悟りへの宿題
パティパダー2007年3月号(115)
冥想がうまくいくと自我が強くなると聞いたことがりますが、それはどういうことですか。
それはサマーディ冥想(サマタ冥想)の話だと思います。サマーディ冥想とは、あらゆる対象を認識して混乱状態に陥っている我々の心を一つの対象に集中することです。集中力はとても素晴らしいことで、集中力と同時に喜悦感・幸福感が生れます。冥想で経験する幸福感は、日常生活の中でいかなる贅沢をしても得られない程の幸福感なのです。なぜサマーディ冥想をするのかというと、この喜悦感・幸福感を体験した人は、俗世間の快楽に対する未練をなくすことができるからです。また、その人の心は上達しているので、怒り、昏沈睡眠、掉挙、後悔、疑などの障碍も機能しなくなるのです。ブッダの教えにしたがって実践するならば、自我が強くなるはずもありません。
サマーディというのは、「一体感」(そちらに色々レベルもありますが)です。そこでよくある問題は、この一体感を経験した人が、その経験を自分が信じている宗教の教えに照らして推測することです。例えば、「梵我一如」になった、真理と一体になった、神と一体になった、大宇宙と一体になった、真理に達したなどと思って、自分の経験に強くしがみつくのです。しかし、一体感は解脱ではありません(仏教の立場)。経験があっても、なくても、生命は大宇宙の一部であることには変わりありません。「現象世界は真理だ」とするならば、初めからもそれと一体なのです。ということは、何も変わってないということです。輪廻から脱出してないということです。
しかしその修行者に「その宗教体験は措いておいて、ものごとの瞬間瞬間起こる変化を確認して下さい」と言っても、その気持ちになれないと思います。絶対的な「我」と個我に二分化して存在を解釈する教えを信じる修行者の、絶対的我と一体になったと思う経験は、「強化した自我」そのものです。
サマーディまでいかなくても、冥想すると、不思議な、常識では理解できない経験をすることは普通であり、また、避けられないことでもあります。あまり真理について勉強してない人は、その不思議な経験に固執するのです。それ以上にさらに何かがあると思わないのです。自分の経験で全てを説明しようとするのです。これも、自我というべきところです。仏教心理学ではadhi māna(増上慢)です。慢も自我も結局は同じことです。
修行者の心に慢がうろついていることは決して良くありません。「私は冥想しているのに、仲間が、家族が、世間が冥想してないね」と思うこともやめるようにと指導されています。障碍になります。
私は今、何とか時間を作って真剣にヴィパッサナーの修行をしたいと思っています。ところがどうも、それが欲になって、自我が強くなっているような気がするのです。
そこは断言できません。問題は修行の動機ですね。修行する人にはそれぞれ「なぜ冥想するのか」ということがあるはずです。例えば、歳をとって子供たちも独立したし、老後であまりやることもないし、時間もあるし、冥想でもしようかなと思って修行することにする。そんなのは、すごくいい加減なように聞こえるでしょう? でも良いのです。それで結構うまくいくんです。その場合は、ただ時間を有効に使おうではないかということだから、欲ではないのです。
あるいは、時々、「私はとにかく悟りたいと決意しています。そのために必死でがんばっています」と言う人もいます。それは嘘でも何でもなく、本気でそう思っているのです。だからすごく格好良く聞こえるのだけど、そういうのはかえって自我が強くなってしまって、うまくいかない場合も多いのです。しかし、その人が修行を続けているうちに謙虚になってきて、うまく修行が進むこともあります。だから「修行したい、悟りたい」ということが自我を強くしてしまうか、そうならないかということは、一概には言いにくいのです。
一つ言えるのは、「健康のため、美容のため」などというレベルの低い目的で修行しても、それではうまくいかないということです。それは、はっきりしています。やはり「解脱」を目指すべきです。けれどもそちらに欲が絡んでしまうと、またうまくいかないのです。その辺りは微妙です。ライバル意識で、皆より上手になる気持ちで、優れた能力の持ち主になろうとする気持ちでする修行の動機は、よく分かるでしょう。とりあえず、中正な立場で、心の汚れをなくしたい、苦しみを乗り越えたいという動機で修行するのが安全だと思います。
結果は向こうからやってくるものだと思っていた方が良いですか。「悟り」というのは、自分がたどり着くのではなくて、いろんなことが整えられて、あちらからやってくるものなのでしょうか。
それは禅宗的な考え方ですね。俗世間ではそのように言った方が分かり易いかもしれませんね。俗世間ではものごとを実体論的な立場で考えるのです。無常・苦・無我の立場で、俗世間は思考しないのです。ですから「悟り」は向こう側からやってくるものだといって、自我を控えることにするのです。自我を控えることは修行の必修条件ですからね。しかし、テーラワーダではその表現を使いません。
「なる」ことだと理解したらいかがでしょうか。「得る」と違います。私は「捨てる」プロセスだとも言いますが。
どんなことも、強引に「なる」ことはできませんね。それなりの条件が揃ったら、すでに、「なっている」のです。例えば、「親になります」と言ったからといっても、誰でも親にはなりません。自分の子供が生れた瞬間で、既に「親」なのですね。
修行の場合は、智慧が進むと同時に煩悩がなくなっていくのです。例えば、ものは無常だとわかったら、自分も他者もその他の現象も瞬間的なものだと発見する。そうすると、怒る、欲張る、執着する理由が消える。それで、自分はなんのことなく、怒れない人間に「なっている」。ですから、「悟りたい」でもなく、修行を進めて、条件が揃うように励むしかないと思います。修行は、自我という幻想をなくすプロセスです。初めから、「なりたい」「得たい」「達したい」などと思うと、それも自我感になるのは避けられませんね。
しかし、誓願は必要です。心は本来怠けものでしょう。すぐに手応えのある結果がないと、修行をやめたくなるのです。その上、冥想は結構し辛い行為です。だから「煩悩をなくして心を清らかにするぞ」と自分で誓願を立てるのです。それが精進になります。精進するのはどこまでですかと訊かれると、ブッダの答えは、「結果が出るまで」です。
難しいですね。
確かにそれほど単純ではありませんが、「必要なことをしている」「有意義なことをしている」「無駄な無意味なことをしているのではありません」と理解しておけば大丈夫でしょう。
俗世間では、努力してもらうために、競争心、ライバル意識などを使いますね。これらは心理としては「怒り」ですから、良くない結果になります。又、賞金、給料、ボーナスなどの誘惑でがんばると「欲」になってしまいます。どちらもストレスになるし、失敗したらかなり悔しい気持ちになります。ですから、仏教的な正しい気持ちの奮い立たせ方を覚えておきましょう。
例えば、怒りをなくしたいと思って冥想するのはどうでしょうか。私は、自分の怒りの性格だけは直したいと思っているんです。
自分の欲や怒りをなくそうと思うのは悪いことではありません。今のままで結構だと思う人は冥想をしないでしょう。誰でも、一般的に「良くなりたい」と思って冥想をするのです。しかし、実際に修行する時は、自分で自分をどうしようこうしようと考えるのではなく、ただ客観的に観察していく。その基本を忘れてはなりません。
心理状態も因果法則なので、性格が良くなる時も因果法則によって起こるのです。ゴミが溜る時も因果法則です。ゴミを捨てる時も因果法則です。ゴミの山があったら、最初の頃に溜ったゴミを捨てるのは、最後になるでしょう。性格改良の時も同じことです。
ですから、とにかく冥想の時はできるだけすべての思考をストップすることが大切です。「直す」という思考も、冥想中は余計なのです。思考の停止に挑戦する。それで自然に直っていきます。
修行する時の気持ちの持ち方を考えることも、余計な概念になって、修行の邪魔になってしまうでしょうか。
冥想とは、思考を止めて今を気づいていくことです。その覚悟が修行者の気持ちの持ち方です。何も考えず、自分でプログラムを変えようとしないで、言われた通りに実践する。そうすると手応えのある結果が出ると思います。
パーリ語で「冥想」をbhāvanāと言いますが、もう一つ、kammaṭṭhānaという言葉もあります。これも「冥想」と訳されています。カンマッターナは、実は、「宿題」という意味なのです。「宿題をやりなさい」というのが、どういう態度で冥想するべきかという問いに対する、伝統的な答えなのです。
その時には、余計なことは考えないのです。例えば、テレビのクイズ番組には懸賞金も罰ゲームもあるでしょう。懸賞金は欲しいし罰ゲームは嫌だから、ご褒美と脅しですね。しかし参加者は、とにかく何も余計なことを考えず、出された問題に答えるべきでしょう。冥想もちょっと似ています。ご褒美と脅しがあって、ご褒美とは「修行すれば悟れる」ということです。しかし、「悟り」とはどういうことか、その意味がわからないのだから、うまく機能しません。また、修行の脅しというのは「修行して悟らないと輪廻の苦しみから逃れられない」ということですが、この「輪廻の苦しみ」というのも難しくて、誰にもわからない。だからなかなか脅しにはならないのです。とにかく、ご褒美も脅しのことも気にせずに、冥想実践することですね。
言われた通りにやらないと、どうなるのでしょうか。
よく使う例えです。幼稚園児が自分が将来やりたいこと、なりたいことなどを、全て自分で計画を立てるとする。その子は親に訊いたり、テレビのアニメーションからヒントを取ったりもするかもしれません。しかし、それで上手くいくと思いますか? 理想的には、自分の将来なのだから、自分で計画を立てられればありがたいでしょう。しかし、その能力、経験、知識はありません。将来が見えていません。今の気分だけです。今の妄想だけです。その子が幸福な大人になりたければ、親、教育制度、社会が設定するプログラムをこなさなくてはならないのです。いわゆる、先輩、経験者、成功者のアドバイスを受けること。それが理性なのです。
冥想の場合は、完全たる悟りを開いた智慧の完成者、ブッダのアドバイスを受けることになります。指導者の責任も、ブッダのアドバイスをそのまま相手に理解できるように伝えることです。自分の好みで、相手の気分に合わせて、書き換えをしてはいけないのです。