞いた言葉に対して反応しないでいることは、できないのです。他人との関係は、言葉というチャンネルで成り立っているのです。荒い言葉で言われたら、言われた人が嫌な気持ちを抱くのは当たり前です。「この人の言葉はとても乱暴で失礼で場違いだが、私はこの人に親切に対応しなくてはいけない」と思うことは、まず無理です。自分の小さな子供であっても、まだ言語の使い方を習ってもいない我が子にさえ、乱暴な言葉を言われると母親は心臓が刺されたような気持ちになるのです。ですから、人間たるものは、自分の幸福を目指して、他人に幸福を与えることを目指して、美しい、穏やかな、聞き心地の良い言葉を使えるように訓練しなくてはいけないのです。美しい優しい言葉を使う人は、自分が品格の良い、育ちが良い、性格が良い、信頼できる人であることを、間接的に他人に実感させているのです。

経典では、耳当たりの良い、知識人の交わす、心が感動する、有意義な言葉をしゃべるべきだと説かれています。言葉を介して罪を犯してはならないと説かれている仏教では、巧みな言葉を使いなさいという戒めも問題になりませんが、「言葉巧み」というだけでは危険です。巧みな言葉は詐欺師の唯一の武器にもなります。いかなる行為も慈しみの気持ちで支えられているべきです。慈しみに支えられた美しい巧みな言葉は、それを語る人に、また語られる人に、無量の幸福を与えるのです。荒い言葉は猛毒だと思って、徹底的に避けるべきなのです。

人の過ちも、言葉をもって正さなくてはならないのです。人の過ちは、それなりに直してあげることができます。しかし人は、決して母の過ちを直そうと思わない方がいいのです。その気になれば山を動かすことさえできる。しかし子供に母親の過ちを直すことはできないのです。母親に対しては、ものを言う言い方があるのです。このジャータカ物語は、それをわれわれに教えているのです。「お母さんの言葉は、コーキラ鳥の声よりは、青樫鳥の声に近いようですよ」と我が子に言われると、母親は考えるものです。母にとって、何よりも最悪なのは、子供に嫌われることです。菩薩は、母の心を傷つけることなく、長い間考えていた躾を、適切な機会を逃さずに言ったのです。良い言葉であっても、やはり語るべき時間と場所というものがあるのです。