あなたとの対話(Q&A)

勝利者の生き方

パティパダー2007年11月号(123)

いくら良いことをしても、根底に怒りがある場合は悪い結果が出ると聞きました。私はすぐ悪に対して腹が立つのですが、例えば誰かがいじめられているのを見て怒りが出た時、それに対して怒りで何かをすると悪行為になるし、見過ごすのもダメだと思うのです。その場合も怒りが出た瞬間に怒りが消えない限り、悪い結果の種を蒔かざるを得ないということですか。

蒔かざるを得ないというより、腹が立った時点で、悪い種を蒔いているということになります。

では、何もしない方が良いんですか。

「自分は悪に対してすぐ腹が立つ人間だ」という自分の悪さに気づきたくないのではないでしょうか。人間が成長しないとどうにもならんという話です。我々は、常に「もう少々、精神的に上の段階に成長しなくてはいけない」と思わないと、結局は何をやってもダメなんです。
 
「悪い種を蒔かざるを得ない」というのは仏教的な答えではありません。他宗教ではこのような倫理があるようです。自分の主義・信仰を貫くためには悪を犯しても構わない、しょうがないという考えですね。しかし、他人の悪ばかりを見て「いけないことだ、いけないことだ」と思い、一日中怒りっぱなしでいる人のこころはどういうものになるでしょうか。
 
「怒ってしまったら、その時点で悪い種を蒔いてしまっている。それではダメです。もうちょっと人格的に成長しましょう。進化しましょう」というのが仏教の世界なんです。人格が向上しない限りは、仏道にはならないんです。

それは、怒りを出さないようにするということですか。

そうです。怒りが出ないようになる方法があるでしょう。それについてはお釈迦さまが明晰に語られているのです。それは、「慈しみ」です。悪いことをする人を憐れむのです。「あんたそんなことをやったら自分が大変だよ」「もっと幸せになれよ」という気持ちです。その人のことを思う存分心配する気持ち、憐れむ気持ちが自分のこころに現れてくると、相手も悪いことを止める気になるのです。
 
「なぜ悪いことをするの?」「止めなさい」「全くも信頼できない悪人だ」などの言葉で相手の過ちを正そうとしても、良い結果はほとんど出てこないと思います。正そうとする人のこころも怒りで汚れている。相手のこころも汚れている。臭いものを臭いもので拭いても、よい香りになるよりは、さらに悪臭を放つでしょう。
 
 こちら側が怒っていると、相手を軽視する気持ち、見下す気持ちになっている。だから簡単に相手の人格・尊厳を侮辱する言葉が口から出てしまう。相手の過ちを正すというのはたてまえで、自分のこころを怒りで汚している上に、他の生命の尊厳まで壊すようなことをしているのです。どちらがより思い悪を犯しているのかとわからなくなるのです。
 
「悪いことだ、止めなさい」と注意しても、素直に受け入れてくれない、言うことを聞いてくれないということは、この世で普通ですね。人を苛めたりする人々も、自分が立派なことをやっているとは思ってないのです。しかし人のアドバイスには耳を傾けない。それは、アドバイスする人のこころが怒りで汚れていて、語る言葉が相手の尊厳を侮辱しているからです。悪行為を非難しているのではなく、その人を非難しているのです。生命は平等なので、誰にも他の生命の尊厳を侮辱する権利はないのです。殺生、盗み、邪淫、嘘、噂、粗悪語が罪になるのは、相手の命の尊厳を軽視したり、侮辱したり、見下したり、壊したりするからです。自分の人格を、自分自身で「平等」の立場から降下させるからです。
 
 ですから、答えは、何があっても生命に対して慈しみでいることです。憐れみでいることです。メッターとカルナーです。これが自分のこころにあるならば、その人には世の悪いところを直せます。人を良い人間に育てることができるのです。

私達は無明の中にいるので、慈しみとはどうすれば正しいのか、わかりにくいと思うんです。例えば、世間では相手が間違ったことをしていても「だいじょうぶだよ」と同情する人が優しい人だと言われることがよくあります。相手の間違いを直したりするのは、かなり智慧が必要だから、難しいです。

正しい道を歩みたいと思うならば、俗世間に自分を合わせることを止めるのです。我々は誰でも、生まれつき、何が正しいか、何が悪いのか、わからないのです。ですから、目上の人々、理性のある人々、自分のことを心配する、自分の成長を願っている人々からアドバイスを受けて、それを実行するのです。
 
 世間の定義は捨てた方がいいんです。世間様が真理を知り尽くして語っているわけではないのです。世間様は自分のことなど全くも心配してくれない。世間の言葉というのは、ほとんど無責任な言葉なのです。しかし我々は、世間の言葉に振り回されてしまいますね。それは、無知があるから、気が弱いからです。
 
 本当は、私達に智慧がない場合は、いつでも賢者の言葉に耳を傾けるべきなのです。世間に耳を傾けてはいけません。

「優しい人」というのは世間でよく聞く言葉です。世間に認められるような優しい人間になろうと努力することも正しくないのですか。

誰にでも、「自分の機嫌をとる人」が「優しい人」として見えるのです。機嫌ばっかり取る人というのは、優しい人ではありません。逆に、自分から何か得ようとしている寄生みたいな存在なのです。
 
 自分に反対する人、自分の行為を正そうとする人を、「優しい、親切」だと言いたくはないでしょうね。この「親切」ということは、「当たり前でわかっている」という気分に陥り易いので、分別して学んだほうが良いと思います。
 
 我々は「人に親切な人になりたい、優しい人間になりたい」と思っているのですが、「優しい、親切」とはどういうことかとわからないのです。世間でいう「優しさ」の意味は、人によって変わるから、はっきりしない。自分が自分なりの定義で理解しても、それが正しいとは言い切れない。この問題をどのように解決するのでしょうか。
 
 生命は本来わがままなのです。自我中心的なのです。ですから、なんでも自分の好都合で理解したり、判断したりするのです。「私は優しい、親切だ」と思っってしたことも、私のエゴで見るとそのように判断できたということです。エゴをそのまま直さないでおいておくと不幸になるのです。他人にも迷惑になるのです。しかし、まずはエゴのことはおいておいて、道徳的になりましょう。そのための基準は、「自分に対して他人からしてもらいたくないことは、他人に対して行わない」「自分が他人からしてもらいたいことを、他人に対してしてあげる」という二つです。これで結構、優しい人間になれるのです。
 
 しかし、自分がしてもらいたいと思うことは、どんなことでも本当に、自分にとって善いことなのか? 長い目で見たら、悪い場合もあるのではないのか? 自分に対してしてほしくないと思うことは、何でも自分にとって悪いことなのか? これはわからないに違いありません。
 
 この問題を解決するために、お釈迦さまが、慈悲の実践を推薦するのです。慈悲の実践とは、いきなり他人に対して善いこと、優しいことをしてあげようと行動を起こすことではありません。慈悲の実践とは、エゴで汚れているこころを直すことです。エゴの気持ちが薄れて、一切の生命は平等であるとこころの根底から認められるように、感じられるようになるまで、慈悲の実践をするのです。わがままなこころが本格的に優しいこころとして生まれ変わったら、その人が他人に対して行う全ての行為は、親切な優しい行為になるのです。そうなったら、自分が他人に対してしたこと言ったことは、本当に善いことか悪いことかと悩まなくて済むのです。
 
 このプロセスを学んでないから、日常生活は、結構混乱に陥っています。母親が、子供の機嫌が悪くなるのは可哀そうだと思って、言うべきことも言わない、叱るべき時叱らない、子供のわがままを何でも聞いてあげる。友達同士でも似たようなことがよく起こる。相手の気に触ることをやらないつもりですが、本当は自分が損をしたくはない、嫌われたくはない。エゴです。トラブルは避けられません。
 
 そういうことでは、自分が育てなくてはいけない人々を正しく育てることは出来なくなる。それでもがんばろうとすると、相手の命の尊厳まで壊して、最悪の結果を招く。ですから、慈しみは全ての問題を解決してくれると理解して、お釈迦さまの説かれた通りに生きてみれば、完全安全です。

仕事をしていて、理性的になろうと思っていても、怒りの感情が出てしまうことがよくあります。その嫌な感情をサッと流せた時はいいんですが、いつまでも消えない時はだいたい悪いことが起こります。最近はそういうことが多くて困っています。

おっしゃる通り、怒りは、出てこないようにするのが一番ですが、出てきたら瞬時に消すべきですね。
 
 そのための一つの方法は、怒りというのは負ける人の特色だと覚えておくことです。怒りは敗者の世界です。怒る人は人生の負け犬になるのです。たとえものごとがうまく行かなくても、怒らない人は、負けません。
 
 ものごとがうまく行かないというのは、自分のせいとは限りません。①自分のせいの場合もあるし②他人のせいという場合もある。③両方の原因の場合もあるし、④どちらにもどうすることもできない場合もある。うまく行かない場合、原因はその四通りあります。でもどんな場合でも、怒ったり、気が立ったり、落ち込んだりする人は、負けです。決してその問題を乗り越えて成果を得ることはできません。
 
 人間には不幸も来るし、幸福も来る。褒められることも、貶されることもある。認められることも、否定されることもある。得することも、損することもある。我々は、上がったり下がったりするこれらの波の上で生きていかなくてはならないのです。しかし、どうせ人間は自分の好都合で、エゴ中心で物事を判断するから、良いことだけを希望する。
 
 人間に能力、才能、理性があるか否かは、不幸に出会った時にわかるものです。不幸に出会った時、希望通りにものごとが行かない時に、怒ったり、落ち込んだりするなら、理性がないのです。才能がないのです。能力がないのです。
 
「不幸になる時はドンドン不幸になる。失敗すると次から次へと失敗する」と、よく言われるのです。普通はその通りです。しかし、怒らないで、落ち込まないで、自分の理性の、能力の、才能の出番だと思ってまとめて処理するならば、だいじょうぶ。それが勝利者の道だと覚えておけば、うまく行くと思います。